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第39話 蒼い鳥と人質の娘

 ドアを押す。中は薄暗い。カウンターの奥で林が茶葉の缶を揺らす手が、微かに震えている。


「早すぎるぞ、重則」


 彼の声が低く、喉の奥で詰まる。額に脂汗が光る。


「清掃員のルーチンが狂っていた。埃取りだけが立てかけてあった」

「…あの連中か」


 林の視線が私の鞄へ滑る。拳銃の膨らみを確認するように。


「基隆港の話は本当か。『蒼い鳥』は待っているのか」

「本当だ。だが時間が無い。陳の網が港まで伸びている」


 彼が地図を引っ張り出す。手書きの線が赤く歪む。指の震えが紙を揺らす。


「佐藤の件はどうなった」


 林の息が一瞬止まる。喉仏が上下する。


「彼は…三日前の夜、店の外で誰かと話していた。相手は陳の部下だ」


 胸の奥で心臓が跳ねる。鼓動が耳の中で鳴る。


「証拠は」

「ある。だが今は渡せない。別の場所に隠した」


 彼の目が私から逸れる。カウンターの時計の秒針だけが響く。


「林、お前の手が震えている」

「…歳だ」

「歳じゃない。お前が嘘をつく時の癖だ」


 沈黙が深まる。厨房のドアの影が微かに動いた。


 林が諦めたように息を吐く。上着の内ポケットに手を伸ばす。


 出てきたのはUSBメモリではない。黒い発信機だ。赤いLEDが静かに点滅している。


「すまない、重則」


 彼の背後でドアが開く。男たちの影が並ぶ。スーツの裾が揺れる。


「彼らが美咲を捉えている。脅迫だ」


 林の頬を一筋、涙が伝う。拳銃の銃口が五つ、こちらの胸を狙う。


 掌の汗でグリップが滑る。引き金に指をかける。


「陳は約束した。お前の命と引き換えに、娘を返すと」

「馬鹿め。あいつの言葉を信じたのか」


 一番前の男が口を開く。声が冷たい。


「結城重則。ここで終わりだ」


 足を踏ん張る。床板が軋む。


「そうか。だが…終わりはこっちが決める」


 硝煙の匂いが、薄暗い店内に広がる。 喫茶店の硝煙の匂いが、まだ舌の上に残る。林の仕掛けた発信機が机の上で赤く点滅している。男たちの影が倒れた。

「通信は生きている。こちらの位置を送り続けている」

 林の目が虚ろだ。涙の跡が頬に光る。

「すまない…美咲が…」


 掌で発信機を握り潰す。プラスチックが軋む。LEDが消える。

「今の通信は?」

「途絶えた。だが、最後の位置は送信済みだ」

 林の肩が落ちる。


 衛星電話を取り出す。伊達への緊急回線を呼び出す。

『状況は?』

「喫茶店は炎上した。林は裏切った。娘が人質だ」

 受話器の向こうで息が詰まる。


 腕時計を見る。十時四十七分。基隆港まで残り七十三分。

「新たな連絡網を確立する。手順を聞け」

『まず、支店の予備回線を使え。周波数.2MHz。暗号鍵は「春雷」だ』

「了解」

『次に、港の第三埠頭。標識は青い漁網が三つ重なっている。そこで「蒼い鳥」の船員と接触する。合言葉は「桜は散ったか」』

「返答は?」

『「まだ蕾だ」』


 電話を切る。林を見る。彼は床に座り込んでいる。

「陳は美咲をどこに?」

「…分からない。港の近くの倉庫、とは言っていた」

「証拠のファイルは本当か」

「本当だ。だが、私の店の金庫にある。鍵は…」


 林がポケットから小さな鍵を取り出す。手が震えて床に落ちる。

「取れ」

 彼がうつむく。


 鍵を拾う。冷たい金属。

「お前はここに残れ」

「重則…」

「動くな。さもないと、次の弾丸はお前の頭に撃ち込む」


 背を向ける。裏口のドアを開ける。

 朝の光が血の匂いを照らす。喫茶店の硝煙がまだ鼻を刺す。林の涙が床に落ちる音を聞いた。


「美咲はどこだ」


 一番前の男が倒れている。彼の拳銃を蹴り飛ばす。


「基隆の倉庫だ。陳が直接見張っている」


 林の声が震える。彼は発信機を握りしめたまま、膝をついた。


「時間は?」

「正午まで。あと一時間だ」


 ザックを背負い直す。肩の食い込みが深い。心臓が肋骨を打ち続ける。


「裏道の地図を渡せ」


 林が震える手でカウンターの下を探る。血の付いた地図を差し出す。


「第三埠頭の北側。廃船が隠れ蓑になる」


 地図を握る。紙が汗でにじむ。


「お前はどうする」

「…ここで止める。これ以上は逃げられん」


 林の目に決意が浮かぶ。彼はゆっくりと立ち上がる。


「重則、行け。娘を連れて」


 背を向ける。裏口のドアが歪んでいる。


