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第60話 通路の奥の人影

 暗号化ソフトを起動する。偽の通信プラン立案画面が表示される。左側にダミーの業務連絡文面。右側が本物の暗号ジェネレーターだ。


「検証開始」


 指がダミーの方で無意味な単語を打ち始める。天気、スポーツ、食事の話題。全てが監視用の餌だ。


 右側のジェネレーターが同時に動く。乱数表から真の周波数と符号を生成する。


 窓の外で白いバンが停車する。アンテナが微かに回る。


 こちらの偽通信を捕獲し始めた。


「よし」


 ジェネレーターの出力をUSBメモリに書き込む。プログレスバーが動く間、ダミーの文面で買い物リストを作り続ける。


 書き込み完了音が鳴る。


 ダミー通信を敢えて「送信」する。ボタンを押す。画面に「エラー」と表示される。


 監視側に通信失敗を印象づける。


 その隙にUSBを抜き、専用端末に差し込む。真の周波数表が読み込まれる。


 端末の画面に一つの座標が浮かぶ。宜蘭。漁港の緯度経度だ。


 これが偽装通信の裏側に隠した、唯一の本命経路だ。


 端末の電源を切る。基板を物理的に破壊する。


 午後の偽装業務は終わった。夜の本番が、静かな波の音と共に始まる。


 端末の破片をポケットにしまった。手のひらが微かに震えている。


 街灯がまだ点かない。薄暮の台北が、灰色のベールに包まれている。足を踏み出す。アスファルトが冷たい。


「……」


 中華料理店の路地を離れる。人気はない。自分の靴音だけが、コンクリートの壁に跳ね返る。


 右折する。小さな公園の横を通り過ぎる。ベンチは空だ。鳩の群れが一斉に飛び立つ。


 心臓が肋骨を押す。呼吸が浅い。喉に砂が詰まった感触だ。


 次の角で立ち止まる。陳国華の邸宅は、あのビルの向こうにある。


 信号が青に変わる。渡らない。横断歩道の手前で、雑誌屋の影に身を寄せる。


 ビルの三階。窓に人影が動いた。カーテンが揺れる。


 背筋に冷たい汗が走る。拳を握りしめる。爪が掌に食い込む。


「……」


 ゆっくりと息を吐く。白い霧が、黄昏の中に消える。


 来た道を振り返る。誰もいない。だけど、視線を感じる。皮膚がざわつく。


 もう一度、ビルの窓を見る。人影は消えている。


 右のポケットに手を入れる。壊した端末の破片に触れる。角が尖っている。


 左折する。陳国華の邸宅とは反対方向だ。小さな路地に入り込む。


 歩幅を速める。壁に沿って進む。路地の先に、地下鉄の入口の灯りが見えた。


 振り返らない。背中に、見えない目が貼りついている。


 地下鉄の階段を下りる。駅の冷たい空気が、頬を撫でる。


 ホームにたどり着く。電車の風が、前髪を揺らす。


 ドアが開く。乗り込む。ドアが閉まる。


 窓ガラスに、自分の顔が映る。目が窺っている。


 電車が動き出す。陳国華の邸宅は、もう遠ざかっている。 路地の奥で立ち止まる。茂みの向こうに、陳の邸宅の外灯がぼんやりと見える。


 肩に鉄の重みがのしかかる。心臓が耳元で打つ。鼓動が頭蓋を揺さぶる。


 視界がゆがむ。コンクリートの壁が、砂漠の岩肌に変わる。


 熱風が頬を撫でる。喉が焼ける。砂の匂いが鼻を突く。


「……」


 右手が震える。拳を握り締める。骨が軋む。


 影が動く。茂みの葉が、迷彩服の裾に変わる。誰かの背中が見える。


「待て」


 声が出ない。足が地面に釘づけだ。


 背中が遠ざかる。砂塵が舞い上がる。爆音が地を割る。


 目の前が真っ白になる。熱波が肌を焦がす。


「……」


 瞼を閉じる。歯を食いしばる。顎が痛む。


 ゆっくりと息を吸う。台北の湿った夜の空気が、肺に入る。


 目を開ける。コンクリートの壁が戻っている。外灯の明かりが揺れる。


 胃が締め付けられる。こめかみが脈打つ。冷たい汗が背筋を伝う。


「また、同じか」


 声が掠れている。掌に爪の跡が残る。


 茂みから一歩下がる。足首が震える。 右手が壁に触れる。コンクリートの冷たさが指先に伝わる。


 鼓動が早い。血が耳朶を打つ。砂漠の残像が、壁のひび割れに重なる。


 指が動く。ひとつ。ふたつ。みっつ。無意識に壁を叩いている。


 隣の茂みが揺れた。警備兵の影が見えた。息を止める。


 影は立ち止まらない。そのまま通り過ぎる。


 手を引っ込める。拳を握りしめる。なぜ、叩いた。


「……」


 左ポケットが震える。暗号化スマホだ。伊達からの着信だ。


 端末を確認する。指定の周波数表と合致する。偽装通信ではない。


「今夜のランデブー、中華街『龍軒』。事前に安全確認を」


 メッセージが消える。


 陳の邸宅を見上げる。窓の灯りが増えている。複数の人影が動く。


 ここに留まる理由は消えた。伊達の連絡が、全てを上書きする。


 茂みから後退する。足音を殺す。路地を抜け、大通りに出る。


 携帯を操作する。『龍軒』周辺の監視カメラを佐藤に確認させる。


 返信が届く。「異常なし。但し、裏路地の工事中に注意」


 工事。それは死角を作る。もしくは罠を仕掛ける場所だ。


 暗号鍵を再検証する。一回限りの乱数表。一致する。


 これが本当の伊達だ。ならば、会わねばならない。


 背中に視線を感じる。振り返らない。歩幅を速める。


 街灯の下で立ち止まる。スマホの画面を暗くする。


 なぜ壁を叩いたのか。答えは出ない。ただ、戦場で生き残った身体が、無意識に危険を刻んでいる。


 それ以上は問わない。今は動く。


 中華街の方角へ歩き出す。夜の匂いが、潮風に混じる。 陳国華邸宅の裏口に立つ。鍵穴にツールを差し込む。


 指先が滑る。手の平が汗で濡れている。錠前が回る音が、頭蓋に響く。


 ドアが開く。暗い通路が続く。消毒液の匂いが鼻を刺す。


「……」


 一歩踏み込む。床板が軋む。背中が竦む。


 壁に寄りかかる。心臓が喉元で暴れる。呼吸が浅い。


 左の部屋から話し声が聞こえる。中国語の単語が耳に飛び込む。


「処理」「明日」「証拠」


 右手が拳銃に伸びる。グリップが冷たい。引き金に指をかける。


 恩人はどこにいる。この屋敷のどこかで、監禁されているはずだ。


 だが、目の前のドアの向こうには陳がいる。今、扉を蹴破れば、十年分の恨みを晴らせる。


 足が動かない。脇腹に古い傷跡が疼く。砂漠で受けた弾痕の位置だ。


 あの時も、仲間を見捨てた。命令を優先した。正しい選択だったのか。


 今の選択は正しいか。救出か復讐か。動機は純粋か。


 額が冷たくなる。思考が白く濁る。


 通路の奥で足音がする。近づいてくる。


 拳銃を構える。照準を合わせる。暗がりに人影が見える。


 指に力を込める。呼吸を止める。


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