表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
64/64

第64話 私は誰か、漁港は罠だ

 路地は暗い。一歩踏み出すごとに、闇が深くなる。陳国華邸から路地へ逃げ込む。足が勝手に動く。曲がり角を見つける。


 立ち止まる。背を壁に預ける。息を吸い込もうとする。


 肺が逆らう。胸が波打つ。呼吸が浅い。指が痙攣する。


 拳を握る。骨が軋む。手の平に爪が立つ。


 壁の冷たさが、背中から伝わる。耳朶で脈打つ鼓動だけが騒ぐ。


 路地の先を睨む。安全な場所まで、あと三ブロック。


 深呼吸は後回しだ。今は、移動しろ。


 壁から離れる。足を速める。影に溶け込むように歩く。


 理由は一つ。角で立ち止まる間も、隙だ。三叩きのリズムは、すぐ後ろで聞こえている。 帰宅した。自室のドアが閉まる音が、背骨に響く。ベッドサイドのケースを開ける。


 戦術ベスト、通信機、暗号化スマホ。所持品を並べる。一つ一つ確認する。


 手がスマホを握る。指が自動的に動く。三度、画面をタップする。トン、トン、トン。


 私は、その手を見つめる。自分の意思か。刷り込まれた命令か。


「……」


 ベッドに腰を下ろす。掌を膝に置く。無意識に、三度叩くリズムが走る。トン、トン、トン。


 窓の外で、台北の夜景が広がる。街灯の列が、地平線で途切れている。封鎖区域だ。


 目を閉じる。砂漠の記憶が蘇る。熱風。砂埃。そして、三回の合図音。


 それを教えたのは誰か。教官の顔が、陳の笑顔に溶ける。


 額が冷たくなる。思考が白く濁る。


 スマホの画面が点滅する。佐藤からの新着メッセージだ。


「緊急プロトコル、認証完了。全経路、再暗号化」


 その文章の端に、小さな数字が埋め込まれている。三桁の数列。それは、三叩きの間隔と同じだ。


 私は、メッセージを削除する。端末の電源を切る。


 理由は一つ。この癖自体が、敵への生きたビーコンだ。扉を閉める音が、背骨を凍らせる。


 足下の砂利が軋む。そのリズムが、頭の中を駆け巡る。


 三度叩く衝動が、肘から指先へ走る。歯を食いしばる。衝動を押し込む。


 代わりに、スマホを取り出す。林志鴻への緊急連絡を打つ。


「今すぐ会いたい。場所は」


 指が止まる。送信できない。全ての連絡経路が疑わしい。


 額に冷たい汗がにじむ。私は誰を、どこまで信じられるのか。


 足が動く。来た道を戻らない。裏道へと分け入る。


 路地の闇が、思考を覆う。過去の確信が、壁の塗料のように剥がれる。


 恩人の顔。救出の記憶。すべてが、陳の手で描かれた絵か。


 胸が疼く。無意識に拳が上がる。コンクリートの壁を叩きそうになる。


 手を握りしめる。爪が掌に食い込む。


 今、会うべきは林だ。彼の癖を見極める。目を見て確かめる。


 それが、唯一の事実収集だ。


 歩幅を速める。闇の中へ、自分自身の真実を取りに向かう。 陳の告白が脳裏に残る。私はノートを広げる。


「第一、事実収集」


 筆記具の先が震える。過去の接触記録を列挙する。日時、場所、会話内容。客観的事実だけを記す。


 右手が机を打つ。トン、トン、トン。無意識のリズム。


「第二、記憶検証」


 砂漠の記憶を細分化する。視覚、聴覚、嗅覚。陳の存在を思い出せるか。恩人の顔が、ぼやけている。


 額に汗がにじむ。指が冷たい。


「第三、行動パターンの分析」


 これまでの意思決定を洗い出す。いつ、どの選択をしたか。その時、三叩きはあったか。


 心臓が肋骨を打つ。書き留めた文字が歪む。


 計画立案は終わらない。検証は、今夜中に完了させる。


