第48話 ドロップポイントの夜
「了解」
拳銃を腰に収める。冷たさが現実を刻む。
「我々は移動する。ドロップポイントの設置を見届ける」
窓の外で夜が深まる。台北の光が闇に吸われていく。
「行くぞ」
暗がりへ足を踏み出す。非電波による指令網が、今、動き始めた。
暗がりに潜む伊達の報告が耳を刺す。
「林の動きが鈍い。基隆港の手配が、すべて遅延している」
地図を広げる手が止まる。赤い印が無力に見える。
「裏切りか、圧力か」
「見極めがつかない」
佐藤の端末が震える。新たな警告画面が青白く光る。
「非電波網にノイズ。第三地点の監視カメラが、二十分前から固定だ」
息を詰める。喉が渇く。
「陳の手が届いている」
拳を握りしめる。机の木目が爪に食い込む。
「ルートを切り替える。第四候補の廃工場を使う」
「検問は?」
「迂回するしかない。時間が命を削る」
窓ガラスが微かに震えた。遠くで何かが爆ぜる音。
「彼らは待たない。我々も待てない」
地図を丸める。紙の皺が決断の痕になる。
「佐藤、最終連絡を。伊達、現場を確かめろ」
二人がうなずく。沈黙が作戦を批准する。
俺は立ち上がる。暗闇が次の一手を飲み込む。 暗がりで現金の束が軽い。予定の三分の一しかない。
「伊達からの緊急資金か」
佐藤が頷く。彼の顔が青白い。
「ルートが三つ遮断された。残りは南の漁港だけだ」
指が地図の端をなぞる。インクの滲みが危険水域を示す。
「非正規ルートの評価は?」
「林の紹介した業者は全員、連絡がつかない」
歯を食いしばる。顎の筋肉が跳ねる。
「罠だ。最初から全て罠だった」
窓の外でサイレンが遠吠えする。距離を測る。
「俺が直接、漁港に行く。金を受け取りに行く」
「検問をどう抜ける?」
現金の束を隠し場所に押し込む。布の擦れる音だけが響く。
「抜けない。交渉する。時間を買う」
佐藤の息が止まる。彼は理解した。
「最終手段か」
うなずく。頷く動作が重い。
「お前はここを守れ。連絡が二時間途絶えたら、計画Bを実行しろ」
「了解」
ドアノブに手をかける。金属の冷たさが覚悟を促す。
非正規ルートは崩れた。残るは危険な一手だけだ。林の名が記された協力者リストを黒く塗りつぶす。インクが紙を喰う。
「除外後の再精査だ。一人ずつ、生存確認と意思確認を行う」
佐藤の端末が淡く光る。名簿がスクロールしていく。
「三人が応答なし。現在地も不明」
指が机を叩く。リズムが焦りを隠す。
「残りは?」
「五人が待機を承諾。だが、移動手段を失っている」
地図に新たな印を打つ。赤から青へ、色が変わる。
「連絡網の再構築は?」
「非電波の中継点を二か所、確保した。だが脆弱だ」
窓の外で雷光が走る。一瞬、部屋が白く染まる。
「陳は網の目を絞っている。時間との競争だ」
「次の手は?」
塗りつぶしたリストを細かく裂く。紙の繊維がちぎれる音。
「お前が直接、五人の元へ向かえ。生存確認と、新たな集結地点の伝達だ」
「危険が高すぎる」
「選択肢は残っていない。信用できる者だけが、網の結節点になる」
佐藤が鞄を握る。彼の手の甲に血管が浮く。
「了解。一時間ごとに、定刻報告を」
うなずく。頷きが深い。
「伊達には、中継点の防衛を徹底させろ。一点でも潰されたら、終わりだ」
遠くで爆発音が重なる。窓ガラスが軋む。
リストは灰になった。新しい網が、闇の中で張られる。 美咲の写真が地図の上にある。笑顔が計画の重さを嗤う。
「早期退避の選択肢は三つ。すべてリスクが変わった」
指が第一案のルートをたどる。海上ルートは赤い×印で覆われる。
「林の関与したルートは全て使えない。除外だ」
第二案の陸路を検討する。山岳地帯の細い線がかすんでいる。
「検問と監視カメラの数が倍増した。突破確率は三割以下」
息を深く吸う。肺が冷たい空気を拒む。
「第三案は?」
「非正規の空路。小型機を使う」
佐藤の声が通信機から漏れる。雑音が混じる。
「パイロットは伊達の紹介。離陸地点は内陸の廃農場」
「中国軍のレーダー網は?」
「低空飛行でかいくぐれる。だが、天候次第だ」
窓の外を睨む。雲が厚く、月が隠れている。
「実行可能性分析を」
「燃料は十分。離陸路は五百メートル。着陸地点は与那国島」
計算が頭を駆け巡る。数字が歯車のように噛み合う。
「美咲の承諾は得られるか?」
沈黙が返答になる。写真の笑顔が答えを知っている。
「強制する。それが親の役目だ」
拳を軽く握る。机の木目が無言で同意する。
「優先順位は空路、次に陸路。海上は最終手段」
「了解。離陸地点の手配を始める」
通信が切れる。残る雑音だけが部屋に満ちる。
俺は写真を手に取る。紙の裏に「行かないで」と走り書きがある。 暗号化メッセージ三件が未読だ。青白い通知が、心拍を速める。
「一つ目、『林の動向、監視下。接触厳禁』」
指先が冷たい。画面をスクロールさせる。
「二つ目、『漁港、危険水域。第三者が介入』」
胃が締めつけられる。最後の一件を開く。
「三つ目、『空路、風速15m。離陸可能時間、06:00まで』」
息を吐く。白い霧が、夜の冷たさを証明する。
「佐藤、この情報を非電波網で共有しろ。クローズドなルートで」
「了解」
スマホを握りしめる。重さが日常を装う。
ボタンを押す。呼び出し音が、闇に吸われていく。
「お父さん?」
美咲の声が、耳の奥でひび割れる。
「ああ。今日はどうだった?」
「普通。……外、変な音がした」
背筋が伸びる。窓の外を視る。何もない。
「花蓮の友達、元気?」
「うん。でも、こっち来るって言ってた飛行機、キャンセルになったみたい」
歯を食いしばる。情報が一致する。
「そっか。気をつけて。何かあったら、いつものカフェに行け」
「……わかった。お父さんも」
「ああ。またな」
切れた通信音が、孤独を増幅させる。
スマホを置く。手のひらに汗がにじむ。
新たな網が、娘の安全を紡ぎ始めた。 寒気が骨髄を這う。指先が震え、机から離れる。
床に伏せる。腕立て伏せの姿勢を取る。筋肉が警戒を叫ぶ。
「一つ」
肘を曲げる。体重が前腕に乗る。床の冷たさが皮膚を刺す。
「二つ」
息を吐く。上げる。肩甲骨が締まる。古い傷が疼く。
「十」
呼吸が乱れる。心拍が耳を打つ。汗が首筋を伝う。




