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第06話 欠けた紙片

 歩き出す。右肩がこわばる。鞄のストラップが食い込む。呼吸が浅くなる。十五分。あまりに長い。


 路地裏に折れる。街灯が壊れている。闇が深い。足早になる。自宅の玄関が見える。最後の十歩。鍵を探す。ポケットの中で硬貨と触れる。


 ドアノブに触れる。鍵穴に挿す。回す。軋みがする。いつもと音が違う。


 扉が開く。暗闇が待つ。 ドアが閉じる音が骨に響く。背中を壁に預ける。目を閉じる。暗闇が内側から湧く。


 手紙の封筒が浮かぶ。机の上。埃の輪。中心だけが歪む。封の糊がずれる。二ミリ右へ。折り目の皺。鋭く短い三本。慌てて押し潰した指紋か。


「林、机を見てくれ」


 声が脳裏を掠める。林の蹴る机。飛び散る鍵束。ノブの汚れが消えている。新品の傷。鍵穴に光る微粒子。銀色。研磨剤の匂い。


 左胸が締め付ける。脈が早い。浅い呼吸が耳朶に当たる。冷たい空気が肺を刺す。


 封筒を開ける手が震えている。あの時。紙の端が破れる。不自然な裂け目。斜め四十五度。左手で強く引いた痕跡だ。


 中身を広げる。文字が滲む。重要な連絡。緊急の避難指示。そして一行。暗号めいた表現。『台風の目は二重だ』


 窓の外。夜明け前の影。一瞬の動き。確認はできない。だが確かにいた。監視の目が光る。


 手の平が汗ばむ。封筒の感触が蘇る。厚手の紙。重み。しかし底が軽い。何かが抜かれている。もう一枚あったはずだ。


 歯を食いしばる。顎の筋肉が痙攣する。情報は漏れた。経路は不明。敵は内部を嗅ぎ回る。計画の根幹が揺らぐ。


 目を開ける。天井のシミが睨む。時間がない。整理しろ。痕跡は語る。犯人は急いだ。拙い。だが効果的だ。


 拳を握る。爪が掌に食い込む。鈍い痛み。これが現実だ。安全な場所など、最初からなかった。


「システムが侵された」


 自分の声が部屋に落ちる。無力に吸い込まれる。次の一手を考えろ。動かなければ、次の封筒は俺の手元に届かない。


 体を起こす。骨が軋む。疲労が重りになる。それでも立ち上がる。机へ向かう。記録を始める。脳内の映像を文字に翻訳する。


 一つ。封筒の位置。\

 二つ。糊のずれ角度。\

 三つ。皺の数と長さ。\

 四つ。欠けている紙片。


 書き終える。ペンを置く。机の上を見つめる。ここにも監視の目はあるか。


 息を吐く。白い霧が漂う。朝が近い。仮眠の時間は終わりだ。情報は整理された。次は行動だけだ。


 拳を緩める。血の気が戻る。冷たさが遠のく。心臓の鼓動が一つ、深く沈む。準備はできている。さあ、始めよう。 封筒の折り目に爪痕があった。浅く三本。誰かが慌てて押さえつけた。