「第四、外部確認」


 佐藤、伊達、林。三者への接触手順を考える。互いに孤立した状態で、同じ質問を投げる。


 答えの矛盾が、真実を映す。


 筆記具を置く。手の平が机に触れる。叩きたくなる衝動を、紙に書き留める作業で置き換える。


 これが、私にできる唯一の抵抗だ。


 窓の外が白み始めている。時間がない。


 明日の朝までに、私は自分自身という敵を、検証し尽くさねばならない。 右手が腿を叩く。トン、トン、トン。指先が痙攣する。


 陳の言葉が耳の奥で鳴る。恩人はいない。


 私は自分の手を見つめる。掌の線。古い傷。これが私の手か。


 路地の奥に、自動販売機の灯りがぼんやり光る。その機械的な輝きに足が向く。


 百円玉を入れる。ボタンを押す。缶が落ちる音。


 指が缶のフタを叩く。トン、トン、三度目で止まる。


 缶を握りしめる。アルミの冷たさが神経を這う。


 なぜ三回なのか。二回では足りないか。四回では多いか。


 記憶の底をかき回す。砂漠の病院。天井の扇風機が、カタ、カタ、カタと鳴っていた。


 その音を数えていた。一、二、三。


 心臓が一瞬止まる。あの時、隣のベッドに誰かがいた。顔は思い出せない。声だけが残る。


「三つ数えろ。落ち着くまで」


 その声は、陳の声ではない。


 缶を開ける。炭酸の音が闇に弾ける。


 一口飲む。喉が冷たい液体で焼ける。


 私は、誰の言葉で生き延びたのか。 右胸が疼く。三度叩く衝動が骨髄を走る。指が痙攣する。


 ノートPCの画面に、過去の行動記録が羅列される。日時、場所、接触者。全ての記述の隙間を、無意識の癖が埋めている。


「コン、コン、コン」


 口が動く。声に出さないリズムが、歯の裏側で鳴る。


 検索窓に「三回反復」「合図」「条件付け」と打ち込む。軍内部の心理作戦マニュアルがヒットする。項目を開く。


 文章が飛び込む。「標的の日常行動に、無害な儀式を刷り込む。危機状況下で、その儀式をトリガーに……」


 呼吸が止まる。喉が締め付けられる。


 スクロールする。実例。ケーススタディ。砂漠地帯での工作活動。


 そこに、コードネーム「ドラゴン」の報告書が添付されていた。


 指が震える。マウスを握りしめる。クリックする。


 ファイルは閲覧権限がない。だが、サムネイル画像に写る地図が、十年前の作戦区域だ。


 胃が攣る。吐き気が込み上げる。額を机に押し当てる。


 木の冷たさが、皮膚を伝う。


 理由は一つ。私の救出劇は、最初から仕組まれていた。私という兵器の、起動手順だった。手が腿を叩く。トン、トン、トン。リズムだけが残る。真実は知った。解放感がない。


 窓の外、台北の朝が始まる。街は変わらない。私は変わったはずだ。


 掌を眺める。十年分の戦いが、他人の脚本だった。罪悪感は私のものか。刷り込まれたものか。


 スマホが光る。佐藤からの報告だ。「邦人、第一陣収容完了」


 達成だ。だが、胸が空洞だ。この行動も、誰かの計算か。


 立ち上がる。足元が軽い。体が重い。


 洗面所の鏡に、男が映る。目が窺っている。私は誰か。


 水をかぶる。冷たさが皮膚を刺す。それだけが現実だ。


「……よかったのか」


 声は掠れる。答えはない。


 ベッドサイドのケースを開ける。拳銃が冷たい。重い。


 かつての使命は、偽物だった。では、今の使命は。


 玄関のドアに手をかける。今日も、1200人を運び出す。


 指がドアノブを叩く。コン、コン。三度目で止める。


 深呼吸する。吸い込む空気が、初めて自分のものに感じる。


