第50話 千二百の名前
「生存確認済みは八百七十二。意志確認は六百三十一」
佐藤の声が乾いている。数字の隙間から、死が覗く。
「応答なしの三百二十八は?」
「再送信を試みる。三回目で打ち切る」
指が机を叩く。リズムが焦りを刻む。
「優先順位一位は家族帯同者。次に単身の要保護者」
「リストAに百四十二名。リストBに二百九十七名」
エクセルの行が赤く染まる。通信途絶、所在不明、拒否。
「集結可能地点別に分類しろ。台北駅周辺、地下街、廃工場」
スクロールする画面が目を揺らす。名前の海が、計画を呑み込む。
「移動手段を喪失した者は?」
「百八十九名。うち七十二名は自力移動不能」
歯を食いしばる。顎の筋肉が悲鳴を上げる。
「彼らには、最寄りの協力者を割り当てろ。二人一組で」
「了解。リストCを作成する」
窓の外で光が走る。無音の閃光が、部屋を青白く染めた。
「検証結果は?」
「伊達経由の三名、全て背景に不審点あり。採用不可」
リストから三つの名前を消す。黒い線が、信頼を葬る。
「採用可能な協力者は、我々だけか」
沈黙が肯定する。呼吸の音だけが、部屋に満ちる。
「集結指令の発信準備を。非電波網、一度だけ」
「了解。発信は06:00、離陸時刻と同時」
俺は立ち上がる。腰が重い。千二百の命が、背骨に響く。
「最終確認だ。離陸後の収容場所は?」
「与那国島の一次収容施設。次いで那覇」
地図の上に、細い赤い線が引かれる。海を越える針路。
「通関と身元確認の目処は?」
「なし。それは本土の仕事だ」
拳を握る。無力さが歯がゆい。
「分かった。我々はここまでだ。あとは運を天に任せる」
佐藤がうなずく。彼の目に、わずかな光が残っている。
「発信準備、完了。06:00を待つだけです」
俺は窓に向かう。夜の底で、台北が息を殺している。
リストは完成した。千二百の命が、俺の手のひらに載っている。 胸の痛みが定時を告げる。深夜零時、計画は再び塗り替えられる。
優先順位表が無意味な紙屑に見える。横に並べるのは小型船リスク分析の新ファイルだ。
「まず、林が紹介した船主三名の生存確認から始めろ」
佐藤の指がキーボードを叩く。乾いた音だけが響く。
「全員、今日中に連絡途絶。最後の位置信号は、いずれも中国海警の活動海域」
息を止める。冷たい空気が肺に刺さる。
「次に、伊達の三名だ。前歴、資金流れ、現在の行動パターンをクロスチェックしろ」
画面に三つの顔が並ぶ。目つきがどれも泳いでいる。
「張は一週間前、妻の実家へ『帰省』と称して高雄へ移動。妻は台湾人だが、実家の住所は存在しない」
「リーの退役同期二名が、先月までに相次いで事故死。一つは交通事故、一つは転落」
「ウォンの船はGPS上静止。だが、付近の衛星画像に、中国海警の巡視船二隻が確認できる」
拳を握る。机の木目が掌に食い込む。
「結論は?」
「三名とも、工作員の可能性が極めて高い。ウォンの船は囮だ」
胃が縮む。空腹感が緊張に変わる。
「小型船脱出案のリスク分析をまとめろ。最大の脅威は何だ」
「第一、中国海警の沿岸監視網。第二、レーダー回避不能の濃霧予報。第三、船主の信頼性ゼロ」
「生存確率は?」
「算出不能。前提条件が全て虚偽だからだ」
立ち上がる。窓の外の闇が深い。
「ならば、この案は破棄する。正式記録から消去しろ」
「了解」
ファイルを閉じる音が、小さな弔いの鐘になる。
「次に、新規協力者確認手順の標準化だ。今後、全ての紹介者に適用する」
新しいリストを描き始める。項目が針のように並ぶ。
「一、生存確認は二重の非電波ルートで。二、前歴チェックは第三国データベースを使用。三、資金源は三世代まで遡る」
「四、行動パターンの不審点は即時除外。五、家族・親族の現在地を確認。六、最終判断は俺が下す」
書き終える。紙の上に、不信の手順が完成した。
「これが新しいルールだ。信用は、この手順を通過した後にだけ発生する」
佐藤が頷く。彼の瞳にも、同じ決意が映る。
「適用を開始する。残る協力者は七名。全員にこの審査を」
「了解。審査完了まで、彼らには待機を指示する」
時計の針が零時三十分を指す。計画立案の時間は消えた。
代わりに得たのは、信用の濾過器と、一つの決断だけだ。
海上の夢は捨てる。次は陸と空の現実だけを見据える。 林の報告書を握る指が白くなる。紙の皺が嘘の証だ。
「検証が必要だ。小型船脱出案のリスクを洗い直せ」
佐藤の端末が光る。地図上に水路データが流れる。
「気象データと中国軍のレーダー配置を重ねろ」
「濃霧は確実。だがレーダー網は沿岸五キロに集中している」
指が地図をなぞる。基隆港の沖合に×印を打つ。
「突破点はここか。漁船群の航路を利用する」
「船団の出港情報は?」
「当局により全便停止。林の報告と矛盾する」
歯を噛む。頬の筋肉が跳ねる。
「裏切りは確定だ。ならば次の問題だ」
避難者リストを広げる。優先順位の印が色褪せている。
「家族連れ、傷病者を最優先から外せ」
「理由は?」
「小型船の収容数は限られる。生存確率で選別する」
吐息が深い。胸が重い。
「次に単身者。移動能力の高い者だけをリストアップしろ」
「了解」
画面の名簿が更新される。赤い印が次々と青に変わる。
「空路組、陸路組、海上組。三つのグループに振り分ける」
「海上組の人数は?」
「三十名が限界。船は二隻しか確保できない」
拳を握る。机が軋む。
「三十名か。千二百人中の三十名だ」
窓の外で夜明けの光が薄れる。雲が厚い。
「陸路と空路の収容数を増やせ。海上は補助ルートに格下げだ」
佐藤がうなずく。彼の指がキーボードを駆ける。
「避難優先順位を再設定する。第一:空路、第二:陸路、第三:海上」
「了承。グループ分けの連絡を開始する」
俺は立ち上がる。体の節々が痛む。
「最後に確認しろ。林に漏れた情報の範囲を」
「全ルートの初期案。協力者三名のプロファイル。集結地点の候補」
「全てを無効としろ。新たな指令網だけを信用する」
「非電波網で再構築する」
うなずく。頷きが重い。
「計画は変わった。生き残るのは、疑う者だけだ」
時計の針が06:00を刻む。闇が、最後の準備を終える。机の上の時計が23:47を指す。全てのルートが死んだ。
最終連絡網のリストを広げる。名前は三つだけだ。佐藤、伊達、そして美咲。




