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第56話 三叩きの癖

 これで最終チェックは終わりだ。次は実行だけが残る。ドアの向こうで鄭の声が消えた。支店長室の静寂が重い。


 陳国華の三叩きが机の裏側に残っている。林志鴻も同じだった。


 端末の画面を開く。暗号化メールの送信画面。宛先は林志鴻。本文は空だ。


 指がキーの上で止まる。送信すれば、経路の生死が分かる。だが、その通信を誰が傍受するか。


「支店長、十五分後には運送会社の方が」


 佐藤が声を潜める。視線は窓の外へ。


 黒いセダンがまだいる。ドアミラーが微かに動く。監視の目だ。


 メール画面を閉じる。計画は変更だ。表向きの業務だけを行う。


 書類の山を手に取る。出荷伝票、請求書、契約書。日々の仕事の積み重ね。


 一つ一つ、ハンコを押していく。インクの色が薄い。補充が必要だ。


 窓の外でサイレンが遠吠えする。方向は基隆港。


 美咲がコピー機の前で硬直している。リュックのチャックを握りしめたまま。


「美咲、三階の経理部にこれを届けてくれ」


 声をかける。彼女が振り向く。瞳が潤んでいる。


「…はい」


 書類を渡す。彼女の指が冷たい。


 ドアが開き、閉じる。娘の足音が遠ざかる。


 佐藤がそっと近づく。端末の画面を示す。地図上の赤い点、六つのうち二つが灰色に変わった。


「林氏海運の倉庫周辺で、検問が強化されました」


「連絡は?」


「途絶えたままです」


 机の角に手をやる。叩きたくなる。指を握りしめて止める。


 代わりに電話機を取り、内線を押す。経理部の番号だ。


「先ほどの書類、確認お願いします。至急です」


 声は平坦だ。業務連絡のそれだ。


 受話器を置く。これが今できる必要最小限の業務だ。


 陳国華の提案書が机の上にある。代替ルート案。罠の匂いがする。


 ファイルにしまい、鍵をかける。最下段の引き出しへ。


 立ち上がり、窓辺へ行く。黒いセダンが発進した。ゆっくりと曲がり角を消える。


 監視が去った。今だけの隙だ。


「佐藤」


「はい」


「極秘経路の再検証は中止する。代わりに、通常業務のデータバックアップを開始せよ。全システム、一時間以内に」


「…了解です」


 佐藤の指が飛ぶ。キーボードの音だけが響く。


 私は机に戻り、今日のスケジュール表を開く。午後一時、役員会議。午後三時、税務署訪問。


 全てに赤線を引く。キャンセルだ。


 その下に、新しい文字を書く。自筆で。


『船舶・車両・臨時避難場所の最終点検』


 これが、今日の本当の業務継続だ。


 窓ガラスが微かに震える。遠くの爆発音か。それとも、ただのトラックか。


 息を深く吸う。肺が痛い。


 点検は孤狼で行く。誰にも知られず。


 佐藤のキーボードの音が止まった。彼がこっちを見る。


「バックアップ完了です。暗号化コンテナに格納しました」


 頷く。それでいい。


 立ち上がり、上着を取る。ポケットを確かめる。戦術ベストのリモコン、現金、偽造身分証。


「支店長、外出されますか?」


「ええ。税務署の前に、少し用事を」


 嘘が滑らかに出る。


 ドアノブに手をかける。金属の冷たさが覚悟を固める。


 振り返らない。背中で佐藤が息を飲む音がするだけだ。


 廊下を歩く。足音が反響する。この先に、一二〇〇人の道がある。


 エレベーターのボタンを押す。表示板が一つずつ光る。


 今日の業務は、これからだ。 極秘ファイルの暗号は三層だ。最後の鍵が回る音が頭蓋に響く。


 船舶リストが現れる。林氏海運の船名が七隻、すべて赤線で消されている。\

「…」


 指が次のページをめくる。車両確保状況。十台のレンタカー、五台のバス。うち九台が「契約解除」の印。


 心臓が一瞬止まりそうになる。肋骨の内側が冷たい。


 最後のページ。臨時避難場所。六カ所の安全部屋。すべて「発覚」のスタンプが押されている。


 ファイルを閉じる。革の表紙が手のひらに汗を吸い取る。


 全てが筒抜けだ。計画は三日前に死んでいた。


 窓の外を見る。黒いセダンが戻ってきた。二台になっている。


 立ち上がる。膝の関節が軋む。五〇歳の体が重い。


 ファイルをシュレッダーにかける。機械が唸る。紙片が雪のように舞う。


 次にハードディスクを取り出す。強力磁石を当てる。データの死ぬ音は聞こえない。


 鞄を背負う。肩に食い込むベルトが唯一の現実だ。


 ドアを開ける前に一度、深呼吸する。


 肺の底まで冷たい空気を入れる。吐く息に、鉄の味がする。


 廊下の電気はついていない。非常灯だけが緑に光る。


 足音を殺して進む。非常階段の扉が重い。


 一階ずつ下りる。各階の窓から外を確認する。


 路上は相変わらずだ。だが、見えるものの意味が変わった。


 地上へ出る。熱気が襲う。


 左袖のボタンはない。右袖のボタンもない。


 代わりに胸の内ポケットで、一枚の紙が心臓の鼓動を伝えている。


 それは極秘ファイルには載っていない。脳裏だけに刻んだ最終手段だ。


 歩き出す。次の一手は、全てを失ってからだ。 鞄の底に隠した最終手段が冷たい。二重底の仕切りが指に引っかかる。


「……」


 開ける。中は現金、偽造パスポート三種、そして単独用の衛星端末だ。


 端末の電源を入れる。起動音はしない。画面が青白く光るだけ。


 接続アイコンが点滅する。三秒後、一つの衛星だけにロックされた。


「連絡網、最後の一つ」


 指がキーを打つ。短いコード。『計画X、発動。孤狼』


 送信ボタンを押す。プログレスバーが右へ流れる。百パーセントで止まる。


 応答はない。これでいい。送信した事実だけが重要だ。


 端末のバッテリーを抜く。基板を二つ折りにする。パチン、と小さな音がする。


 現金の束を数える。金額は計画値の三分の一だ。それでも足りる。


 偽造パスポートの顔写真を確認する。三種類とも別人だ。どれも自分には見えない。


「これでよし」


 上着を脱ぐ。裏地を裂く。現金とパスポートを縫い込む。


 針が布を貫く。一針、また一針。縫い目が歪まないように。


 再び上着を着る。重みが左右対称になった。


 次に靴をチェックする。靴底を外す。薄いナイフとワイヤーソーが収まっている。


 靴を履き直す。違和感はない。


 最後にベルトのバックルを外す。裏側に極小のナイフが仕込まれている。指で確認する。


 すべての装備が体の一部になった。


 部屋を見回す。消すべき痕跡はもうない。


 ドアノブに手をかける。一度、深く息を吸う。


 吐く息が白く曇る。室温は下がっている。エアコンを切ったからだ。


 ドアを開ける。廊下の向こうで、エレベーターの音が鳴る。


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