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第36話 存在しないA社

 美咲の瞳が一瞬、翳る。彼女は知っている。A社など存在しないことを。


「…わかりました。では、資料を用意します」


 彼女が踵を返す。ドアが閉まる音。


 すぐにデスクフォンが鳴る。


「支店長、伊達です。『荷物』の準備が整いました」


 伊達の声に金属音が混じる。


「了解。『通常配達』で依頼した。林に伝えろ」


「すでに連絡済みです。ただ…」


「何だ」


「配達ルートに『交通規制』がかかっている。迂回が必要です」


 喉が渇く。舌が重い。


「推奨ルートは?」


「『裏道』経由。但し、『掃除』が入っている可能性があります」


 机の下の発信機が熱を持つような気がした。


「承知した。では、『定刻』に」


 電話を切る。メールを一斉送信する。全社員へ。定例会議繰り上げの通知。


 ドアが再び開く。佐藤が蒼い顔で立っている。


「支店長、向かいのビルです。人影が増えています」


 窓の隙間から覗く。三つの影。うち一つは双眼鏡を構えている。


「カーテンを閉めろ。全閉だ」


 佐藤が走る。ブラインドが下りる。部屋が薄暗くなる。


「彼らはいつ…」


「さっきからだ。清掃員の段階でこちらの動きは読まれていた」


 鞄から拳銃を取り出す。重みが手の平に馴染む。


「佐藤、君は非常階段を使え。裏口から脱出し、第2集合地点へ」


「しかし、支店長は?」


「私はここで『業務』を続ける。支店長としてな」


 エレベーターの到着音が廊下に響く。複数の足音。


「行け!」


 佐藤がうなずき、裏口へ消える。


 ドアがノックされる。軽い、三つの音。


「お入り」


 陳国華が微笑みを浮かべて入ってくる。灰色のスーツが寸分狂わない。


「結城さん、ご無沙汰です」


「陳さん。どういったご用件で?」


「ほんの些細な確認事項です。貴支店の…『貨物』の行方について」


 彼の目が机の上を滑る。衛星電話の位置を確かめるように。


「輸出規制品は一切扱っていない。ご存じの通りだ」


「そうですか。では、これらは何でしょう?」


 陳がタブレットを差し出す。画面に映るのは、林の喫茶店の入り口。伊達の背中が写っている。


「取引先との打ち合わせだ。何か問題が?」


「打ち合わせですね」


 陳がタブレットを引っ込める。その手が上着の内側に近づく。


「その『打ち合わせ』、今日はお止めになった方がよろしい。天候が悪化しますから」


「貴重な助言を感謝する。だが、約束は約束だ」


 陳の微笑みが凍りつく。彼の背後で、ドアの外に二つの影が足を止めている。


「残念です」


 陳がゆっくりと立ち上がる。


「では、『業務』ご成功を。結城支店長」


 彼が去る。ドアが閉まる。廊下の足音が遠ざかる。


 今だ。


 机の下に手を伸ばす。発信機を剥がし取り、窓の隙間から階下のゴミ収集車へ投げ込む。


 衛星電話で一文字送信する。『GO』


 ザックを背負う。拳銃をベルトに挿す。


 非常階段のドアを開ける。冷たいコンクリートの匂い。


 上からも下からも、駆け上がる足音が響いてくる。


 階段の踊り場で立ち止まる。心拍が耳を覆う。


 非常灯の赤い光が、階段を上って来る男たちの輪郭を浮かび上がらせる。スーツの裾が揺れる。


 一番前の男が顔を上げる。陳の部下だ。


 彼の口元が動く。


「結城重則。業務終了です」


 拳銃を抜く。金属の冷たさが掌に染みる。


「そうか。だが、私の業務は…」


 足を踏み出す。階段の一段が軋む。


「まだ始まったばかりだ」埃取りだけが立てかけてある。他の清掃道具は整然と並ぶ。昨日とは違うルーチンだ。


「掃除の手順が狂っている。現場を慌てて離れた証だ」\

「監視か。この位置は死角になるな」


 伊達の指さす廊下の交差点。清掃員はそこに立っていたはずだ。


 掌が冷たい。肩のザックが重い。喉が渇く。舌が上顎に張りつく。


「迂回路を使う。喫茶店へ直行だ」


 鞄の中を確認する。拳銃の重み。衛星電話の固い角。


 外へ出る。朝の光が目を刺す。


 駐車場の車両が多すぎる。すべての窓が黒く塗られている。


「分かった。彼らは待っていた」


 背筋が冷たい。足が地面を蹴る。


 走れ。アスファルトが揺らめく。台北支店のビルが近づく。


 駐車場の黒い窓が一斉にこちらを捉えている。


 足を止める。深呼吸一つ。心拍を下げる。


「支店長、おはようございます」


 警備員が敬礼する。視線が私のザックに止まる。


「ああ」


 エントランスの自動ドアが開く。冷房の風が首筋を撫でる。


 受付の女性が笑う。いつもと変わらない朝だ。


「お帰りなさいませ」


 うなずく。エレベーターへ向かう。金属の扉が閉じる。


 鏡面に映る自分の顔。目尻に影がある。


 五階で停止する。扉が開く。


 支店長室までの廊下が長い。右手は窓。左手は執務スペース。


 鍵を差し込む。回す。カチリ。


 部屋に入る。すぐに鍵を閉める。背中をドアに預ける。


 窓のブラインドがすべて下りている。昨日、上げたままにしたはずだ。


「…」


 窓際へ歩く。机の上を見る。ペン立ての角度が五度ほどずれている。


 椅子を引き寄せる。座る。机の引き出しを一つ、静かに開ける。


 中は整理されている。あまりに整理されすぎている。


 衛星電話を取り出す。起動する。佐藤への専用回線を呼び出す。


「こちら結城。支店長室に到着した」\

『了解です。すぐに上がります』\

「いや、待て。まずは通常業務の確認だ。今日の定例会議は?」\

『十時からです。役員とのTV会議も予定されています』\

「了解。では、それまでに資料を揃えよ」


 通話を切る。衛星電話を机の上に置く。


 引き出しの奥から小さな道具箱を取り出す。開ける。


 黒い機器のスイッチを入れる。小さなLEDが点滅し始める。


 機器を手に持ち、部屋の端から歩き始める。壁際。ソファの裏。窓枠。


 LEDが緑色のまま点滅する。異常なし。


 机の下に手を伸ばす。底面をスキャンする。


 ビーッ。


 赤い光が一瞬、鋭く点滅した。机の下に発信機が仕掛けられている。


 掌の機器を握りしめる。指の関節が白くなる。


「…なるほど」


 机の上の衛星電話に手を伸ばす。佐藤への回線を繋ぐ。


「計画変更だ。定例会議を三十分繰り上げろ」\

『ですが、役員のスケジュールが…』\

「変更理由は後で説明する。まずは台湾企業A社への連絡を入れろ」\

『了解です』


 通話を切る。デスクフォンを手に取る。ダイヤル音が鳴る。


「林氏海運、お世話になっております」\

「林さんか。重則だ。今日の貨物確認についてだが」


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