第49話 空路という一条の光
体を起こす。ストレッチへ移る。股関節を開く。
左足を前に出す。ももの裏が張る。痛みが意識を研ぎ澄ます。
「二十秒」
歯を食いしばる。秒数を数える。壁の時計の針が鈍い。
足を替える。右のももが硬直している。筋肉の繊維が軋む音がする。
「四十秒」
立ち上がる。背筋を伸ばす。天井を見上げる。
深く息を吸う。肺が冷気を拒む。吐く。白い息が闇に消える。
拳を握り、緩める。血流が指先に戻る。感覚が蘇る。
窓の外で遠雷が鳴る。光が一瞬、部屋を掠める。
体が軽くなった。思考が研ぎ澄まされた。闇が、まだ動いている。差出人不明のメッセージが頭を離れない。「記憶は嘘かもしれない」。林の顔がちらつく。
地図を広げ直す。ルート候補に新たな赤丸を打つ。インクが滲む。
「三ルート検証。優先順位は生存率、次に収容数」
指が北ルートをなぞる。基隆港の×印が視界を遮る。
「林経由の情報は全て、独立検証を経るまで保留だ」
胃が重い。空腹と緊張が混ざり合う。
南ルートの漁港に印を付ける。小さな港の記号が頼りない。
「佐藤、現地の目を確保しろ。生の映像を」
「既に手配済み。三十分後に第一報告が入る」
机の上のスマホが震える。通知は美咲のラインだ。
「明日の授業、キャンセルになった。学校が休校らしい」
息を止める。指先が冷たくなる。
「理由は?」
「わからない。警備上の問題ってアナウンスがあった」
陳の手が、教育機関にまで届いている。
「分かった。外出はするな。在寮を徹底しろ」
返信を送る。既読がすぐにつく。
西ルートの山岳地帯に目を移す。細い線路が消えている。
「陸路の鉄道は?」
「本日夕方から、全便運休。公式発表は『設備点検』」
拳を握る。机の角が掌に食い込む。
「包囲網が狭まる。脱出可能時間は七十二時間を切った」
伊達からの暗号文が画面に表示される。「空路確保。離陸地点C、06:00」
この情報だけが、唯一の確かな光だ。
「優先順位一位は空路。明日06:00までの準備を完了させろ」
「了解。人員誘導を開始する」
俺は地図の端に「06:00」と記す。文字が闇への針路になる。
非公式ルートの確認は、疑念を糧に進む。信頼はもう、どこにもない。 林の報告書は机の上で無言だ。『水路確保の目途あり』の文字が、嘲笑に見える。
「佐藤。漁業組合の連絡先を洗い直せ。林とは別ルートで」
「了解。三つの別口を用意する」
指が海運業者リストを叩く。名前の横に印をつける。生存確認済み、意志確認済み。
「米軍関係者の非公式チャンネルは?」
「応答なし。二時間前から沈黙している」
胸の奥が冷える。連鎖する遮断。
「ならば次の手だ。伊達が紹介した三人のプロファイルを開け」
画面に顔写真が現れる。経歴、人脈図、過去の取引記録。
「一人目、張。基隆の倉庫業者。林の元取引先だ」
「チェックポイントは?」
「三年前、債務整理。その後、資金源が不明」
眉がひきつる。不自然な空白。
「除外候補だ。次」
「二人目、リー。元沿岸警備隊員。退役は去年」
「退役理由?」
「公式記録は『健康問題』。しかし病歴なし」
拳を軽く握る。入れられた楔の匂い。
「監視リストに上げろ。三人目は?」
「三人目、ウォン。小型船の船主。過去に密輸の前科あり」
「それがなぜ協力者なんだ」
「伊達の評価は『ルートに精通し、金に動く』」
息を深く吸う。肺が痛い。
「信頼性より実用性か。彼の船の現在位置を」
「GPS信号は淡水河口。静止している」
「動かない船は標的だ。次の情報を」
佐藤の端末が光る。新たな報告が流れ込む。
「漁業組合より返信。『明日の出港は全面禁止』」
「理由は?」
「『当局の指示』とのみ」
机の角を握る。木の感触が現実を突きつける。
「海運業者からの第二報。『契約済み船舶が拿捕された』」
「拿捕?」
「中国海警による。二時間前、海峡中央で」
地図上の海上ルートが、赤いバツで塗りつぶされていく。
「ならば最後の一手だ。米軍関係者の沈黙理由を推測しろ」
「二つの可能性。通信障害か、意図的な切断か」
「どちらにせよ、海上は死路だ」
伊達紹介の三人のプロファイルを閉じる。画面が暗転する。
「林の報告は虚偽。伊達の協力者はリスクが高すぎる」
「結論は?」
「非公式海上ルートは断念する。優先は空路と、陸路の隠れ道のみだ」
佐藤がうなずく。彼の目の下に疲れの影が濃い。
「新規協力者の背景チェック、完了。全ての裏付けは消えた」
俺は立ち上がる。窓に向かう。台北の夜が深い。
「明日06:00の離陸を絶対の目標とする。それまでに全人員を集結地点へ導け」
「海上の目は閉じた。陸の目だけが残っている」
「それでいい。信用できるのは、地を這う網だけだ」
遠くでサイレンが泣く。夜明けまで、あと四時間。
計画は修正された。信じられるものは、また一つ減った。暗号化リストの民間パイロット八名。そのうち五名の連絡が途絶えていた。
残る三名の経歴を眼底に焼き付ける。過去の事故歴、政治的背景、借金の有無。\
「佐藤。この男を重点調査しろ」\
指が一人の写真を刺す。元航空自衛隊。退役後の職歴に空白がある。\
「了解。十五分を要する」\
待つ間、窓の外を見る。雲間から月が顔を出す。離陸に適した天候か。\
端末が震える。新たな報告だ。\
「重点対象者、一週間前から行動圏が台北に集中。不自然な移動パターン」\
「監視下にあるか」\
「可能性が高い。接触は避けるべきだ」\
リストからその名を消す。候補は二名になる。\
「次の男。小型機所有。燃料は十分か」\
「本日夕方、秘密裏に給油済み。離陸地点Cの近くにある」\
「では彼だ。緊急連絡網で接触を試みろ」\
「了解」\
拳を握る。手のひらに汗がにじむ。最後の駒が盤面に置かれる。\
「連絡が取れた。離陸06:00を承諾。但し、追加料金を要求している」\
「いくらだ」\
「通常の三倍。現金で前渡しを」\
歯を食いしばる。金は尽きている。\
「承諾せよ。ただし、搭乗後に半額、無事着陸後に残りと伝えろ」\
「了解。交渉に入る」\
遠くでヘリの羽音がする。低く、重い響き。\
「伊達からの報告。離陸地点C周辺に不審車両。二台、巡回中」\
「監視か」\
「断定はできない。だが離陸を阻む要素だ」\
地図を引き寄せる。代替離陸地点Dを探す。廃農場から西に五キロ。\
「離陸地点をDに変更。パイロットに伝えろ」\
「了解。移動と再準備に一時間を要する」\
「受け入れよ。我々の手で監視網を撹乱する」\
俺は立ち上がる。最終装備の確認へ向かう。\
空路はまだ、闇の中の一条の光だ。暗号化された避難者リストが画面を埋める。千二百の名前が、重さとなって肩に乗る。




