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第53話 定点監視の男たち

 自分の右手を差し出す。掌と掌が触れる。相手の手の平に、小さな硬化した箇所がある。銃のマウントだ。


「お忙しいところ恐れ入ります」

「とんでもない。いつもお世話になっております」


 コーヒーの匂いが近づく。美咲がトレイを運んでくる。カップが四つ。


「お嬢さん、ご成長されましたな」

「こちらでインターンをさせていただいております」


 陳国華の視線が美咲のリュックへ一瞬流れる。ノートの赤い表紙がちらり。


 佐藤が咳払いする。


「それでは、早速ですが共同検討の件について…」


 自分の口が動く。物流経路、関税、保管料の数字が流れる。裏では頭が別の計算をしている。赤い点七つ。そのうち二つは既に危険圏内。黒いセダンが視認した時点で。


 陳国華の左手がテーブルに触れる。人差し指、中指、薬指の順に、軽く三回叩く。


 コン、コン、コン。


 自分の腹の底が冷たく震える。


「…ということで、第一候補地は基隆港近郊とさせていただきたいのですが」

「林氏海運との協力も視野に、ですね」

「もちろんです。林さんとは長いお付き合いですから」


 陳国華が微笑む。目尻に皺が寄る。その深さが左右で違う。


 端末が震える。佐藤からの内部メッセージだ。『七番、消滅。林より連絡途絶』


 コーヒーカップに手を伸ばす。湯気が立ち上る。その向こうで陳国華が口を開く。


「一つ、気になる点がありまして」

「はい」

「避難計画の最終版、そちらで微調整されたそうですね」


 カップの縁が指に当たる。熱い。しかし手は引かない。


「何のことでしょう」

「いえ、聞き違いでしたらすみません。林さんから、『結城さんが最終確認に入った』と伺いまして」


 美咲の息づかいが止まる。コピー機のモーター音だけが唸る。


「確かに、緊急時のマニュアルは定期的に見直しておりますが」

「そうですよね。我々としても、在留邦人の安全は最優先ですから」


 陳国華が鞄から書類を取り出す。表紙に華泰聯通のロゴ。その下に小さな英語で『Contingency Plan B』とある。


「念のため、我が社案もご共有させてください。万が一の際の、代替ルート案です」


 書類を受け取る。ページをめくる。地図上に引かれたルートが、自分が削除した危険経路と完全に一致する。


 背中の汗が一気に冷える。


「…なるほど。有益な案です」

「ご検討いただければ。では、本日はこれで」


 陳国華が立ち上がる。握手は求めない。軽く会釈だけ。


「美咲さん、どうぞお元気で」

「はい…ありがとうございます」


 ドアが閉まる。足音が遠ざかる。


 佐藤が息を吐く。


「支店長、あれは…」

「分かっている」


 美咲の顔が青い。リュックのチャックを完全に閉めようとしている。手が震えている。


「父さん、あの人…」

「後で話す」


 窓の外を見下ろす。黒いセダンが発進する。路肩に、ネクタイの結び目を直す陳国華の姿が一瞬映る。右手がもう一度、三回、腿を叩いている。


 コン、コン、コン。


 自分も机の端に手をやる。しかし指は止めた。


 代わりに端末を取り出す。佐藤の画面に映った赤い点、六つだけに書き換える。


「全集合地点、前倒し。第一段階、開始時刻を繰り上げろ」

「了解。林への連絡は?」

「遮断せよ」


 美咲が一歩近づく。リュックを抱きしめている。


「私も…何かできること」

「お前はここにいる」


 声が鋭くなった。美咲の肩が小さく跳ねる。


 佐藤がメッセージを送信する。端末が青く光る。


 窓の外、台北の街が今日も動いている。その喧騒の下で、六つの点が静かに点滅し始めた。ベンチの木が背中を押す。記憶の蓋が開く。


 砂の匂いがよみがえる。イラクの暑さが皮膚を焼く。


「現地民の通行は認めない」


 上官の声が耳の奥で響く。チェックポイントの柵の向こう、子供が立っていた。


「しかし、彼らは…」

「命令だ」


 手の中の銃が重い。安全装置を外せば軽くなる。


 子供が一歩踏み出した。目がこちらの銃を見つめている。怖れではなく、何かを探る目だ。


 自分は息を止めた。指が引き金にかかる。


 上官が無線で叫ぶ。「撃て」


 その時、子供が手を挙げた。片手に水筒。もう片方の手は空だ。


「撃つな」


 こちらの声が砂に吸われる。引き金から指が離れる。


 上官の視線が背中を刺す。しかし、子供は走り去った。


 今、台北の公園で息が詰まる。あの時の指が、今も震えている。


 命令か信念か。その選択が今また迫る。


 陳国華の「三叩き」。林志鴻の連絡途絶。同じ兆候が並ぶ。


 イラクで撃たなかった一発。その結果、誰かが代わりに死んだのか。


 それとも、あの子供が何かを運び出したのか。


 答えはまだ砂の中だ。


 ただ、一つ分かる。今、引き金の前に立つのは自分自身だ。


 早期行動のボタンは押した。次は、誰を、何を、撃つのか。


 ベンチから立ち上がる。膝の関節が軋む。五〇歳の音だ。


 公園の出口へ歩き出す。影が長く伸びる。まるで砂漠の夕陽のようだ。


 もう迷わない。撃つべきは、過去の自分だ。


 足取りが早くなる。次に向かうのは、最後のチェックポイント。 陳国華の三叩きが耳膜を打つ。林志鴻も同じ癖を持っていた。


 公園のベンチに座り直す。木の葉の影が手の甲を揺らす。


 政府発表を待つ限り、一二〇〇人は見殺しだ。


 指が自動的に動く。スマホの暗号化アプリを起動する。接続拒否の表示が三回続く。


 林からの応答がない。これは偶然ではない。


 立ち上がる。背骨の一本一本が軋む音を聞く。


 遠くでサイレンが重なる。救急か、軍用か。


 歩道の舗装にひび割れが走る。その線を跨ぎながら考える。


 公式計画は絵に描いた餅だ。ならば、餅をつき直すしかない。


 小さな池の縁を歩く。水面に黒い影が落ちる。ドローンか。


 姿勢を低くする。自然に靴紐を結び直すふり。


 影は過ぎ去る。だが監視の目は残る。


 ここには防犯カメラがない。だからこのベンチを選んだ。


 それでも目はある。生身の目が。


 ベンチから三メートル、東の茂み。あの男は三十分動かない。


 西の歩道橋、女性が携帯を構え続ける。


 包囲網は既に張られている。


 ゆっくりと立ち上がる。鞄のストラップを肩に掛け直す。


 深呼吸一つ。肺の奥まで冷たい空気が入る。


 歩き出す。茂みの男の視線が背中に張り付く。


 曲がり角で一度、振り返る。男は茂みから出てこない。


 確認した。彼らは動かせない。定点監視だ。


 ならば、こちらの動きは読まれている。


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