 足を踏み出そうとした時、林の声が背中を追った。


「佐藤の証拠は、私の机の一番下の引き出しだ。暗号は…お前の軍時代の呼び名だ」


 振り向く。林が微かに笑っている。


「今さらか」

「ずっと言えなかった。すまない」


 彼がうなだれる。その頭を撃つわけにはいかない。


 ドアを開ける。朝の光が再び目を焼く。


 地図を確かめる。赤い線が港へと続いている。


 足を走らせる。アスファルトが熱を持つ。


 裏道は細い路地だ。ゴミの匂いが鼻を突く。


 角を曲がる。黒い車が路地を塞いでいる。窓が下りる。


「結城重則。ここで終わりだ」


 拳銃を構える。血の気が引く。


 引き金を引く。硝煙。ガラスの割れる音。


 走れ。心臓が口から飛び出しそうだ。


 路地の終わりに港の起重機が見える。蒼い船影が一つ、埠頭に横たわる。


 あと少し。息が肺を裂く。


 背後でクラクションが鳴る。轢かれる。


 跳ねる。コンクリートに転がる。肩が砕ける音。


 立ち上がる。足ががくがくする。


 埠頭へ這う。船の舷側に『蒼い鳥』の文字が滲んで見える。


 甲板に人影が立つ。伊達だ。


「重則!」


 彼の手が伸びる。その手を掴む。体が引き上げられる。


「林は?」

「…置いてきた」


 エンジンが唸る。船がゆっくりと離岸する。


 埠頭の上に、黒い車列が到着する。男たちが駆け下りる。


「美咲は?」

「倉庫から救出した。下の船室にいる」


 安堵が膝を折る。甲板に手をつく。


「佐藤の証拠は林の店だ。暗号は…」

「後にしろ。まずは包帯だ」


 伊達が私の肩を押さえる。血がスーツの袖を染めている。


 船がスピードを上げる。基隆港が遠ざかる。


 水平線が灰色に濁っている。戦場の匂いが風に乗る。


「次はどこへ」

「沖合だ。そこから日本へのルートを確保する」


 伊達の目が険しい。彼は私の傷を見つめたまま、小声で言った。


「林は…あのままでは生きられない」

「分かっている」


 港が視界から消える。肩の痛みが脈打つ。


 船室の階段を下りる。暗い廊下の先に、一つのドアが開いている。


 中で美咲が毛布に包まれて座っていた。彼女の目が私を見上げる。


「父さん…」


 声がかすれている。彼女の腕には擦り傷が赤く浮かぶ。


「大丈夫か」

「…うん」


 彼女がうなずく。その頬を涙が伝う。


「ありがとう」


 言葉が出ない。ただ彼女の頭を撫でる。


 毛布の下で、彼女の肩が小刻みに震える。


 伊達が廊下に立っている。彼がこっそりと手を振る。用件だ。


 美咲の元を離れる。廊下の暗がりで、伊達が小声で言う。


「林の店に連絡が入った。陳の部下が押し入った」

「…」

「証拠はもうないだろう」


 唇を噛む。鉄の味がする。


「佐藤は?」

「支店から消えた。おそらく陳の下へ」


 全てが遅すぎた。肩の傷がズキンと疼く。


「次はどうする」

「沖合で仲間と合流する。それから日本への脱出だ」


 伊達の目が暗い。彼は窓の外の海を見つめた。


「重則、一つ聞く。お前はまだ戦えるか」


 深く息を吸う。肺が痛い。


「ああ。戦える」

「それでいい」


 船が波を切る音だけが響く。蒼い鳥は、灰色の海へと飛び立った。机の下の赤い点滅が耳打ちする。全てを聞かれている。


 心臓が肋骨の裏で暴れる。呼吸が浅く、肺が十分に膨らまない。


 デスクフォンを握る。林への二番目の回線を引く。ダイヤル音が一回で切れる。


「暗号化通信に切り替えろ。喫茶店は中止だ」


『理由は?』


「清掃員のルーチンが狂っている。埃取りだけが立てかけてあった。現場は汚れている」


 受話器の向こうで息が詰まる。林の沈黙が重い。


『…分かった。では、計画は?』


「隠れ家を放棄する。伊達の家は使えない。緊急避難計画を優先せよ。『蒼い鳥』の準備はできているか」


『正午、第三埠頭だ。しかし…』


「しかし何だ」


『連絡が遅すぎる。既に準備を始めていた』


 背筋が冷たい。神経が皮膚の下で張り詰める。


「お前の声が震えているぞ、林」


『…気のせいだ』


「三日前の夜、佐藤はお前の店の外にいた。それも陳の部下とだ」


 一瞬、通信が途切れそうになる。雑音が走る。


『どこでそんな情報を?』


「お前の口から聞いたはずだ。忘れたのか?」


 林の息遣いが荒い。嘘が通信回線を歪ませる。


『思い出した。そうだった』


「基隆港の『蒼い鳥』。本当に待っているのか」


