第37話 早すぎる喫茶店の再会
窓のブラインドの隙間から一瞥する。向かいのビルに人影が立つ。
「…ええ、書類の不備がある。至急、再送してほしい」
「了解しました。では、場所は?」
「いつもの喫茶店でいい。一時間後に」
受話器を置く。メール画面を開く。台湾企業A社への定型文を打ち始める。
指がキーボードを叩く音だけが響く。
ドアがノックされる。
「支店長、お待たせしました」
佐藤が書類束を持って入ってくる。目が一瞬、机の下へ向く。
「資料です。TV会議の議題を…」
「机の上に置いてくれ」
佐藤が資料を置く。手の動きが遅い。
「支店長、何か異常が?」
「いいや。ただの確認作業だ」
佐藤がうなずく。背筋がピンと伸びている。
「では、出ておきます」
「ああ。ドアは閉めてくれ」
佐藤が去る。足音が廊下に消える。
デスクフォンを再び手に取る。別の番号を回す。
「陳さんか。重則です。打ち合わせの件で…」
向かいのビルの人影が動いた。双眼鏡の光が一瞬、窓を掠める。
「…いえ、問題ありません。では、予定通りで」
受話器を置く。メールを一本、送信する。
件名は「本日の業務について」。文面は空だ。
これで合図は送れた。
机の下の赤い点滅を睨む。敵はこちらの動きをすべて聞いている。
掌に汗が滲む。喉が乾く。
「さて、表向きの業務はこれで十分か」
立ち上がる。窓のブラインドを少し上げる。
台北の街が広がる。平和な朝の風景だ。
その下で、戦争が始まっている。肩が机の裏板に触れる。冷たい。発信機を剥がし取った痕跡がザラつく。
デスクフォンを握る。林への二番目の回線を引く。ダイヤル音が一回で切れる。
「林か。状況は変わった」
「…重則か。今どこに?」
「支店内だ。君の喫茶店は使えない。清掃員が狂っている」
受話器の向こうで息が詰まる。
「あの連中か。こちらのルートも汚れた」
「逃げ道は?」
「一カ所だけ残っている。基隆港の第三埠頭だ。『蒼い鳥』が待つ」
掌が汗で滑る。受話器がずれそうになる。
「時刻は?」
「正午ちょうど。一秒でも遅れれば出帆する」
「了解した」
「重則、一つ警告だ。佐藤はもう信用するな」
心臓が肋骨を打つ。耳鳴りがする。
「理由は?」
「彼の端末から漏れた先が、陳の部下の私設サーバーだ。三日前の夜だ」
机の上の書類が歪んで見える。
「…証拠は?」
「送る。暗号化済みだ。君の軍事ネットワークでのみ開ける」
受話器を置く。すぐにタブレットが震える。ファイルが届いている。
開く。認証画面が二重に現れる。支店長コードと、旧軍識別コードを入力する。
指が震える。
ファイルが解凍される。通信ログのスクリーンショットだ。佐藤の端末ID。接続先IP。それは陳の工作拠点のものと一致する。
時刻は七十二時間前。午後十一時十七分。ちょうど私が林と会った直後だ。
息が止まる。
ドアがノックされる。三度、規則正しい音。
「支店長、定例会議の時間です」
美咲の声だ。しかし高すぎる。
「少し待て。資料の最終確認中だ」
「ですが役員の方々がお待ちで…」
ドアノブが回る。鍵はかかっている。
「美咲、すぐに戻る。まずは会議室の準備を頼む」
「…わかりました」
彼女の足音が遠ざかる。しかし、もう一組の足音が廊下に残る。重い。
タブレットを鞄に押し込む。衛星電話で伊達に暗号送信。『佐藤裏切り確認。林経由で緊急脱出ルート確保。正午、基隆港第三埠頭』
返信がすぐに来る。『了解。喫茶店は放棄。港へ直行する』
机の上のデスクトップPCを起動する。管理画面を開く。支店のセキュリティシステムにアクセスする。
非常階段の監視カメラを一つ、静止画で固定する。三十分前の映像をループさせる。
エレベーターのログを削除する。私の入館記録だけを残す。
次に、通信端末のバックアップを開始する。暗号化プロトコルを二重にかける。進捗バーがゆっくりと進む。
机の下を覗く。発信機を剥がした穴が開いている。そこから小さなコードを引き出す。支店の警備システムの予備ラインだ。
コードを衛星電話に接続する。緊急遮断コマンドを打ち込む。
支店内のすべてのドアロックが一瞬、解除音を鳴らす。
これで非常時の脱出路は確保された。
バックアップ完了の表示が出る。衛星電話からSDカードを抜く。それを靴の裏の隠しポケットに滑り込ませる。
立ち上がる。窓のブラインドを少し上げる。
向かいのビルに、三つの人影が戻っている。うち一人はタブレットを覗き込んでいる。通信傍受の生データだ。
彼らはまだ、こちらが気づいていないと思っている。
鞄を背負う。拳銃の安全装置を確認する。
最後に机の上を見る。支店長の名札が光っている。
名札を引き出しにしまい込む。
ドアの鍵を開ける。廊下に出る。
右手の執務スペースでは、社員たちが定例会議の準備で忙しい。誰もこちらを見ない。
左の非常階段のドアへ静かに歩く。手を伸ばす。
ドアノブが冷たい。
振り返る。美咲が会議室の入口に立っている。彼女の目が私を捉える。瞳が揺れる。
口が動く。
「行ってらっしゃい、父さん」
うなずく。ドアを押す。
非常階段の冷たい空気が肺を締め付ける。
足を踏み出す。階段が暗闇へと続いている。 埃取りだけが立てかけてある。他の清掃道具は整然と並ぶ。昨日とは違うルーチンだ。
「掃除の手順が狂っている。現場を慌てて離れた証だ」
伊達の指さす廊下の交差点。清掃員はそこに立っていたはずだ。
掌が冷たい。肩のザックが重い。喉が渇く。舌が上顎に張りつく。
鞄の中を確認する。拳銃の重み。衛星電話の固い角。
「迂回路を使う。喫茶店へ直行だ」
外へ出る。朝の光が目を刺す。駐車場の車両が多すぎる。すべての窓が黒く塗られている。
「分かった。彼らは待っていた」
背筋が冷たい。足が地面を蹴る。走れ。アスファルトが揺らめく。
喫茶店の看板が見える。しかし入口のブラインドが下りている。営業時間ではない。
裏口へ回る。鍵穴に細かな傷が付いている。新しい傷だ。
拳銃を抜く。安全装置を外す。カチッ。
ドアを押す。中は薄暗い。カウンターの奥から人影が動く。
「林か?」
「…重則か。早すぎる」
林の手が震えている。茶葉の缶を置く音が硬い。
「連中が動いた。ここはもう使えない」
「知っている。清掃員から埃取りの置き方まで読んだ」