 糊の剥がし跡が不自然だ。中心から右へずれる。二ミリ。左手を使った人間だ。


「林の机は整理されすぎた」


 声が喉の奥で渇く。耳を澄ませる。廊下から微かな軋み。いつもの暖房配管か。


 立ち上がる。膝が軽く震える。ドアへ歩み寄る。覗き穴を覆う手の影がない。確認する。鍵穴を覗く。微かな光の反射。新しい傷だ。


 施錠を回す。音が重い。二重ロックがかかる。背中で扉の感触を確かめる。冷たい鉄板が軋む。


 書斎へ戻る。防犯カメラのモニターを起動する。画面が割れる。四分割された映像。一つが静止したまま。玄関前のカメラだ。


「故障か」


 時計を見る。午前五時三十一分。この時間に故障する確率は低い。指がキーボードを叩く。再生ボタンを押す。三時間前の映像が流れる。


 人影が映る。黒い上着。帽子で顔を隠す。カメラの前で一瞬止まる。手を伸ばす。映像が乱れる。砂嵐のノイズ。五秒間の空白。


 胃が締め付ける。息を深く吸う。肺が痛む。


 窓辺へ移動する。カーテンの隙間から外を覗く。向かいのビル。四階の窓が一つ開いている。通常は閉まっている。


「監視点か」


 体を壁に隠す。目を細める。窓枠に三脚の影が見える。小さなレンズの光る。


 端末を取り出す。電源を入れない。バッテリー部分を触る。微かな発熱がある。使用済みだ。


「ここも侵された」


 歯を食いしばる。顎の筋肉が痙攣する。計画の全てが筒抜けか。


 机の引き出しを開ける。予備の携帯電話を探す。包装が破られている。シールが剥がれている。


 拳を握りしめる。爪が掌に食い込む。痛みで思考が研ぎ澄まされる。


「移動しろ。今すぐに」


 自分に言い聞かせる。鞄を手に取る。最低限の装備だけを詰める。防犯カメラの記録媒体を抜く。ポケットにしまう。


 最後に書斎を見回す。机の上。封筒の残骸。全てを置いて行く。


 玄関へ向かう。足音を殺す。ドアノブに手をかける。一呼吸置く。外の気配を感じ取る。


 扉を開ける。朝の冷気が流れ込む。路地はまだ暗い。第一歩を踏み出す。


「次は逃げ場がない」


 呟く声が白い霧になる。背中で扉が閉まる音が、全ての終わりを告げるようだ。 鍵穴に銀色の粉が光る。微細な粒子が付着する。これは研磨剤だ。


 指で拭う。粉が指紋に絡む。新しい傷が鍵穴の内側にある。複数の引っかき痕。


「鍵を増やした痕跡か」


 声が喉で渇く。玄関ドアの枠を見上げる。防犯カメラのレンズが外れている。ネジが一つ欠けている。


 廊下の法定灯がちらつく。天井のシミが広がる。水漏れか。しかし乾いている。


 小物置き場の埃が乱れる。中心だけが撫でられたようだ。灰皿の位置が五センチ左へ。灰が一粒も落ちていない。


 無人の隣戸の隙間から光る。微かな赤色LED。録画中を示すランプだ。


 背筋が凍る。冷気が脊椎を伝う。心臓が胸骨を打ちつける。


 林の声が蘇る。「俺の机だ。誰が整理したんだ?」


 こぶしを握る。爪が掌に食い込む。痛みで思考が一点に集まる。


 引き出しのノブを触る。金属が冷たい。指紋が拭き取られている。艶が均一すぎる。


 床のタイルを覗く。わずかな擦り傷が三本。引きずった跡だ。家具の脚とは違う。


「二人以上が入った」


 呟く声が廊下に吸い込まれる。防犯装置は無力化された。痕跡は整理された。しかし慌てていた。手順が雑だ。


 窓の鍵を確認する。錠前の内部に微かな油の跡。潤滑剤が新品の匂いを放つ。


 すべてが指し示す。内部の敵が動いた。証拠隠滅のプロセスだ。監視は継続中だ。


 左胸が重い。計画が骨組みから崩れる。情報は漏れた。経路は絞り込める。


 一つ。林との直接接触。\

 二つ。無線通信の傍受。\

 三つ。書類の物理的アクセス。


 呼吸が浅くなる。次の一手が見えない。暗闇が視界の端から迫る。


 しかし動かねばならない。立ったままでは標的だ。


 足を踏み出す。一歩。また一歩。廊下を抜ける。出口へ向かう。 封筒の底が薄い。裏側に透ける影。もう一枚の痕跡だ。誰かが剥がし取った。


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