第61話 林と陳、二つの背中
人影は振り向く。それは林の顔だった。目が見開かれている。
「……」
引き金を引かない。腕が震える。
林が首を振る。無言で、通路の奥を指差す。救出すべき場所だ。
それでも、陳のいるドアが視界の端に焼き付く。
なぜ、撃たない。私怨ではないのか。
林が手を差し伸べる。私の拳銃を押し下げる。
その手が冷たい。現実に引き戻される。
ゆっくりと息を吐く。拳銃を下ろす。
林の指差す方へ歩き出す。背中に、陳の部屋の灯りがじりじりと迫る。
救出が先だ。それが正しい。そう自分に言い聞かせる。
だけど、拳を握りしめたままだ。爪が肉に食い込む。
純粋な動機など、どこにもない。この手には、砂漠の砂と血の感触しかない。帰宅した。ベッドサイドのケースを開ける。戦術ベストと通信機が並ぶ。確認作業を始めなければならない。
だが、指がノートPCの蓋を開ける。起動音が部屋に響く。
『三叩き』。この言葉が頭を駆け巡る。
過去の任務記録データベースにアクセスする。検索窓に「習慣的動作」「無意識の反復」と打ち込む。
ヒットしない。心拍が早い。首筋に汗が伝う。
次に、隊内の心理プロファイルを開く。自分の評価書が表示される。「緊張下での儀式的行動」「軽度の強迫傾向」の文字が飛び込む。
口の中が乾く。舌が上顎に貼り付く。
最後に、知り合いの行動パターン。林のファイルを開く。取引記録、会話の記録、監視写真。すべてが正常だ。
だが、十年前の共同作戦の記録に、一行の注記があった。「現地協力者との確認動作:三回の合図」。
背筋が凍る。指先がキーボードから離れる。
その協力者のコードネームは「ドラゴン」。陳国華の通称だ。
画面の文字が滲む。呼吸が乱れる。私は、敵に刷り込まれていたのか。
窓の外でサイレンが遠吠えする。台北の夜が、深くなっていく。廊下の闇に立つ。ドアの取っ手が冷たく光る。
指が伸びる。金属に触れる瞬間、腕が硬直する。三度叩く衝動が、肘から手首へ走る。
頬の筋肉が引き攣る。歯を食いしばる。衝動を押し殺す。
代わりに、指先で取っ手の曲面を撫でる。滑らかな加工。微かな軋み。
心臓が肋骨の裏側を蹴る。鼓動が耳朶に響く。
なぜ、叩きたくなる。訓練の記憶か。それとも、刷り込まれた合図か。
ドアの向こうから物音がする。椅子が動く音だ。
撫でる指を止める。手の平を取っ手から離す。ゆっくりと拳を握る。
今は確かめられない。動機も、真実も。全ては後回しだ。
救出だけが残った任務だ。それだけを握りしめて、ドアの傍を離れる。
足音を殺して廊下を進む。背中に、取っ手の冷たい輝きが貼りつく。『ドラゴン』の文字が、画面に焼き付いた。
指が震える。キーボードを押しつぶす。
腹の底が冷える。過去のすべてが、偽物だったのか。
無意識に手が胸に向かう。叩こうとする。私は、動きを止める。
筋が痙攣する。心臓が肋骨を打つ。鼓動が、部屋に響く。
立ち上がる。窓辺へ歩く。足元が揺れる。
台北港の灯りが、地平線で途切れている。封鎖だ。主要ルートは死んだ。
視界の端で、スマホの通知が点滅する。佐藤からの緊急報告だ。
スクロールする。邦人の分散状況。新たな危険区域。避難計画が、無力になる。
歯を食いしばる。顎の力が、頭蓋を締め上げる。
計画を変更する。今すぐだ。
資料を広げる。赤ペンが地図を走る。漁港、山道、密林のルート。
手が勝手に動く。十年分の勘が、迂回路を描き出す。
胸が疼く。叩きたい衝動が、神経を逆撫でる。
私は、ペンを握りしめる。紙を破る音が、部屋に満ちる。
新しいルートだ。これで行く。
理由は一つ。0人を、敵のプログラムから守る。私自身からも、守る。 濃霧が窓を覆う。台北の街が、白い闇に沈んでいる。
「今だ」
ドアロック解除ツールを取り出す。金属の棒が、鍵穴に吸い込まれる。
指先が動く。感覚を研ぎ澄ます。ピンが噛み合う微かな振動を追う。
左胸が疼く。無意識に手が上がる。叩きたくなる衝動が、肩を貫く。
歯を食いしばる。顎の力で衝動を押し込む。代わりに、ツールを深く押し込む。
錠前が回る。カチリ。音が霧に吸われる。
ドアが開く。書庫の闇が、冷気と共に流れ出る。
「……」
一歩踏み込まない。計画を捨てる瞬間だ。
ツールをしまう。代わりにスマホを取り出す。暗号化チャットを起動する。
佐藤への指示を打つ。「濃霧を利用せよ。全チーム、待機地点へ移動開始」
返信が即座に返る。「了解。監視網、視界ゼロ」
次に伊達へ。「台北港封鎖を前提にせよ。代替ルートの確保を急げ」
既読が付く。返信はない。実行中の証だ。
最後に林へ。文章は短い。「漁港。全てをそちらへ」
送信ボタンを押す。指が震える。胸を叩く衝動が、再び脈打つ。
私は、その手でスマホを握りしめる。金属の角が掌に食い込む。
霧の向こうで、エンジン音が遠吠えする。協力者の車両が、動き始めた。
書庫の闇を見つめる。中には、答えがあるかもしれない。
だが、今は背を向ける。鍵を閉める。カチリ。
霧の中へ歩き出す。足跡が、すぐに消える。通路の冷たいコンクリートに背を預ける。警備員の足音が頭上を通り過ぎる。
胸が疼く。右手が無意識に上がる。叩く寸前で拳を握り締める。
骨が軋む。心臓が耳朶で暴れる。
代わりに、左手でスマホの画面を滑らせる。五箇所の収容点が地図上に光る。
「A点、濃霧到達は分後」
声を絞り出す。イヤホンに指示が流れる。
「B点、移動開始。車両三台、霧に紛れる」
頭蓋の中でシミュレーションが走る。ルート分岐、時間差、監視カメラの死角。
また胸が疼く。叩く衝動が顎を震わせる。
私は、その衝動をシミュレーションに変換する。胸を叩くリズムで、各チームの移動間隔を刻む。
トン、トン、トン──三点目収容。トン、トン──四点目合流。
足音が戻ってくる。近い。
息を止める。背中が壁に張り付く。シミュレーションだけが、頭の中で回り続ける。
霧が窓を這う。視界が白く濁る。今だ。
「全点、一斉収容開始」
囁く。指が送信ボタンを押す。
胸の疼きが、最後の合図になる。廊下の長さが歪む。天井が低く迫る。陳の部屋まで、あと二十歩。
右胸が脈打つ。肋骨の裏で、何かが疼く。叩きたい。三度。
足を止める。指が震える。拳を握る。爪が掌に食い込む。
なぜ叩く。誰に教わった。
記憶が砂を噛む。砂漠の訓練場。日陰のないコンクリート床。




