第58話 星からの偽応答
書類の束をまとめる。シュレッダーの投入口へ向かう。機械が唸る。
窓の外、黒いセダンが二台並ぶ。監視の目は弛んでいない。
最後の一口を飲み込む。栄養ではなく義務だ。
内ポケットの紙を取り出す。手書きの地図が一枚。脳裏だけの避難路。
指でなぞる。線は台北を離れ、山岳へと消える。
「これだけか」
紙を戻す。布地の下でそれが鼓動する。
立ち上がる。膝が軋む。五十の体は嘘をつかない。
鞄を背負う。重量は変わらない。中身は全て替えた。
ドアノブに手をかける。金属の冷たさが最後の覚悟を告げる。
「行く」
声は部屋に残る。扉が閉まる音だけが、確かな区切りとなる。会議室の机が広すぎる。書類は一冊だけだ。
林志鴻の出航予定表が、まるで昨日書かれたように整っている。
指がページをめくる。船名、時刻、積荷。全てが計画通り過ぎる。
三日前から、一文字も変わっていない。
「異常な正常性」
声が壁に吸われる。
窓の外、台北の午後が眠そうに動く。その平凡さが罠だ。
鞄から暗号化端末を取り出す。電源を入れる。接続テストの画面が青く光る。
第一経路、第二経路、第三経路。
全てのランプが緑に点く。
これがおかしい。
「生き過ぎている」
第四経路のボタンを押す。林志鴻専用回線だ。
呼び出し音が一度、二度。
応答がない。緑のランプは点いたまま。
偽物の活性状態だ。
背筋が氷の柱になる。監視はこちらの確認行動まで織り込んでいる。
端末の電源を切る。バッテリーを抜く。基板を素早く交換する。
新しい画面が起動する。ランプは三つしかない。全て赤だ。
「これが現実か」
赤は、経路が最初から存在しなかったことを意味する。
林との連絡は、ずっと一方通行だった。
書類を丸める。紙の皺が掌の線を写す。
立ち上がり、ブラインドを閉める。隙間から黒いセダンを見る。
一台が発進する。残るは三台だ。
監視の密度が変わらない。こちらの動きを待っている。
「待たせるがいい」
机の前に戻る。偽の出航表をシュレッダーへ。
機械の唸りが短く響く。
次に、本物のリストを脳裏から呼び出す。記憶だけが確かだ。
船舶三隻。車両十台。避難場所は六。
全てに裏の裏がある。
指が机の角を撫でる。叩く衝動を抑える。
代わりに、ポケットの衛星端末で一つのコードを送信する。
『茶色の狐、巣を捨てよ』
これで協力者ネットワークの、真の最終点検が始まる。
応答が返ってくるかは、もう問題ではない。
動いたことが伝わればいい。
窓の外、残る三台のセダンが同時にウィンカーを点滅させる。
合図か。それとも、ただの偶然か。
午後の業務は終わった。
次の行動は、記録に残らない。ノートPCの画面に二つのウィンドウが並ぶ。左は本物の暗号化ツール。右は偽の接続ログ。
指が左のキーを打つ。本物のコードが流れる。『北風、強し。窓を閉めよ』
送信ボタンを押す。プログレスバーが進む。十秒後、小さなチェックマークが点く。
経路は生きている。
次に右のウィンドウへ移る。こちらは偽の情報だ。『南風、穩やか。船は出航せよ』
同じく送信する。プログレスバーが途中で止まる。偽のサーバーが捕捉した証拠だ。
胸の奥が疼く。内部に亀裂が走った。
左手で本物のツールを終了させる。右手は偽のログを敢えて開いたまま。
机の角に視線を落とす。指が自然に持ち上がる。
コン。
一度、叩いた。二度目は止める。三度目は必要ない。
これが罠の餌だ。偽りの三叩きを監視させろ。
立ち上がり、コーヒーカップを手に取る。冷めている。
窓の外、一台のセダンが突然発進した。速度が速い。
こちらの偽情報が噛み合った。
カップを置く。陶器が音を立てる。
次の一手は、もう林志鴻ではない。孤狼が偽りの足跡を残すだけだ。路地裏の公衆電話が汗で滑る。受話器のコードが三回、ねじれている。
「……」
ダイヤルを回す。長距離通話の音が遠くで切れる。
三つのトーンが耳に残る。合図は届いた。
次はカフェの窓際。佐藤が新聞を読みふけっている。三ページめくったところで止まる。
私のコーヒーカップを左にずらす。五センチ。
佐藤の新聞が静かに閉じられる。確認応答だ。
店内の時計が十四時五分。監視カメラのレンズが微かに動く。
立ち上がる。テーブルに小銭を置く。音を立てない。
外の熱気が皮膚を焼く。黒いセダンは路肩にいない。
代わりに白いバンが一台。窓が深くスモークされている。
歩道を東へ。百歩目で携帯を取り出す。電源を落とすふり。
バンのミラーが微かに傾く。追跡が始まった。
計画通りだ。
書店に入る。軍事コーナーの棚に手を伸ばす。一冊取り出す。
裏表紙のシールが剥がれている。下に極小のメモリが貼り付けてある。
本を戻す。メモリをポケットに滑り込ませる。
レジを通らずに裏口へ。店員がうなずくだけ。
路地に出る。バンは通りの向こう。まだ動かない。
メモリを端末に差し込む。画面が一瞬、暗転する。
プログラムが走る。偽の通信痕跡を十チャンネルに撒き散らす。
これが内部探査の餌だ。
端末を排水溝に落とす。水音が鈍い。
バンのドアが開く。男が一人、降りてくる。焦っている。
餌が食われた。
右折、左折、階段を上る。屋上に出る。
台北の街並みが広がる。その中を、偽の痕跡が泳ぎ回る。
監視網が攪乱される。ほんの数分間だけ。
それで十分だ。
屋上の給水塔の陰に隠れた。コンクリートの冷たさが背中に染みる。
胸の内ポケットから、本当の端末を取り出す。
電源を入れる。画面には一つのみぞ。真っ暗な背景に白い文字。
『経路確認 要・不要』
指が『要』を選ぶ。
画面が変わった。三つの記号が順に点滅する。
一つ目、三角。伊達のサインだ。活性状態。
二つ目、丸。佐藤。待機中。
三つ目、バツ。林志鴻。消滅。
そして四つ目が現れる。今までなかった記号だ。
星。
指が震える。星は、予定外の協力者を意味する。
誰だ?
星が点滅を続ける。位置情報が表示される。基隆港の西、工業団地。
考えられる人物はいない。罠か。
しかし、探査のテスト中に現れた。偶然ではない。
星をタップする。暗号化チャットが開く。
一行のメッセージが既にある。
『孤狼、風向きが変わった。北西から南東へ』
まさに今、偽の応答で使われた言葉だ。
つまり、星は偽の経路を監視していた。しかも、その内容を理解している。




