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第38話 基隆港に張られた網

 林の目が一瞬、私の拳銃に止まる。彼の額に汗が光る。


「基隆港の話は本当か。『蒼い鳥』は?」


「本当だ。だが、時間がない。陳の網が港まで張られている」


 林がカウンターの下から一枚の地図を引っ張り出す。手書きのルートが赤で記されている。


「これは裏道。監視の目を潜れる唯一の道だ」\

「佐藤の件は?」


 林の顔が強張る。地図を握りしめる指の関節が白くなる。


「彼は…三日前の夜、私の店の外で誰かと話していた。相手は陳の部下だ」


 心臓が肋骨を打つ。耳の中で血流の音が鳴る。


「証拠は?」\

「ある。だが今は渡せない。君が港に着いてからだ」


 林の目が泳ぐ。私の視線をまっすぐ受け止めない。


「今、ここで渡せ」


「できない。持ち合わせていない。別の場所に隠した」


 彼の息が浅い。喉仏が上下する。


「林、お前の手が震えている」\

「…歳だ」


「歳じゃない。お前が嘘をついている時の癖だ」


 一瞬の沈黙。カウンターの上の時計の秒針の音だけが響く。


「仕方ない」


 林が諦めたように息を吐く。上着の内ポケットに手を伸ばす。


 出てきたのは小さなUSBメモリではない。黒い発信機だ。赤いLEDが点滅している。


「すまない、重則」


 彼の背後、厨房のドアが開いた。男たちが現れる。スーツの裾が揺れる。


「林!」


「彼らが娘を…美咲を捉えている。脅迫だ」


 林の目から涙が一粒、零れた。拳銃を構えた男たちが扇形に広がる。


 掌の汗でグリップが滑る。引き金に指をかける。


「陳は約束した。お前の命と引き換えに、娘を返すと」


「馬鹿め。あいつが約束を守るとでも?」


 一番前の男が口を開く。


「結城重則。ここで終わりだ」


 足を踏ん張る。心拍が鼓動を打つ。


「そうか。だが…終わりはこっちが決める」


 拳銃を上げる。硝煙の匂いが喫茶店の薄暗がりを満たす。埃取りだけが立てかけてある。他の清掃道具は整然と並ぶ。昨日とは違うルーチンだ。


「掃除の手順が狂っている。現場を慌てて離れた証だ」\

「監視か。この位置は死角になるな」


 伊達の指さす廊下の交差点。清掃員はそこに立っていたはずだ。


 掌が冷たい。肩のザックが重い。喉が渇く。舌が上顎に張りつく。


「迂回路を使う。喫茶店へ直行だ」


 鞄の中を確認する。拳銃の重み。衛星電話の固い角。


 外へ出る。朝の光が目を刺す。


 駐車場の車両が多すぎる。すべての窓が黒く塗られている。


「分かった。彼らは待っていた」


 背筋が冷たい。足が地面を蹴る。


 走れ。アスファルトが揺らめく。台北支店のビルが近づく。


 駐車場の黒い窓が一斉にこちらを捉えている。


 足を止める。深呼吸一つ。心拍を下げる。


「支店長、おはようございます」


 警備員が敬礼する。視線が私のザックに止まる。


「ああ」


 エントランスの自動ドアが開く。冷房の風が首筋を撫でる。


 受付の女性が笑う。いつもと変わらない朝だ。


「お帰りなさいませ」


 うなずく。エレベーターへ向かう。金属の扉が閉じる。


 鏡面に映る自分の顔。目尻に影がある。


 五階で停止する。扉が開く。


 支店長室までの廊下が長い。右手は窓。左手は執務スペース。


 鍵を差し込む。回す。カチリ。


 部屋に入る。すぐに鍵を閉める。背中をドアに預ける。


 窓のブラインドがすべて下りている。昨日、上げたままにしたはずだ。


「…」


 窓際へ歩く。机の上を見る。ペン立ての角度が五度ほどずれている。


 椅子を引き寄せる。座る。机の引き出しを一つ、静かに開ける。


 中は整理されている。あまりに整理されすぎている。


 衛星電話を取り出す。起動する。佐藤への専用回線を呼び出す。


「こちら結城。支店長室に到着した」\

『了解です。すぐに上がります』\

「いや、待て。まずは通常業務の確認だ。今日の定例会議は?」\

『十時からです。役員とのTV会議も予定されています』\

「了解。では、それまでに資料を揃えよ」


 通話を切る。衛星電話を机の上に置く。


 引き出しの奥から小さな道具箱を取り出す。開ける。


 黒い機器のスイッチを入れる。小さなLEDが点滅し始める。


 機器を手に持ち、部屋の端から歩き始める。壁際。ソファの裏。窓枠。


 LEDが緑色のまま点滅する。異常なし。


 机の下に手を伸ばす。底面をスキャンする。


 ビーッ。


 赤い光が一瞬、鋭く点滅した。机の下に発信機が仕掛けられている。


 掌の機器を握りしめる。指の関節が白くなる。


「…なるほど」


 机の上の衛星電話に手を伸ばす。佐藤への回線を繋ぐ。


「計画変更だ。定例会議を三十分繰り上げろ」\

『ですが、役員のスケジュールが…』\

「変更理由は後で説明する。まずは台湾企業A社への連絡を入れろ」\

『了解です』


 通話を切る。デスクフォンを手に取る。ダイヤル音が鳴る。


「林氏海運、お世話になっております」\

「林さんか。重則だ。今日の貨物確認についてだが」


 窓のブラインドの隙間から一瞥する。向かいのビルに人影が立つ。


「…ええ、書類の不備がある。至急、再送してほしい」\

「了解しました。では、場所は?」\

「いつもの喫茶店でいい。一時間後に」


 受話器を置く。メール画面を開く。台湾企業A社への定型文を打ち始める。


 指がキーボードを叩く音だけが響く。


 ドアがノックされる。


「支店長、お待たせしました」


 佐藤が書類束を持って入ってくる。目が一瞬、机の下へ向く。


「資料です。TV会議の議題を…」\

「机の上に置いてくれ」


 佐藤が資料を置く。手の動きが遅い。


「支店長、何か異常が?」\

「いいや。ただの確認作業だ」


 佐藤がうなずく。背筋がピンと伸びている。


「では、出ておきます」\

「ああ。ドアは閉めてくれ」


 佐藤が去る。足音が廊下に消える。


 デスクフォンを再び手に取る。別の番号を回す。


「陳さんか。重則です。打ち合わせの件で…」


 向かいのビルの人影が動いた。双眼鏡の光が一瞬、窓を掠める。


「…いえ、問題ありません。では、予定通りで」


 受話器を置く。メールを一本、送信する。


 件名は「本日の業務について」。文面は空だ。


 これで合図は送れた。


 机の下の赤い点滅を睨む。敵はこちらの動きをすべて聞いている。


 掌に汗が滲む。喉が乾く。


「さて、表向きの業務はこれで十分か」


 立ち上がる。窓のブラインドを少し上げる。


 台北の街が広がる。平和な朝の風景だ。


 その下で、戦争が始まっている。喫茶店の裏口に立つ。鍵穴に新しい傷が付いている。細かい擦り傷が二本、縦に走る。


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