第47話 佐藤の裏切り
「セキュリティが破られた。佐藤の仕業だ」
衛星電話の亀裂が指に食い込む。液晶が痙攣している。
電波を探る。雑音しかない。
「妨害だ。全ての通信が死んでいる」
伊達が机を叩く。音だけが響く。
ブリーフケースを開ける。菊花紋章が鈍い。
名簿のコピーを握る。オリジナルは置き去りだ。
「証拠はここに残す。誤った情報を食わせる」
ペンで集合場所を書き換える。松山空港から基隆港へ。
「これで時間を稼ぐ」
胸が苦しい。呼吸が浅い。
窓の外でヘッドライトが動く。ゆっくり、確実に近づく。
「監視が来た。撒け」
拳銃を腰に収める。冷たさが骨に染みる。
「娘への連絡は諦める。まずは生き延びろ」
左腕を押さえる。腫れが熱を持つ。
非常用隠れ部屋へ向かう。暗い廊下が続く。
エレベーターは使えない。非常階段を下りる。
足音がコンクリートに反響する。
「ここだ」
清掃用具室の奥の壁を押す。パネルが滑る。
狭い空間が現れる。埃とカビの匂い。
「連絡網の再構築を始める。ゼロからだ」
ノートPCの電源を切る。バッテリーを外す。
「新しい端末が必要だ。ここにはない」
衛星電話を分解する。基盤を確認する。
「物理的な破損か。直せない」
拳銃をテーブルに置く。これだけが頼りだ。
「伊達、外の状況を見ろ」
彼がわずかに開いたドアの隙間から覗く。
「清掃員が通る。いつものルーチンだ」
「ならば、監視はまだこの階まで及んでいない」
息を吐く。喉がカラカラに渇く。
「林への連絡を試みる。代替手段で」
手帳を取り出す。昔の連絡網を思い出す。
「公衆電話だ。古い方式で暗号を送る」
伊達が頷く。彼の目が僅かに輝く。
「危険だが、やるしかない」
「ああ。これが最後の賭けだ」
手帳の頁を破る。番号を書き写す。
拳銃の重さを確かめる。そして暗闇へ踏み出す。 伊達の端末が安全だ。これだけは監視を逃れている。
暗号化チャンネルを開く。接続音一つで決める。
「美咲、聞け。状況が悪化した」
彼女の呼吸がマイクに乗る。浅く速い。
「直接連絡は危険だ。現地連絡員がそちらへ向かう」
『誰が?』
「林だ。彼だけを信じろ」
左手首が疼く。腫れが熱を持つ。
「貴重品はパスポート、現金、薬だけ。それ以外は捨てろ」
『父さんは?』
「お前を連れ出す。それだけだ」
胸が締めつけられる。息が浅い。
「連絡員の合言葉は『冬の鷹』だ。それ以外には付くな」
『わかった』
「生きろ。必ず迎えに行く」
通話を切る。液晶が暗転する。
拳銃の重さが腰に染みる。これが最後の約束だ。エプロンのポケットが空だ。現地協力者OBの連絡先メモがない。
伊達の端末だけが点滅する。彼が画面を覗き込む。
「林からだ。『孤狼』チャンネルが使える」
指が冷たい。呼吸が白く濁る。
「返信する。『証拠隠滅完了。護衛要員は直接連絡不能』」
キーボードを叩く音だけが響く。
「敵の監視範囲を分析する。交通網と通信網の両面から」
地図を広げる。赤い印が増えすぎている。
「検問は主要幹線のみ。裏道の監視は疎だ」
衛星電話の基盤を確認する。焦げた匂いがする。
「物理的な破壊だ。修理不能」
ノートPCの起動を試みる。青い画面が一瞬で暗転する。
「ウイルス感染。ファイルは全て諦める」
拳銃の弾倉を外す。実弾が九発。
「これが全ての通信手段だ」
伊達が窓の外を指さす。車列が動き始めた。
「彼らは包囲網を狭めている」
「ならば動くな。分析を続ける」
名簿のコピーを広げる。千二百の名前を走査する。
「敵は邦人全員を捕捉できない。優先順位を付けている」
左手首が軋む。腫れが脈打つ。
「第一目標は私だ。次が政府関係者。一般邦人は後回し」
「ならば囮になれ」
「そうする。お前は美咲を連れて離脱しろ」
伊達の目が鋭くなる。
「命令違反だ。指揮官が最前線で囮とは」
「これが最終判断だ。分析は終わった」
拳銃を握りしめる。金属が皮膚に食い込む。
「林に伝えろ。『作戦フェーズ3』を実行せよ」
「…了解」
暗号化チャンネルが最後の光を放つ。
すべての計画を書き換える。敵の意図を逆手に取る。
「行くぞ」
