第57話 基隆港封鎖完了
階段を選ぶ。一段ずつ、音を立てずに下りる。
一階のロビーは無人だ。警備員のデスクにコーヒーの湯気が立っている。
外に出る。午後の光がまぶしい。
胸の内ポケットの紙が、唯一の指針となる。
歩き出す。次の目的地へ。痕跡も、計画も、すべて背中に置いて。支店長室の扉が閉じた。佐藤と二人だけの空間が広がる。
「支店長、昼食は?」
「コンビニで済ませる」
鞄からアルミパックを取り出す。内容は無味な栄養補助食品だ。
窓辺に立ち、左手でブラインドを上げる。右手はポケットに。
通りの向かい、屋台の店主が客と話しながら、こちらのビルを一瞥する。
「監視、変わらずか」
「はい。二交替制です」
佐藤が別の窓から報告する。声は低い。
アルミパックを開ける。中身は茶色い塊だ。口に押し込む。味はしない。
嚥下する。喉を通り過ぎる感触だけを数える。
「船舶の最終確認は?」
「林氏海運からの連絡、依然としてありません」
佐藤の端末画面が差し出される。地図上、基隆港のアイコンが灰色に変わっている。
「代替船は?」
「高雄から手配中ですが…」
「間に合わないな」
栄養補助食品の袋を握り潰す。アルミが軋む。
窓の外、黒いセダンが一台増えている。計三台だ。
「連絡網の再点検は済んだか」
「第四チャンネル以外、全経路活性化済みです」
「第四は遮断せよ。汚染されている」
「了解」
佐藤の指がキーボードを叩く。音が鋭い。
机の上の業務用携帯が震える。着信表示は「美咲」。
「父さん、昼ごはん食べた?」
「今、食べている」
「私も学食で。…何か、変な人たちが寮の周りに」
声がわずかに震えている。
「気にするな。学生寮は安全だ」
「でも…」
「後で連絡する」
通話を切る。画面が暗くなる。
腹の底が冷たい。嘘をついた。
栄養補助食品はもうない。満腹感はゼロだ。
「支店長、こちらです」
佐藤が小さなスクリーンを差し出す。衛星画像が映っている。
基隆港沖に軍艦のシルエットが三つ。商船の動きが止まっている。
「封鎖は始まった」
「我々の時間は?」
「七十二時間のうち、四十を経過」
「あと三十二時間か」
机の角に手をやる。指の腹が木材を撫でる。叩かない。ただ触れる。
「次の行動は?」
「警戒態勢を維持する。動くな」
「しかし…」
「動けば、罠だ」
窓の外、一台のセダンが発進した。ゆっくりと走り去る。
残るは二台。監視は継続中だ。
鞄の中から水筒を取り出す。蓋を開け、一口飲む。水の冷たさだけが喉を通る。
「全員に伝えろ。無線封止。次の指令を待て」
「了解」
佐藤が暗号化端末にメッセージを打ち込む。送信ボタンを押す。
部屋の中に、深い沈黙が落ちる。
窓ガラスの向こうで、台北の昼が続いている。喧噪はいつもと同じだ。
しかし、その音の底に、戦車の履帯の音が混じり始めている。
私は机に座り、目を閉じる。
次に目を開けるときは、もう食事の時間ではない。 栄養補助食品の粘りが歯に残る。水で流し込む。
携帯端末の待機画面が青白く光る。緊急連絡網の表示は九つのドット。
七つが緑。一つが黄。一つが赤。
「黄は伊達か」
指が画面をなぞる。黄のドットが点滅する。基隆港近郊だ。
佐藤が息をのむ。
「赤は…」
「林だ」
赤いドットは動かない。座標は昨日と同じ。林氏海運の本社ビル。
画面を二本指で拡大する。建物の周囲に四つの熱源が検出される。
「車両か人員か」
「長時間停止。監視車両です」
林は捕まった。それとも、最初から監視側だった。
アルミパックを丸める。金属の歪む音が部屋に響く。
「緑の七つに警告を。黄のみに活性化コードを送れ」
「伊達だけですか」
「あいつは生き残る」
佐藤の指が止まる。彼は林を信じていた。
「送信した」
画面の黄ドットが一度、強く光る。応答だ。
次に緑の七つが順に点滅する。緊急退避の合図が届く。
赤いドットは変わらない。沈黙したまま。
胸の内ポケットが熱い。最終手段の紙が存在を主張する。
「次は俺が直接動く」
「待ってください。まだ…」
「間に合わない」
窓の外でサイレンが重なる。三台のセダンが一斉に発進した。
監視が引き上げる。時機が来た。
端末の電源を切る。基板を抜く。
「あとは頼む」
「支店長…」
ドアを開ける。廊下の冷気が頬を撫でる。
背中で佐藤のキーボードの音が一つ、弾ける。
これが最後の連絡網チェックだ。次からは孤狼の伝達だけが残る。 コンビニの袋が机の上で微かに揺れる。中身は一個の握り飯だけだ。\
包装を剥く。海苔の湿気が指に付く。\
一口、噛む。米粒が歯の間に散る。
「……」\
携帯の画面を点ける。暗号化アプリのアイコンが三つ。\
一つ目をタップ。接続エラー。\
二つ目。認証失敗。\
三つ目だけが待機画面を表示する。背景は真っ暗だ。
「送信テスト」\
指が打鍵する。決められたコード。『天気はどうですか』\
送信ボタンを押す。プログレスバーが動かない。
「……」
五秒。十秒。\
画面が突然、緑に変わった。返信が浮かぶ。\
『晴れ。ただし北西の風強し』\
風向きが合わない。基隆港は南東だ。\
これは偽りの応答だ。
握り飯を置く。もう食欲はない。\
返信を削除する。アプリを強制終了。\
端末のバッテリーを外す。SIMカードを折る。
「経路は死んだ」\
声は誰にも届かない。\
机の角に手をやる。指が震える。
コン。
一度で止めた。二度目は叩けない。\
林志鴻の癖が、今やこちらの弱点だ。
立ち上がる。窓辺へ移動する。\
向かいのビル、三階の窓。カーテンがゆっくりと閉じていく。\
監視の目が去った。確認が終わったからだ。
鞄を手に取る。重さを確かめる。\
今日の昼食は終わりだ。次は戦闘食の時間へ。 机上の握り飯が冷たい。船舶リストの最終行に赤い斜線が走る。\
「最後の一隻もか」
車両確保の報告書をめくる。ページが一枚、また一枚。全てに「確保不能」の印。
腕時計の文字盤が十三時三十分を刻む。タイムリミットは肌で感じる重さだ。
握り飯を一口、機械的に噛む。米粒が砂のように喉を通る。
衛星端末の画面を点ける。基隆港の上空画像が現れる。軍艦の影が三つ、商船の航跡はない。
「封鎖完了」
声は乾いた。報告する相手もいない。