 ドアを開ける。廊下の向こうに、新しい闇が待っている。 暗号化スマホが光る。着信表示は「美咲」。約束の時間だ。


 右手が震える。腿を叩きそうになる。左手で右手首を掴む。


「お父さん? 大丈夫?」


 声が弾ける。娘の無邪気さが、胸を突き刺す。


「ああ。今、ちょっと忙しいだけだ」


 言葉が嘘くさい。喉が渇く。


「そっか。でも、ちゃんと寝てる? 声、疲れてるよ」


 指がスマホを握り締める。娘を守る。それが、唯一の真実だったはずだ。


「心配するな。仕事が一段落したら、すぐに帰る」


 窓の外、台北の夜が深い。逃げ道を探す私の姿が、ガラスに映る。


「約束だよ。絶対に」


 彼女の声が微かに震える。何かを感じ取っている。


「約束だ」


 切りたい。今すぐに。だが、耳を離せない。


「お父さん、何か隠してるでしょ」


 息を詰まらせる。肺が痛い。


「バレてたか」


 軽い口調を装う。顎の筋肉が硬直する。


「いつもそう。大丈夫って言う時が、一番大丈夫じゃない」


 目頭が熱くなる。涙ではない。疲労だ。


「……ごめんな」


 謝罪が零れる。本音の一片だ。


「いいよ。でも、生きて帰ってきて。それだけ」


 彼女が電話を切る。ツーンの音が、部屋に長く響く。


 スマホを置く。手の平に、冷たい汗が光る。


 約束をした。生きて帰る。そのためには、まず自分自身を倒さねばならない。 帰宅した部屋の闇で、スマホが一瞬光った。「圏外」の表示が、眼球を刺す。


 掌が汗ばむ。腿を叩く衝動が脇腹を走る。歯を食いしばる。


「……遮断か」


 窓の外、台北の夜空が不自然に暗い。星も、飛行機の灯りもない。


 ベッドサイドのケースを引き寄せる。戦術ベストの内ポケットを探る。


 指先が、金属の薄板に触れる。予備の通信チップだ。


「まずは林だ」


 端末の裏蓋を開ける。チップを差し込む。起動音が、静まり返った部屋に鋭い。


 画面に波状の暗号が流れる。接続を待つ。


 心臓が、耳の奥で三拍打つ。トン、トン、トン。


 私は、そのリズムを画面の点滅に重ねる。これが、今の私の鼓動だ。


「……」


 接続音が鳴らない。代わりに、赤い文字が浮かび上がる。「ドロップポイントを起動せよ」


 チップを抜く。冷たい金属を握りしめる。


 次の手順は、物理的な道だ。書斎の本棚へ向かう。第三列、第五冊目を引き抜く。


 裏表紙に、マイクロSDカードが貼り付いている。


「よし」


 息を吐く。白い息が、闇に溶ける。このカードが、私と現実を繋ぐ最後の糸だ。 台北の夜は、三叩きのリズムで満ちている。


 手が拳を握る。腿を打ちつける衝動を抑え込む。背中にベストの重み。弾薬の重さではない。千二百人分の命の重さだ。


「これが最後のチェックリストだ」


 佐藤の声がイヤホンから流れる。機械的な確認事項が並ぶ。


「AルートからEルートまで、全車両配備完了。林氏海運の船は、基隆港で待機中」


 林の名が、胸を締め付ける。彼の癖は何だったか。指で机を叩く回数。無意識の反復。私と同じか。


「了解」


 声だけが平然としている。喉の奥で、砂漠の風が鳴る。


 窓辺に立つ。街灯の列が、避難ルートを静かに照らす。非戦闘員の移動経路だ。軍人時代には、迂回路と呼んだ。


「支店長、最終確認を」


「……実行する」


 ボタンを押す。無数のLEDが一斉に点滅する。作戦開始の合図だ。


「民間人を、誰一人傷つけずに。これが使命だ」


 自分に言い聞かせる。だが、拳は固く結ばれたまま。この手は、武器を握るためにできている。掌が腿を叩く。トン、トン、トン。無意識のリズムが骨に刻まれる。リビングの床に膝をつける。


