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第54話 単独行動の決断

 路地に入る。コンクリートの壁が迫る。


 ここで決断する。公式を捨て、単独で行く。


 指がポケットの中の端末に触れる。緊急通報ボタンの蓋を開ける。


 しかし押さない。まだ早い。


 まずは生きてここを出ろ。


 歩幅を変えず、速度を変えず。監視の目を欺くには平常が武器だ。


 路地の出口が光る。向こうは賑やかな市場だ。


 一歩、踏み出す。人混みの熱気が襲う。


 背後から足音が追う。複数だ。


 焦らない。市場は迷路だ。


 魚屋の前で右へ。八百屋の露店を左へ。


 追跡の気配が薄れる。しかし油断はしない。


 市場の端にある公衆電話を見つける。受話器を取り外す。糸が切れている。


 これも封じられている。


 ようやく悟る。政府の計画など最初からなかった。


 全ては自分次第だ。


 人混みを抜け、小さな路地に出る。


 ここで初めて、緊急ボタンを押す。


 一つの連絡だけが飛ぶ。佐藤へ。


「全ての予定を破棄せよ。単独実行へ移る」


 応答はない。それでいい。


 端末のバッテリーを抜く。基板を折る。


 最後の通信手段が消える。


 今からは、一人だ。


 路地の奥で立ち止まる。上を見上げる。台北の空は灰色のまま。


 だが、雲の切れ間が一筋光る。


 それだけで十分だ。


 歩き出す。次は、約束の場所へ。


 誰にも知られず、誰にも頼らず。


 ただ一人、一二〇〇人を背負って。ベンチの背板が服の下に食い込む。美咲への最終警告はまた後だ。


 ポケットの端末を取り出す。暗号キーを打つ。


 林志鴻の応答を待つ。画面は真っ暗のまま。


 指が二度、三度、同じコードを叩く。無音の着信音が鼓膜を揺さぶる。


 木の葉が一枚、肩に落ちる。風はない。


「今すぐ応答せよ」


 声は唇の中で消える。林の癖が頭をよぎる。三叩き。


 自分も今、三回叩いた。


 冷や汗が背骨を伝う。これは偶然か。それとも染み付いた動作か。


 端末を握り締める。プラスチックが軋む。


 遠くでサイレンが泣く。長く、二つ。


 立ち上がる。足元に蟻の列が続く。彼らには計画がある。


 私の計画は崩れた。林が沈黙した。連絡網に穴が空いた。


 歩き出す。蟻を踏まないように迂回する。


 池の水が濁っている。底に影が蠢く。携帯を落とすふりをする。


 水が跳ねる。影は消えない。監視カメラのレンズだ。


 膝をついて手を濡らす。その隙に、端末の裏蓋を開ける。


 SIMカードを引き抜く。爪で折る。金属片が指に刺さる。


 立ち上がる。掌を拭う。血がハンカチに滲む。


 もう林には頼れない。孤狼になる。


 公園の出口が光る。その向こうに台北が続く。


 振り返る。ベンチは空だ。蟻の列は続いている。


 彼らにはまだ道がある。


 私にも道を作る。公園のベンチが急に冷たく感じた。林志鴻の沈黙は監視の証だ。


 ポケットの携帯を点ける。暗号化通信アプリを三つ順に起動する。一つ目、接続失敗。二つ目、タイムアウト。


「…」


 三つ目の画面だけが点滅する。佐藤からの予備経路だ。


 指が打鍵する。短いコードを十回変えて送信する。


 応答は五秒後に返った。数字の羅列が表示される。経路は生きている。


 立つ。鞄の中から別端末を取り出す。充電ランプが緑に光る。


 この一台だけが、林に直接繋がるはずだった。


 スイッチを入れる。起動音がしない。画面は真っ暗のまま。


 電池を確認する。接点に微かな変色。腐食だ。


 脇腹が締め付けられる。計画の一つが沈黙した。


 歩道橋を上る。高みから市内を見下ろす。基隆港の方角に煙が立つ。


 携帯を耳に当てる。佐藤に指示を出す。


「代替経路Cを起動せよ。全クライアントにテストパケットを流せ」


 了解の返事が返る。


 橋を下りながら、もう一台の端末でメールを確認する。ダミーの商談文面。文中の三単語が赤く表示される。緊急活性化の合図だ。


 すべての経路に指令は届いた。


 次の角を曲がる。路地の奥に公衆電話ボックスが見える。


 受話器を取る。コインを入れる。ダイヤル音が鳴る。


 三桁の番号を回す。呼び出し音が一度、切れる。


「…」


 受話器から電子音が三回響く。活性化完了の合図だ。


 電話を置く。コインは戻らない。


 これで最後の予備経路も生きた。


 振り返る。公園のベンチはもう遠い。


 今日のジレンマは終わりだ。行動方針は決まった。


 すべての連絡網に、戦闘配置の指令が走る。ベッドサイドの時計が11:45を示す。メールチェックの時間だ。


 ノートPCの電源ボタンを押す。起動音がしない。画面は真っ暗のまま。\

「…」\

 指で電源ケーブルを辿る。コンセントが抜けている。差し込む。画面が青白く光る。


 ログイン画面で指が止まる。代わりに窓辺へ向かう。ブラインドの隙間から外を覗く。


 通りの向こう、交差点の角に迷彩服の人影が二つ。土嚢が積まれ始めている。\

「検問か」\

 息を潜める。腕時計を見る。監視を五分割伸ばす。


 遠くで軍用トラックのエンジン音が重なる。窓ガラスが微かに震える。


 PCの前に戻る。メールは十七通。全てスパムフィルタを通っている。


 日次報告書のテンプレートを開く。カーソルが点滅する。文字が打てない。


 窓の外を見る。土嚢が腰の高さまで積み上がった。迷彩服が四つに増えている。


 報告書を閉じる。保存しない。


 観察ポストに腰を下ろす。双眼鏡を手に取る。レンズを合わせる。


 検問所の指揮官が地図を広げている。指さす方向がこちらの通りだ。


 息を吐く。白い霧が窓ガラスに付く。


 五分割、終了。それでも動かない。


 トラックのヘッドランプが点滅する。合図だ。検問が稼働する。


 ようやく立ち上がる。PCの電源を落とす。


 今日の報告書は空白のまま。これが正しい業務継続だ。メールチェックを諦めた。日次報告書は存在しない。


 窓辺から目を離さない。検問の土嚢が胸の高さになった。兵士の数は六。


 報告書の代わりに、暗号化スマホを取り出す。佐藤への緊急コードを入力する。


「検問設置確認。移動ルート再評価中」


 返信は三秒で返る。地図ファイルが開く。赤いラインが二本、台北支店まで伸びる。


 一本は大通り。封鎖済みだ。もう一本は路地裏。五分割で五分。


 肩の戦術ベストの重さを確かめる。装備は全て所持している。


 アパートの玄関へ移動する。鍵穴に手をかける。


 振り返る。部屋を見渡す。二度と戻らないかもしれない。


 ドアを開ける。廊下は無人だ。


 階段を駆け下りる。足音を殺す。一階ごとに停止する。窓から外を確認する。


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