 沈黙。三秒。四秒。時計の針が音を立てる。


『信じられぬなら、来るな』


 通信が切断された。受話器だけが重い。


 掌に冷たい汗。喉がカラカラだ。舌がこびりつく。


 全てが嘘だと分かる。骨まで沁みる。


 伊達に暗号を送る。『林、裏切り濃厚。喫茶店接触を断念。隠れ家を即時放棄し、緊急避難計画へ移行せよ』机の下の赤い点滅が耳打ちする。全てを聞かれている。


 心臓が肋骨の裏で暴れる。呼吸が浅く、肺が十分に膨らまない。


 デスクフォンを握る。林への二番目の回線を引く。ダイヤル音が一回で切れる。


「暗号化通信に切り替えろ。喫茶店は中止だ」

『理由は?』

「清掃員のルーチンが狂っている。埃取りだけが立てかけてあった。現場は汚れている」


 受話器の向こうで息が詰まる。林の沈黙が重い。

『…分かった。では、計画は?』

「隠れ家を放棄する。伊達の家は使えない。緊急避難計画を優先せよ。『蒼い鳥』の準備はできているか」

『正午、第三埠頭だ。しかし…』

「しかし何だ」

『連絡が遅すぎる。既に準備を始めていた』


 背筋が冷たい。神経が皮膚の下で張り詰める。

「お前の声が震えているぞ、林」

『…気のせいだ』

「三日前の夜、佐藤はお前の店の外にいた。それも陳の部下とだ」


 一瞬、通信が途切れそうになる。雑音が走る。

『どこでそんな情報を?』

「お前の口から聞いたはずだ。忘れたのか?」


 林の息遣いが荒い。嘘が通信回線を歪ませる。

『思い出した。そうだった』

「基隆港の『蒼い鳥』。本当に待っているのか」


 沈黙。三秒。四秒。時計の針が音を立てる。

『信じられぬなら、来るな』


 通信が切断された。受話器だけが重い。


 掌に冷たい汗。喉がカラカラだ。舌がこびりつく。


 全てが嘘だと分かる。骨まで沁みる。


 伊達に暗号を送る。『林、裏切り濃厚。喫茶店接触を断念。隠れ家を即時放棄し、緊急避難計画へ移行せよ』受話器が重い。林の嘘が耳に残る。


「伊達、緊急だ。林の通信が途切れた」

『了解。暗号化チャンネルへ切り替える』


 衛星電話の画面が青白く光る。新しい接続が確立される。

『周波数ロック完了。こちら伊達。聞こえるか』

「聞こえる。林は裏切った。喫茶店は罠だ」

『証拠は?』

「彼の声が震えていた。こちらの確認質問に即答できなかった」


 窓の外を見る。向かいのビルの人影が増えている。双眼鏡のレンズが光る。


『佐藤の件はどうする』

「林は佐藤の情報を流した。おそらく三日前の夜だ。陳の部下との接触記録を送る」


 指が震える。暗号化ファイルを選択し、送信ボタンを押す。

 プログレスバーが進む。百パーセント。

『受信した。…これは確かだ。裏切りを裏付ける』

「次の安全な接触場所を決めろ。時間はない」

『港の第三埠頭は使えない。林が情報を流している。代わりに西岸の第四埠頭、廃倉庫だ。三十分後に』


 心臓が高鳴る。筋肉がこわばる。

「了解。合流方法は?」

『赤いコンテナの陰だ。合言葉は「春雷」。返答は「未だ遠し」』

「繰り返す。赤いコンテナ。合言葉「春雷」」

『そうだ。一秒でも遅れるな』


 通話を切る。机の下の赤い点滅を睨む。


 敵はこの会話を聞いていない。暗号化されている。しかし、彼らはこちらの動きを視覚で追っている。


 窓のブラインドを全閉にする。部屋が闇に沈む。


 鞄を背負う。肩のストラップを締め直す。


 非常階段のドアへ向かう。足音を殺す。


 手がドアノブに触れる。金属の冷たさ。


 振り返る。支店長室が暗闇に吞まれていく。


 非常階段の冷気が肺を刺す。闇へと一歩、踏み込む。机の下の赤い点滅が耳打ちする。全てを聞かれている。


 心臓が肋骨の裏で暴れる。呼吸が浅く、肺が十分に膨らまない。


 デスクフォンを握る。林への二番目の回線を引く。ダイヤル音が一回で切れる。


「暗号化通信に切り替えろ。喫茶店は中止だ」

『理由は?』

「清掃員のルーチンが狂っている。埃取りだけが立てかけてあった。現場は汚れている」


 受話器の向こうで息が詰まる。林の沈黙が重い。


『…分かった。では、計画は?』

「隠れ家を放棄する。伊達の家は使えない。緊急避難計画を優先せよ。『蒼い鳥』の準備はできているか」

『正午、第三埠頭だ。しかし…』

「しかし何だ」

『連絡が遅すぎる。既に準備を始めていた』


 背筋が冷たい。神経が皮膚の下で張り詰める。


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