 肩を回す。右から左へ。関節が軋む。古い傷跡が熱い。背筋を伸ばす。天井を見上げる。息を吸い込む。肺が肋骨を押し広げる。


 ゆっくりと吐き出す。白い息が、冷えた空気に溶ける。


 左手で右の肩甲骨を探る。筋肉が岩のように固まっている。指先に力を込める。押し込む。疼きが鎖骨の裏を走る。


「……くそ」


 歯を食いしばる。痛みを数える。一、二、三。


 次は左だ。同じ手順。同じ疼き。十年分の緊張が、筋膜に澱んでいる。


 四つん這いになる。背中を丸める。猫のポーズだ。腰に力が入らない。腹筋が震える。


 床に掌を突く。腕立て伏せの体勢へ移る。一つ。肘が震える。二つ。呼吸が乱れる。三つで止める。限界ではない。時間が許さない。


 うつ伏せになる。額を畳に押し付ける。コブラのポーズだ。背筋が引き裂かれそうになる。無理に上げる。三秒キープ。視界がちらつく。


 体を起こす。あぐらをかく。計画ノートを広げる。ペンが走る。


「第一、林志鴻との接触。漁港、午前四時」


 文字が滲む。手汗で紙が濡れている。


「第二、伊達徹への最終確認。暗号『月が三度沈むまで』」


 胸が疼く。三という数字が、罠の臭いを放つ。


「第三、美咲の安否確認。学寮の非常口から」


 指が震える。ペンを握りしめる。この計画が、私の意思か。刷り込まれた脚本か。


 窓の外、台北の夜が深い。行動する時間だ。理由は一つ。立ち止まれば、三叩きのリズムが、私を傀儡に戻す。膝が畳に食い込む。腕立ての体勢をとろうとした瞬間、肋骨の裏が疼いた。三叩きのリズムが、神経を逆撫でる。


「……時間がない」


 立ち上がる。戦術ベストを掴む。重さが肩にのしかかる。暗号化スマホの画面が青白く光る。30分の作業時間が、カウントダウンを始めている。


「まずは林だ」


 マイクロSDカードを端末に差し込む。漁港の座標が表示される。次に、乱数表を入力する。一回限りの鍵だ。


「応答せよ」


 送信ボタンを押す。指先が冷たい。画面が暗転し、三つの点が点滅する。接続を待つ。


「……」


 無線機のスイッチを入れる。予備周波数へ切り替える。雑音だけが、イヤホンに響く。基隆港は、完全に沈黙している。


「ダメか」


 拳で腿を叩きそうになる。左手で右手首を掴む。衝動を抑え込む。机の端を見る。計画ノートが開いたままだ。


「次は伊達だ」


 別の端末を起動する。衛星回線を使用する表示が点灯する。バッテリー残量、あと七十二パーセント。


「『月が三度沈むまで』。了解したか」


 暗号文を送信する。既読マークが付く。返信はない。彼の仕事は、もう始まっている。


 肩の筋肉が岩のように凝り固まる。呼吸が浅い。窓の外、台北の夜が濃くなる。最初の10分が過ぎる。


「次だ。全ルート、ステータス確認」


 指が勝手に動く。緊急連絡網の活性化プロトコルを実行する。画面に、五つの緑の点が灯る。四つは点滅したまま。一つだけが、赤く輝く。林のマークだ。


「……やはりな」


 赤い点を見つめながら、腿を叩く衝動が再び湧く。今回は、抑えない。


 トン。トン。トン。


 三度、腿を打つ。痛みが、かすかな覚醒をもたらした。


「よし」


 活性化作業は完了していない。しかし、赤い点の位置が全てを物語っている。漁港は罠だ。計画を書き換える。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