第62話 ドラゴンの訓練
教官が壁を指差した。三度、叩け。合図だ。
その教官の顔が、陳の笑顔に重なる。
胃が逆流する。喉が熱い。額が冷たくなる。
教わったのは誰だ。自衛隊か。それとも、ドラゴンか。
歩き出す。一歩。また胸が疼く。二歩。右手が痙攣する。
廊下の鏡に、自分が映る。目が、囚われている。
過去が全部、偽物か。信念さえ、敵の植え付けたものか。
足音が響く。自分のだ。それだけが、確かだ。
部屋のドアが近づく。黒い漆喰。金の取っ手。
手を伸ばす。震えが肘から伝わる。
今、ドアを開ければ、真実がある。救出も、復讐も、そこにある。
指が取っ手に触れる。金属の冷たさが、神経を焼く。
私は、叩かない。握る。捻る。
開ける。
理由は問わない。答えは、向こう側にある。廊下の暗がりで、私の右手がひとりでに動いた。ドア枠を三度叩く。
コン、コン、コン。
指の関節が疼く。頭の中が白くなる。
このリズムが、誰のものか思い出せない。砂漠の教官か。それとも陳か。
足元が揺らぐ。壁に手をつく。冷たい漆喰が、掌の汗を吸う。
振り返る。長い廊下が闇に飲まれている。
なぜ、ここで叩く。侵入の合図か。それとも、解除の合図か。
胸の奥がざわつく。今までの行動を、全て疑う。
あの時、林の指差す方へ進んだのは、私の判断か。刷り込まれた命令か。
額を壁に押し当てる。思考が渦を巻く。
救出計画。避難ルート。全てが、敵の脚本の上で踊っていたのか。
拳を握りしめる。骨が軋む音が、頭蓋に響く。
「……」
ドアの向こうから、物音がする。微かな呼吸の音だ。
その瞬間、全てが繋がった。
三叩きは、私の中の『ドラゴン』への合図だ。だが、今、部屋にいるのは誰か。
手が拳銃に伸びる。指が引き金を包む。
真相は、このドアの向こうにある。私自身の、闇の部分も。
深呼吸する。湿った空気が肺に入る。
ゆっくりとドアノブを回す。鍵はかかっていない。
私は、自分自身の記憶という敵へ、潜入を完了させる。 長い廊下が、白い壁と闇に吸い込まれていく。ドアが見えた。
右胸が疼く。肋骨の裏で、古い傷跡が脈打つ。叩け、と疼く。
足が重い。アスファルトを引きずる音が、頭蓋の中で鳴る。
掌が汗で滑る。指が痙攣する。
ドアが近づく。黒い漆喰。光る金具。
手が伸びる。無意識に、取っ手の寸前で止まる。
拳が上がる。指の関節が、硬い漆喰に触れる。
コン。\
一打目が、廊下に吸い込まれる。振動が肘に伝わる。
コン。\
二打目で、歯を食いしばる。顎が軋む。なぜ、二度目を打った。
コン。\
三打目が、頭の中を白くする。砂漠の熱気が視界を歪める。
手が固まる。取っ手を握れない。
このリズムが、誰のものだ。合図なのか、呪いなのか。
胸の奥が冷える。全ての行動が、他人の設計図の上にあったのか。
「……」
呼吸が浅い。喉が焼ける。今、この手でドアを開ければ、答えがある。
真実も、私自身の闇も、向こう側にある。
指を伸ばす。震えが取っ手に伝わる。金属の冷たさだけが、確かだ。足が動かない。扉の前で、体が鋼の塊になる。
胸の奥が千切れる。救うべき男と、殺すべき男が、同じ闇の中で蠢く。
左腕が痙攣する。無意識に拳が上がる。三度叩く衝動が、神経を逆撫でる。
窓の外で車のヘッドライトが走る。光の帯が天井を舐める。
警備か。それとも、林の合図か。
私は拳を開く。掌を冷たい扉に押し当てる。呼吸を整える。
心臓が耳朶で暴れる鼓動を、一つ、二つ、数える。
ヘッドライトが去る。闇が戻る。
このまま押し開けるのか。十年の怨念を、今、ここで終わらせるのか。
下腹部に力が溜まる。足が前へ出る。
その時、廊下の端で微かな電子音が鳴った。監視カメラが旋回する音だ。
一瞬、体が凍りつく。訓練が覚醒する。
進んではいけない。罠だ。
踵を返す。足音を殺して、来た道を引き返す。
背中に扉の冷たさが張り付く。怨念が、背骨を這う。
階段を下りる。一歩ごとに、熱いものが胸を焦がす。
裏口に辿り着く。手を伸ばしてドアノブを握る。
握った手が震える。今なら戻れる。もう一度、あの扉の前に立てる。
私は息を吐く。白い息が、暗闇に消える。
ドアを押し開ける。外の冷気が頬を打つ。
一歩、邸宅の外へ出る。振り返らない。
歩き出す。速く、闇へと溶け込むように。
理由は一つ。今、殺せば、それは私の意思ではない。刷り込まれた獣の意思だ。 陳の書斎は闇に沈んでいる。机の上の書類だけが、卓上灯に白く浮かぶ。
「これが全てだ。貴社の関与を示す決定的な証拠だ」
声が乾いている。喉の奥が砂埃を噛む。
陳は椅子に深く沈み、目を細める。その視線が書類の束を撫でる。呼吸一つしない。
私は、書類の端を揃えるふりをする。指先が紙の縁を滑る。一枚、また一枚。
手が机に降りる。指の付け根が、木目に触れる。
コン。
一打目が、静寂に割れる。自分の鼓動と重なる。
コン。
二打目で、腕が硬直する。なぜ、続ける。
コン。
三打目が、肘の関節に響く。無意識のリズムが、鎖のように繋がる。
陳の目が、微かに動いた。机から私の手へ。そして、すぐに元の位置へ戻る。
私は気づかない。指先の感覚だけが、木の冷たさを記憶する。
「明日までに、回答を頂きたい」
書類を押し出す。紙が机を滑る音が、闇に吸い込まれる。
陳の指が、書類の上で止まる。爪が、一枚目の角を軽く叩く。トン。
その音が、私の三打目と響き合う。陳の唇が動く。言葉が遅れて届く。
「恩人は、存在しない」
足首が砕ける。膝が抜ける。背中が冷たい壁にぶつかる。手の平が漆喰に貼りつく。
視界がふらつく。天井の照明が、二重に滲む。呼吸が喉を引き裂く。吸っても、吸っても、肺が満たされない。
壁のひび割れが、掌の下で脈打つ。鼓動が、骨から伝わる。
目が定まらない。机の上の書類が、砂漠の熱気のように揺らぐ。陳の顔が、遠ざかる。
歯を食いしばる。顎の力が、頭蓋を締め上げる。血の味が舌の上に広がる。
「……何を」
声が、千切れる。息が続かない。
右胸が疼く。叩きたい。壁を、三度。衝動が肘を痙攣させる。指が、漆喰から離れない。
すべてが、偽物か。砂漠の日差しも、救われた記憶も、この疼きさえも。
足元の床が、傾く。 陳の書斎を離れ、廊下の手すりに体重を預けた。指が自然に動く。
コン。
手すりの木が微かに震える。指先に感触が残る。




