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第51話 午前の路地監視

「佐藤。最終状態確認を」


 通信機のボタンを押す。雑音一つない。


「非電波網、最終中継点二か所、生存確認済み。監視継続中」


「伊達の位置は?」


「離陸地点C、監視役。無線封止を徹底している」


「美咲の監視カメラは?」


「学生寮共用部、三台全て作動。異常なし」


 指がリストの端を叩く。リズムが秒数を刻む。


「非常時連絡順位は佐藤、次に伊達。二人が沈黙した場合、俺が直接動く」


「了解」


「次の定時連絡は03:00。それまでに敵の動静を探れ」


「敵は?」


「林、そして彼を動かす者だ」


 通信を切る。静寂が部屋を満たす。


 机の引き出しを開ける。睡眠導入剤の小瓶が転がる。服用量は半錬。浅い眠りのために。


 錠剤を手のひらに乗せる。白く、小さい。


 水筒の水で流し込む。喉が冷たい筋になる。


 装備を点検する。拳銃の弾倉を抜き、再装填する。金属の音だけが規則的だ。


 靴を脱ぐ。靴下の裏に小型のナイフを装着し直す。テープが肌に張り付く。


 ベッドではなく、床に寝袋を敷く。窓から離れた位置。壁際だ。


 寝袋に潜り込む。布の匂いが古い記憶を呼ぶ。


 目を閉じる。耳を澄ます。


 遠くのサイレン。近くを走る車の音。自らの心拍。


 思考を停止させる。浅い眠りの海へ、体を沈めていく。


 闇の中、時計の針だけが動いている。あと六時間三分。


 時計の針が動いた。あと五分。


 寝袋から這い出る。筋肉が重い。骨が軋む。


 拳銃を掴む。冷たい。安全装置を外す。


 窓のスリットから外を覗く。通りは灰色だ。人影はない。


 背嚢を開ける。現金、偽造パスポート、衛星電話。すべてある。


「準備完了だ」


 胸ポケットの写真に触れる。娘の笑顔。紙が擦れる音。


 玄関に移動する。ドアノブに手を掛ける。金属が冷たい。


 一度、息を吸う。肺が拡張する。


 ドアを開ける。廊下の空気が流れ込む。


 天井のひび割れを数える。三十二。三十三。


 ベッドが軋む。横を向く。壁の時計が光る。四時十七分。


 拳を握る。開く。また握る。爪が掌に食い込む。


「裏切り者か」


 窓の外を漁船のエンジンが唸る。音が遠ざかる。


 目を閉じる。閃光が走る。砲声。悲鳴。砂の匂い。


 瞼を開ける。暗闇が滲む。


「護れるか」


 胸が締めつけられる。肋骨が折れそうだ。


 起き上がる。床板が冷たい。足の裏が痺れる。


 デスクに向かう。作戦図が広がる。赤い矢印が突き刺さる。


 指でなぞる。基隆港から宮古島へ。海路三百海里。


「千二百人」


 奥歯を噛みしめる。顎が痛む。


 写真立てを倒す。娘の背中。去る日。


「許されるか」


 拳をデスクに沈める。木目が揺れる。


 窓の向こうが白む。鳥が一声。


 息を吐く。白い霧が消える。


「それでも行く」


 時計の針が跳ぶ。四時三十三分。


 ベッドに戻る。シーツの皺を伸ばす。


 目を見開く。暗闇が色を変える。


「問いは後に」


 次の行動だけを数える。呼吸。一。二。三。 天井のひびがまた増えていた。三十六。三十七。\

 足を床に下ろす。冷気が足首を這う。


 洗面所へ向かう。蛇口を捻る。水が噴き出る。


 手の平に水を受ける。顔に押し当てる。皮膚が引き締まる。\

 首筋まで流す。背筋が震える。


 鏡に目をやる。瞳の奥が濁っている。\

 瞼をこする。また濁る。


 壁にもたれかかる。肩を回す。関節が軋む音。\

 腕を伸ばす。背骨が一つ、また一つと鳴る。


 ズボンを穿く。ベルトの穴が一つ緩い。\

 拳銃用ホルスターを脇に固定する。革がきしむ。


 シャツのボタンを留める。指先が震える。三度目で嵌まる。\

 腕時計を巻く。秒針が動き始める。


 テーブルの作戦図を巻く。ゴムバンドで括る。\

 背嚢のファスナーを閉じる。歯が噛み合う音。


 ドアの前に立つ。鍵を握る。金属が温かい。


「行くだけだ」


 背嚢を担ぐ。肩に食い込む重み。\

 最後に部屋を見回す。何も残さない。


 ドアを開ける。廊下の灯りが薄明るい。\

 足を踏み出す。靴底がコンクリートを擦る。


 階段を下りる。一段ごとに呼吸を合わせる。\

 踊り場の窓。外は鉛色の朝だ。


 一階の扉に手をかける。錠が開く音が響く。\

 冷たい空気が顔を打つ。 食堂は埃っぽい。朝の光がレースのカーテンを通る。\

 味噌汁の湯気が揺れる。椀の縁が指に熱い。\

 箸を持つ。右手の震えが止まらない。


 口に飯を運ぶ。米粒が舌の上で転がる。\

 味がない。


「父さん、そんなことして本当にいいの?」\

 声が耳の奥で鳴る。美咲の息遣いまで思い出す。\

 箸が止まる。鰹節が湯気に溶ける。


 窓の外を少年が走る。ランドセルが跳ねる。\

 胸がざらつく。息を深く吸う。肺の底が痛い。


 味噌汁を啜る。喉が熱で狭まる。\

 目を閉じる。娘の顔が瞼の裏に浮かぶ。顰める眉。


 手に力を込める。箸がしなる。\

 椀を置く。陶器が木の机に軋む音。


 朝日が卓を照らす。自分の影が細長く伸びる。\

 その影が揺らめく。決意もまた、そうして揺らいでいた。 安宿の部屋の机は埃を被っていた。ノートPCを開く。キーの一つがへこんでいる。


 産経の電子版を読み込む。見出しが踊る。「台湾海峡、中国軍演習規模拡大」「邦人安全、政府は『現状把握中』」


 目尻が痺れる。肩の力が抜けない。


「……『現状把握中』か」


 日経の分析記事をスクロールする。経済的損失の試算。企業撤退の動き。肝心な情報はない。


 台湾の現地紙サイトに接続する。中国語の記事が並ぶ。軍用機の侵犯回数。港の管制情報。


 指が止まる。基隆港の貨物遅延についての小さな記事。


「林氏海運……『機械故障』」


 ネットニュースの掲示板を開く。匿名の書き込みが流れる。「台北市内で自衛隊員らしき人物目撃」「日本政府チャーター便、出発延期」


 額に汗がにじむ。液晶に映る自分の顔が歪む。


 胃が締めつけられる。掌を机に押し当てる。木目が皮膚に食い込む。


「目撃情報……陳か」


 衛星画像サイトに切り替える。台湾北部の海域。白い航跡が無数に広がる。軍艦の配備図と重なる。


 呼吸が浅くなる。胸郭が上下する。


 電話帳を開く。佐藤、林、伊達……各々の名前に印を付ける。林志鴻の名で指が止まる。


 三度、机を叩く。音が部屋に響く。


 机を離れる。靴音が廊下に反響する。


 階段を下りる。足元に埃が舞う。手すりの錆が手に付く。


「監視か」


 アパートの玄関を開ける。朝の空気が頬を撫でる。


 路地を左折する。ビルの谷間から太陽がのぞく。


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