非常階段へ向かう足取りが重い。これが最後の情報収集だ。伊達の端末だけが信頼できる。画面の青白い光が指紋を浮かび上がらせる。
「林か。状況報告だ。佐藤の裏切りが確定した」
『通信網は?』
「汚染されている。政府回線は全て使えない」
左手首の腫れが熱い。皮膚が突っ張る。
「新たな緊急連絡網を確立する。周波数『冬の鷹』だけを使え」
キーを打ち込む。暗号化プロトコルが起動する。
「連絡員はお前だけだ。他の一切を遮断しろ」
『了解。集合地点は?』
「変更する。松山空港から基隆港へ」
胸が締まる。息を深く吸う。
「四十八時間が二十四時間になった。今すぐ動け」
『人員が足りない』
「足りる分だけで動く。待っていられない」
窓の外でエンジン音が唸る。ヘッドライトの光が壁を掠めた。
「…監視が来た。これを最後の通信とする」
『次はいつ?』
「生きて会った時だ」
接続を切る。画面が真っ暗になる。
拳銃の冷たさだけが現実だ。これが確立した唯一の線。伊達の端末だけが信頼できる。画面に表示されるのは松山空港の警備配置図だ。それが全てのはずだった。
「林、空港の情報は後だ。まずは即時撤退だ」
『何が?』
「佐藤が裏切った。ここは筒抜けだ」
胸骨の裏で心臓が暴れる。左手首の腫れが脈を打つ。
「新たな緊急避難計画を再構築する。連絡網は最初から作り直す」
キーボードを叩く指が震える。新しい暗号化キーを生成する。
「周波数『零』のみを使用せよ。旧来の全てを捨てろ」
『人員配置は?』
「信頼できる者のみ。名簿は私の頭の中にある」
窓の外で車のドアが閉まる音。複数の足音。
「…撒け。今だ」
端末の電源を切る。回路が焼ける匂いがした。
拳銃の安全装置を外す。カチッ。
これが最後の連絡。次は闇の中を泳ぐだけだ。林の端末が鳴る。着信表示は彼のものだ。だが応答音が一呼吸遅い。
「林か?」
『…ええ』
声の端に硬さがある。微かな金属音が混じる。
「証拠隠滅は終わったか」
『そちらは?』
問いが逆だ。彼はまず自分から報告するはずだった。
「終わっている。お前の連絡待ちだ」
左手首が疼く。腫れが熱を帯びている。
相手の息遣いが聴こえる。浅く、速い。林の呼吸ではない。
「代替手段の調整を急げ」
『…了解』
言葉が平板だ。合図の符丁が入っていない。
「周波数『冬の鷹』は使えているか」
『ああ』
彼は「使用可能だ」と答えるはずだった。間違いだ。
「では、次の指示を伝える。聞け」
『待て。電波が悪い』
焦りが滲む。引き止めようとしている。
「いいや、聞け。集合地点を変更する」
こちらの言葉を遮るように、向こうで誰かが咳払いした。低い男の声だ。
血液が凍る。額を冷たい汗が走る。
「松山空港から、基隆港の第三埠頭へ。繰り返せ」
『…基隆港、第三埠頭』
声が機械的だ。暗記している。
「四十八時間後だ。全員を集めろ」
『了解』
通話が切れる。一方的に。
指が震える。衛星電話の亀裂が視界を歪ませる。
林はもういない。端末を押さえられている。
「伊達」
「聞いた。彼は捕まった」
部屋の空気が重くなる。神経が皮膚の下で軋む。
信頼できる最後の線が、また一つ消えた。
「連絡網は我々だけになった」
「ああ」
拳銃を握りしめる。金属の冷たさが唯一の現実だ。
すべてをゼロから作り直す。今、ここから。林が捕まった。端末を押さえられている。
指が震える。衛星電話の亀裂が視界を歪ませる。
信頼できる線はもう、ない。
「伊達」
「聞いた」
拳銃を握り締める。金属の重さが唯一の拠り所だ。
すべてを捨てる。ここから始める。
「作戦開始指令を発する」
「今か?」
「今だ。連絡網は我々だけ。端末の確認をしろ」
鞄を引っ繰り返す。中身を床にぶちまける。
ノートPC、医療キット、現金の束。最後に、黒い通信端末が転がり出た。
「暗号化衛星端末だ。最後の一手」
電源を入れる。起動音一つない。緑色のランプが点滅した。
認証コードを打ち込む。指先が汗で滑る。
「繋がった」
周波数表示が固定される。軍用の孤島回線だ。
この電波だけは、誰にも監視されていない。
