第52話 陳国華の握手
歩幅を一定に保つ。店のシャッターが閉まったまま。
交差点で立ち止まる。信号が青に変わる。
後方視野の端で人影が動く。振り向かずに歩を進める。
「一匹……いや、二匹か」
コンビニの前を通り過ぎる。ガラスに映る男が携帯を操作する。
路地裏に入る。湿った匂いが鼻を突く。
廃材の隙間からアパートを見上げる。自室の窓が開いたまま。
胸の鼓動が早くなる。汗が背中を伝う。
「侵入された」
携帯を取り出す。佐藤への暗号メッセージを打つ。
「巣を捨てろ。三十分後、二号地点で」
二号地点へ向かう足が重い。アスファルトが靴裏にへばりつく。
路地の陰から幹道へ出る。人混みに紛れる。
交差点のたびに視界を切る。店舗のガラスが無数の目に変わる。
地下鉄の入り口を見つける。階段を駆け下りる。
ホームの列に並ぶ。電車の風が髪を揺らす。
「追跡はまだか」
ドアが閉まる。車内の窓に自分の顔が浮かぶ。
三駅で降りる。構内の地図を一瞥する。
非常口の階段を上がる。コンクリートの冷たさが手のひらに残る。
路地裏の空気が変わった。湿り気に鉄の匂いが混じる。
「ここだ」
錆びたゲートの前に立つ。影の中から息を殺す。 ゲートの向こうに通信端末のLEDが点滅する。偽の経路の餌が食いつかれた。
舌が上顎に張り付く。唾を飲み込もうとして喉がひりつく。
「ここで踏みとどまれ」
目の前に二号地点の非常口が開く。逃げ道はまだある。
「一千二百人を見捨てられるか」
肺が軋む。吸う空気に砂が混じったようだ。
靴底がアスファルトから離れない。体が命令を拒む。
「戻れば安全だ。ただの商社マンに戻れる」
ゲートの錆びた部分が視界に焼き付く。鉄の味が口に広がる。
非常口の階段が暗がりへ続く。一歩踏み出せるか。
「踏み込め。踏み込んで沈め」
拳を握る。爪が掌に食い込む。
ゲートを押し開ける。蝶番が呻く。
「よし」
階段の冷気が首筋を這う。下りるほどに湿った匂いが濃くなる。
足音だけが壁に跳ね返る。十二段、十三段。
地下の暗がりに一点の明かり。赤い提灯が揺れる。
「三叩き、二待ち」
指の関節がドアを打つ。コン、コン、コン。
隙間から太い腕が見える。林の目が一瞬光る。
「早すぎたな」
背中を押されるように中へ入る。ドアが閉まる音が鈍い。
「龍の爪が動き出した」
冷蔵庫の裏側が滑る。階段がさらに下へ続く。
地下本部の空気が重い。機械の灯りが青く点滅する。
「七十二時間。もう猶予はない」
地図が机に広げられる。赤い印が基隆港を囲む。
「迎えは来る。だが道は塞がれる」
拳を地図に置く。紙が皺になる。
「ならば道を切り開く」
提灯の火が揺れた。影が壁で蠢く。 資料の端を揃える。指が机の縁を叩く。コン、コン、コン。
佐藤の視線が手元に刺さる。
「何か問題か?」
「いや」
無意識だった。肩の力が抜ける。
衛星画像の更新音が鳴る。台湾海峡の艦影が増えている。
通信モニターが赤く点滅する。干渉パターンが三つ。
「本格始動だ」
林の目を見る。瞬きが一回遅れた。
「準備を前倒しする」
新しい端末を取り出す。暗号鍵を打ち込む。
「今すぐ連絡網を稼働させろ。七十二時間はない」
林が頷く。顎の筋が浮かぶ。
佐藤が端末を握りしめる。手の甲が白い。
「了解」
冷蔵庫の裏から外へ出る。路地の湿った空気が肺を満たす。
緊急避難場所への道を数える。左、二つ目、下水蓋の手前。
ドアが開く。コンクリートの箱に一人。
端末の画面が青く光る。送信ボタンを押す指が震えない。
「全員、早期行動に移れ」
送信音が消える。静寂だけが残る。
机の角をもう一度叩く。コン、コン、コン。
今度は意志があった。
机の角を叩いた指先が熱い。コン、コン、コン。
三回で止めた。習慣が思考を侵食する。その可能性を認める。
鞄を背負う。肩のベルトが鎖骨を食い込む。重量は通常の二倍だ。
ドアノブに手をかける。金属の冷たさが掌の線を辿る。
「行ってくる」
声は誰にも向けていない。アパートの廊下に消える。
階段を下りる。一階ごとに視線を振る。踊り場の窓、郵便受けの影。
路上に出た。朝の喧騒が皮膚を打つ。スクーターの排気が舌の上に澱む。
歩幅を平常に保つ。店のガラスに映る自身を監視する。背後、斜め後、対向車線。
信号が青に変わる。渡りながら、左袖のボタンを外す。第一の合図。
百メートル先の茶店の簾が上がった。確認応答だ。
歩道橋を上る。高みから視界を掃引する。黒いセダンは今日も路肩にいる。
階段を下りきる。右袖のボタンが取れた。第二。
雑貨屋の店主が新聞を捲り直す。動きに淀みはない。
支店が見えてくる。ビルの三階から七階まで。自社のフロアは五階だ。
エントランスの回転ドアが光る。自分の姿が歪んで映る。
一歩、踏み込む。 五階の廊下。カーペットの色が昨日と違う。濃い緑に張り替えられている。
「支店長、おはようございます」
受付の鄭が立つ。微笑みの角度が標準より三度浅い。
応答せずに事務室へ向かう。ドアノブがすっと回る。中は三人いた。
「お早う、結城さん」\
「支店長、本日のスケジュールです」\
「父さん」
伊達は窓際のソファに腰掛け、新聞を閉じる。佐藤は端末を手に立っている。美咲がコピー機の前で振り返った。
机に鞄を置く。鍵を回す音だけが響く。
「九時四十分から、華泰聯通の陳国華様がご来訪されます」\
「先方の意向は?」\
「新規物流拠点の共同検討。表向きは」
佐藤の端末画面を覗く。地図上に赤い点が七つ。避難集合地点だ。
「了解」
窓の外を見る。黒いセダンがビル正面の路上に停車したまま。ドアが開く。
陳国華が降り立つ。グレーのスーツ。右手でネクタイの結び目を一度撫でる。
胸の下あたりが微かに疼く。古傷の位置だ。
「父さん、コーヒー淹れましょうか」\
「ああ」
美咲が給湯室へ向かう。背中でリュックのチャックが半開きになっている。中に赤い表紙のノートが見えた。
伊達がそっと立ち上がる。新聞を丸めてゴミ箱へ投げ入れる。紙の束が底に当たる音が鈍い。何か重いものが入っている。
「では、私はこれで」\
「連絡を」
伊達が頷き、ドアから出て行く。廊下の足音が二つ。鄭とすれ違う気配。
ドアが再び開く。
「結城支店長、ご無沙汰しております」
陳国華の声が部屋を満たす。右手が自然に伸びてくる。握手を求める姿勢。




