第40話 喫茶店炎上
「お前の声が震えているぞ、林」
『…気のせいだ』
「三日前の夜、佐藤はお前の店の外にいた。それも陳の部下とだ」
一瞬、通信が途切れそうになる。雑音が走る。
『どこでそんな情報を?』
「お前の口から聞いたはずだ。忘れたのか?」
林の息遣いが荒い。嘘が通信回線を歪ませる。
『思い出した。そうだった』
「基隆港の『蒼い鳥』。本当に待っているのか」
沈黙。三秒。四秒。時計の針が音を立てる。
『信じられぬなら、来るな』
通信が切断された。受話器だけが重い。
掌に冷たい汗。喉がカラカラだ。舌がこびりつく。
全てが嘘だと分かる。骨まで沁みる。
伊達に暗号を送る。『林、裏切り濃厚。喫茶店接触を断念。隠れ家を即時放棄し、緊急避難計画へ移行せよ』受話器が冷たい。林の沈黙が耳朶に刺さる。
『…分かった。では、計画は?』
「喫茶店は中止だ。隠れ家を即時放棄する。伊達の家は使えない」
『理由は?』
「清掃員のルーチンが狂っている。埃取りだけが立てかけてあった」
心臓が肋骨を打つ。舌が上顎に張りつく。
『それだけか?』
「お前の声が震えている。三日前の夜、佐藤はお前の店の外で陳の部下と話していた」
通信が歪む。雑音が走る。
『…思い出した。そうだった』
「基隆港の『蒼い鳥』は待っているのか」
沈黙が三秒。四秒。時計の針の音だけが響く。
『信じられぬなら、来るな』
切れた。受話器を置く。掌が汗で濡れる。
全てが嘘だ。骨の髄までわかる。
衛星電話で伊達に暗号送信。『林、裏切り。喫茶店断念。隠れ家即時放棄。緊急避難計画へ移行』
返信はすぐに来た。『了解。証拠回収と破棄は?』
「優先せよ。三十分で済ませろ」
『承知』
机の下に手を伸ばす。発信機を剥がす。机の裏板に隠したSDカードを引き抜く。
窓のブラインドを上げる。台北の空が灰色だ。
SDカードを靴の裏に押し込む。次に、外交官用ブリーフケースを開ける。
書類を掴む。火を点ける。炎が紙を飲み込む。
灰が舞う。熱が頬を撫でる。
サイドテーブルの裏を探る。隠しボタンを押す。
小さな引き出しが滑り出す。中には暗号リストと連絡網。
これも火の中へ。紙が蜷れる。
黒い煙が天井に這う。警報器は鳴らない。昨日、切ってある。
伊達から通信が入る。『証拠破棄完了。移動準備は?』
「こちらも終わった。次は西岸の第四埠頭だ。赤いコンテナ」
『了解。三十分後に』
鞄を背負う。肩に食い込む重み。
最後に部屋を見回す。燃える書類の臭いが充満している。
非常階段のドアへ歩く。足音が響かない。
手がドアノブに触れる。冷たい金属。
振り返らずに押す。暗い階段の闇が、全てを飲み込んだ。 受話器が重い。林の嘘が耳に残る。心臓が肋骨を打つ。
「伊達、緊急だ。林の通信が途切れた」
『了解。暗号化チャンネルへ切り替える』
衛星電話の画面が青白く光る。指先が冷たい。
『周波数ロック完了。こちら伊達。聞こえるか』
「聞こえる。林は裏切った。喫茶店は罠だ」
『証拠は?』
「声が震えていた。確認に躓いた」
窓の外。向かいのビルに人影が増えている。双眼鏡のレンズが一瞬、光った。
『佐藤の件はどうする』
「林が情報を流した。三日前の夜だ。記録を送る」
ファイルを選択する。送信ボタンを押す。プログレスバーが進む。
『受信した。…確かだ。裏切りだ』
「次の接触場所を決めろ。時間が無い」
『港の第三埠頭は使えない。西岸の第四埠頭、廃倉庫だ。三十分後』
心臓が高鳴る。肩の筋肉が石になる。
「了解。合流方法は?」
『赤いコンテナの陰。合言葉「春雷」。返答は「未だ遠し」』
「繰り返す。赤いコンテナ。合言葉「春雷」」
『一秒でも遅れるな』
通話を切る。机の下の赤い点滅を睨む。
暗号化は通じた。だが、彼らは目で追っている。
窓のブラインドを全閉にする。闇が落ちる。
鞄を背負う。ストラップが肩に食い込む。
非常階段のドアへ歩く。足音を消す。
ドアノブが冷たい。金属の感触。
振り返る。支店長室が闇に消える。
非常階段の冷気が肺を締めつける。闇へ、足を踏み入れる。喫茶店の裏口に立つ。鍵穴に二本の細かい傷。新しい。
「林か」
「…重則か」
林の手が茶葉の缶を揺らす。微かに震えている。額に汗の光。
「早すぎるぞ」
「清掃員のルーチンが狂っていた。埃取りだけが立てかけてあった」
彼の視線が私の鞄を掠める。拳銃の膨らみを確認する。
「基隆港の『蒼い鳥』は本当か」
「本当だ。だが時間が無い。陳の網が港まで伸びている」
地図を差し出す。手書きの線が赤く歪む。指の震えが紙を揺らす。
「佐藤の件は」
息が一瞬止まる。喉仏が上下する。
「彼は…三日前の夜、店の外で誰かと話していた。相手は陳の部下だ」
胸の奥で心臓が跳ねる。鼓動が耳の中で鳴る。
「証拠は」
「ある。だが今は渡せない。別の場所に隠した」
目が泳ぐ。私の視線をまっすぐ受け止めない。
「林、お前の手が震えている」
「…歳だ」
「歳じゃない。お前が嘘をつく時の癖だ」
沈黙が深まる。厨房のドアの影が微かに動いた。
林が諦めたように息を吐く。上着の内ポケットに手を伸ばす。
出てきたのは黒い発信機。赤いLEDが静かに点滅している。
「すまない、重則」
彼の背後でドアが開く。男たちの影が並ぶ。スーツの裾が揺れる。
「彼らが美咲を捉えている。脅迫だ」
一筋の涙が頬を伝う。拳銃の銃口が五つ、こちらを狙う。
掌の汗でグリップが滑る。引き金に指をかける。
「陳は約束した。お前の命と引き換えに、娘を返すと」
「馬鹿め。あいつの言葉を信じたのか」
一番前の男が口を開く。声が冷たい。
「結城重則。ここで終わりだ」
足を踏ん張る。床板が軋む。
「そうか。だが…終わりはこっちが決める」喫茶店の硝煙の匂いが、まだ舌の上に残る。林の仕掛けた発信機が机の上で赤く点滅している。
「通信は生きている。こちらの位置を送り続けている」
林の目が虚ろだ。涙の跡が頬に光る。
「すまない…美咲が…」
掌で発信機を握り潰す。プラスチックが軋む。LEDが消える。
「通信は?」
「途絶えた。だが、最後の位置は送信済みだ」
林の肩が落ちる。拳銃を構えた男たちの影が倒れている。
衛星電話を取り出す。伊達への緊急回線を呼び出す。
『状況は?』
「喫茶店は炎上した。林は裏切った。娘が人質だ」