「指令を入力する。『フェイズ・ゼロ。実行せよ』」
送信ボタンを押す。指が震える。
ランプが赤く光り、送信完了を示した。
「これで動き出した」
伊達が息を呑む。彼の目に映る液晶の光が揺れる。
決断が、重い現実となって戻ってくる。
「次は我々の出番だ。端末を叩き壊せ」
「ここか?」
「ここだ。痕跡は一切残すな」
拳銃のグリップで端末を叩き割る。基盤が粉々に散る。
これで、最後の通信手段も消えた。
「行くぞ」
左腕の疼きを無視して立ち上がる。
始めた以上、止まらない。暗闇へ、足を踏み入れる。暗号化端末のランプが赤く光った。指令は届いた。
左手首の腫れが脈打つ。熱い。伊達の目が暗い廊下を見据える。
「移動確認を待つ。三十分だけ」
路地の向こうで車のエンジンが唸る。近づいてはこない。巡回だ。
衛星電話の亀裂が指に食い込む。液晶に文字が浮かぶ。
『確認。Aへ移動中』
胸の奥で鼓動が一瞬高鳴る。届いた。
「返信する。『針穴を抜け。待機せよ』」
指が震える。キーを打つ。
端末のランプが一閃して消えた。通信切断だ。
拳銃の重さが腰骨に染みる。これで動き出した。
伊達が頷く。彼の呼吸が白く浅い。
「次は我々だ。隠れ家を出る」
ドアノブに手をかける。金属が冷たい。
暗い路地へ足を踏み出す。第一チームはもう、動いている。闇の中で拳銃が冷たい。伊達の息遣いだけが聴こえる。
「次はお前だ。第二チームへ指令を」
彼がうなずく。目が僅かに光る。
暗号化端末の残骸からSIMカードを引き抜く。焦げた匂いがする。
「偽装輸送手段の確認は?」
「済んでいる。外の路地だ」
窓の隙間から覗く。白い冷凍トラックが停まっている。
「あれか」
「中身は空だ。移動の衣装も揃えた」
左手首が疼く。腫れが熱い。
「指令を送れ。『Bルートで松山へ。車両は白の冷凍』」
彼の指が端末を操作する。青い光が顔を照らす。
送信音が一つ。小さく乾いた。
「届いた」
「よし。次は我々の出番だ」
ドアを開ける。夜の冷気が流れ込む。
白いトラックの荷台が暗い。中は空洞だ。
これが偽装だ。これが最後の輸送手段だ。暗号化端末の破片が床に散る。指が焦げ臭い。
「第三チームへの指令は後だ。今は動く」
伊達が鞄を掴む。彼の関節が白い。
路地の白い冷凍トラックが囁きかける。エンジンがかかっていない。
「あれは罠だ」
胸骨の裏で心臓が跳ねる。左手首が軋む。
「掃除道具の痕跡と同じだ。用意されすぎている」
窓の外を走る車のヘッドライト。一瞬、路地の奥を照らす。
人影が立っている。複数だ。
「包囲された」
拳銃を抜く。安全装置は外れたまま。
「隠れ家へ戻る。非常階段を使う」
ドアを蹴る。コンクリートの階段が暗い。
上へ。足音が下から追ってくる。
「上にもいる」
踊り場で立ち止まる。息が白く乱れる。
上も下も塞がれた。 埃取りの置き方が狂っている。掃除道具の列からはみ出していた。
「監視の痕跡だ。通信は全て使えない」
衛星電話の亀裂が視界を歪ませる。指先が冷たい。
「第三チームへの指令は、電波を介さぬ方法で伝える」
鞄の中から地図を引きずり出す。台北の街路が蜘蛛の巣のように広がる。
「物理ドロップポイントを三箇所設定する。人的連絡網で繋ぐ」
赤いペンで印を付ける。公園のベンチ、図書館の指定棚、公衆トイレの貯水タンク。
「各ポイントに指令を分割し、暗号で隠す。連絡員が回収する」
伊達が頷く。彼の目が地図の印を追う。
「医療チームと物資担当は、この方法でしか動かせない」
「リスクが高い」
「高いが、確実だ。電波より遅いが、傍受されない」
左手首が疼く。腫れが熱を持って脈打つ。
「第一の指令を書く。紙とペンだけを使う」
メモ帳を広げる。インクの匂いがする。
『フェーズ・ゼロ実行。A地点で待機。時までに』
文字を書き写す。三枚。それぞれに異なる合言葉を添える。
「これを各ドロップポイントに置く。人的連絡網が回収する」
「連絡員は誰だ?」
「信用できる者だけだ。林の配下から三人選んだ」
胸が締めつけられる。呼吸が浅い。
「彼らに伝える。指令がなければ、次の指示を待て」




