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第59話 凪ぎ前の兆し

 指がキーに触れる。返信を打つ。


『風速は?』


 十秒後、返信が返る。


『秒速三メートル。凪ぎ前の兆し』


 これは、三時間後に機会が来ることを意味する。


 そして「凪ぎ前」は、林志鴻の隠語だ。


 息を詰める。星は林か? それとも、林を掌握している者か?


 もう一度打つ。


『凪ぎは永遠か』


 これが最後の問いだ。もし彼が捕まっているなら、答えられない。


 画面が暗くなる。そして、新しい文字が浮かび上がる。


『永遠ではない。次は新月に』


 新月。つまり、今夜だ。


 これが本当の連絡網テストの結果だ。


 内部に漏洩はある。だが、敵の内部にも、こちら側がいる。


 端末の電源を切る。星の座標を脳裏に刻む。


 屋上から下を見る。白いバンが書店の前で行き悩んでいる。偽の痕跡に引きずられたまま。


 探査は成功だ。弱点も、希望も、見えた。


 階段を下り始める。足音が鉄板に響く。


 次の業務は、新月の下で始まる。 船舶書類の束が机の上で死んでいる。積み荷明細、契約書、保険証券。全て偽物だ。


 代わりに暗号化端末の一線が青く脈打つ。宜蘭県頭城鎮、漁港の座標が入力済みだ。


「接続開始」


 指がキーを打つ。コードは一度限り。送信。


 画面が真っ暗になる。五秒、十秒。呼吸を殺す。


 突然、文字が浮かぶ。緑色の点滅だ。


『波高2メートル、出航可能』


 肩の力が抜ける。危うく息を吐きそうになる。噛みついて止める。


 これで政府ルートが断たれても、裏の海路が生きている。


 次に確認コードを送る。『漁獲量は?』


 返信が速い。『今夜、新月に満載』


 新月。星との連絡が繋がった。


 最後の問い。『船長の名前は?』


 画面が一瞬、乱れる。文字が滲み、固まる。


『凪ぎを待つ者』


 林志鴻の隠語だ。彼はまだ生きている。しかも自由に。


 端末の電源を切る。バッテリーを抜く。接続記録が消える。


 偽の書類をシュレッダーへ。機械が唸り、現実だけが残る。


 窓の外、台北の夕陽が赤い。戦火の色に似ている。


 胸の内ポケットが温かい。地図が鼓動している。


 最終暗号化メッセージの受信は完了した。民間避難経路は稼働している。


 あとは実行を待つだけだ。新月が昇るまで。偽の船舶リストの下に、本物の避難場所リストが冷たい。ページをめくればめくるほど、鉛筆の書き込みが増えていく。\

「第三拠点、補給物資の消費が計画値を超過」


 指が数字を追う。水、食料、医薬品。全ての在庫が赤線で塗られる。


 窓の外で軍用トラックの列が続く。土嚢は二列になった。


 補充ルートは全て遮断されている。こちらの動きを読まれている。


 鞄から暗号化端末を取り出す。起動スイッチが冷たい。


『補給、断絶。在庫、七十二時間分のみ』


 送信ボタンを押す。指が震えない。


 返信はすぐに来た。三つの数字だけだ。『18..07』


 十八時二十二分、七番経路で移動せよ。新月を待たない。


 胸の内ポケットの地図を確認する。七番は山岳ルートだ。車両では入れない。


 在庫リストの余白に走り書きする。『背負い込み、二日分』


 それで足りるか。一二〇〇人を想定すれば、無理だ。


 だが、最初の段階は百人。百人なら運べる。


 机の角に手をやる。叩きたい衝動が腕を痙攣させる。


 止めた。代わりにリストを三つ折りにし、焼却炉のスイッチを入れる。


 炎が紙を舐める。数字が灰になる。


 これが最後の在庫確認だ。次からは、奪うか、捨てるか。インターネットカフェの個室が狭い。隣席のゲーム音が壁を伝ってくる。


 ノートPCの画面に、偽装書類のテンプレートが開いている。貨物明細、船籍、乗組員リスト。全てが合法に見えるよう細部を埋める。


 暗号化アプリを起動する。林志鴻との専用チャットルームが真っ暗だ。


「経路テスト」


 指が短いコードを打つ。送信。


 画面の奥で何かが動く。読み込みインジケーターが永遠に回る。


 隣の笑い声が急に止まる。自分の息づかいだけが耳につく。


 アプリがエラーを吐いた。接続失敗。しかしログには「送信済み」とある。


 背筋が一本、氷の柱になる。メッセージは届いた。届け先が違うだけだ。


 偽装書類の印刷を開始する。レーザープリンターが熱を持つ音がする。


 新しいウィンドウを開く。衛星経由で宜蘭の漁港に暗号パケットを放つ。


 三秒後、応答が返る。新月の絵文字一つ。


 これが本物の経路だ。林は漁港にいる。


 印刷物を取り出す。紙の端が温かい。インクの匂いが個室に充満する。


 すべてのウィンドウを閉じる。履歴を削除。PCの電源を切る。


 立ち上がると膝がガクッとなる。緊張が解けた瞬間の脱力だ。


 カフェを出る。夕方の台北駅が人で溢れている。


 胸の内ポケットで、印刷物と新月の応答が重なっている。


 午後の業務は終わった。夜の行動が、もう始まっている。避難車両の燃料補給表が完璧すぎる。補給地点、時間、運転手の署名。すべて揃っている。


 林志鴻の署名が三枚目だけ濃い。インクが滲む。


「……」


 車両リストと照合する。三台のバスが追加されている。登録番号は存在しない。


 偽装車両か。それとも、罠の餌か。


 携帯で佐藤にコードを送る。『在庫確認、三品目』


 三秒後、返信。『三品目、未登録。倉庫に実体なし』


 息を詰める。林は偽の車両で計画を膨らませていた。なぜ。


 窓の外、黒いセダンが一台去る。残り二台。


 燃料補給計画書を破り捨てる。代わりに手帳の余白に走り書きする。


 真の補給地点は三カ所だけ。全て個人経営のガソリンスタンドだ。


 次に運転手ネットワークのリストを開く。二十名の顔写真と経歴。


 七名の目線がカメラを逸らしている。左肩上がり。


 尋問時の特徴だ。捕まっていた証拠。


 七名の名前を線で消す。残り十三名。


 その内、五名は家族を本土に送った記録がない。台湾に残している。


 人質だ。


 五名も消す。残るは八名。


 八名に緊急招集のコードを放つ。偽の補給業務という名目で。


 返信が五つ。三つは無反応。


 五名だけが使える。


 机の角に拳を置く。叩かない。握りしめるだけ。


 骨が軋む。


 これが現実の戦力だ。五名の運転手。三カ所の補給拠点。


 一二〇〇人を運ぶには、絶望的な数字だ。


 しかし、動かねば始まらない。


 最終指示を五名に送信する。『補給計画A、実行。無線封止』


 返信のチェックマークが順に点く。五つ。


 これで燃料補給計画と運転手ネットワークは、最低限ながら活性化した。


 午後の業務は終わる。夜の逃避行が、五分の確率で始まる。 通信記録のログが綺麗すぎる。三日前からノイズが一切ない。


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