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第35話 五度ずれたペン立て

「…」


 窓際へ歩く。机の上を見る。ペン立ての角度が五度ほどずれている。


 椅子を引き寄せる。座る。机の引き出しを一つ、静かに開ける。


 中は整理されている。あまりに整理されすぎている。


 衛星電話を取り出す。起動する。佐藤への専用回線を呼び出す。


「こちら結城。支店長室に到着した」


『了解です。すぐに上がります』


「いや、待て。まずは通常業務の確認だ。今日の定例会議は?」


『十時からです。役員とのTV会議も予定されています』


「了解。では、それまでに資料を揃えよ」


『承知しました』


 通話を切る。衛星電話を机の上に置く。


 引き出しの奥から小さな道具箱を取り出す。開ける。


 黒い機器のスイッチを入れる。小さなLEDが点滅し始める。


 機器を手に持ち、部屋の端から歩き始める。壁際。ソファの裏。窓枠。


 LEDが緑色のまま点滅する。異常なし。


 机の下に手を伸ばす。底面をスキャンする。


 ビーッ。


 赤い光が一瞬、鋭く点滅した。赤い点滅が目に焼きつく。机の下に発信機が仕掛けられている。


 掌の機器を握りしめる。指の関節が白くなる。


「…なるほど」


 机の上の衛星電話に手を伸ばす。佐藤への回線を繋ぐ。


「計画変更だ。定例会議を三十分繰り上げろ」


『ですが、役員のスケジュールが…』


「変更理由は後で説明する。まずは台湾企業A社への連絡を入れろ」


『了解です』


 通話を切る。デスクフォンを手に取る。ダイヤル音が鳴る。


「林氏海運、お世話になっております」


「林さんか。重則だ。今日の貨物確認についてだが」


 窓のブラインドの隙間から一瞥する。向かいのビルに人影が立つ。


「…ええ、書類の不備がある。至急、再送してほしい」


「了解しました。では、場所は?」


「いつもの喫茶店でいい。一時間後に」


 受話器を置く。メール画面を開く。台湾企業A社への定型文を打ち始める。


 指がキーボードを叩く音だけが響く。


 ドアがノックされる。


「支店長、お待たせしました」


 佐藤が書類束を持って入ってくる。目が一瞬、机の下へ向く。


「資料です。TV会議の議題を…」


「机の上に置いてくれ」


 佐藤が資料を置く。手の動きが遅い。


「支店長、何か異常が?」


「いいや。ただの確認作業だ」


 佐藤がうなずく。背筋がピンと伸びている。


「では、出ておきます」


「ああ。ドアは閉めてくれ」


 佐藤が去る。足音が廊下に消える。


 デスクフォンを再び手に取る。別の番号を回す。


「陳さんか。重則です。打ち合わせの件で…」


 向かいのビルの人影が動いた。双眼鏡の光が一瞬、窓を掠める。


「…いえ、問題ありません。では、予定通りで」


 受話器を置く。メールを一本、送信する。


 件名は「本日の業務について」。文面は空だ。


 これで合図は送れた。


 机の下の赤い点滅を睨む。敵はこちらの動きをすべて聞いている。


 掌に汗が滲む。喉が乾く。


「さて、表向きの業務はこれで十分か」


 立ち上がる。窓のブラインドを少し上げる。


 台北の街が広がる。平和な朝の風景だ。


 その下で、戦争が始まっている。書類の山が机を埋める。その下で、赤い点滅が続いている。


 佐藤の端末データを開く。ログイン履歴が三日前で途切れる。最後のアクセスIPが基隆港の倉庫地区を示す。


「彼はあの夜、報告していない場所にいた」


 指がキーボードを叩く。暗号化されたバックアップサーバーに接続する。認証プロンプトが二つ現れる。


 一つは支店長権限。もう一つは、自衛隊OBネットワークの認証コードを要求する。


 両方を入力する。心臓が肋骨の裏で暴れる。


 データが流れ込む。佐藤の端末通信記録が展開される。大半は平常だ。


 一つの記録が目を引く。暗号化されていない外部接続。接続先は非公開のリレーサーバー。


 接続時間は七十二時間前。ちょうど林との密会直後だ。


「…これが漏洩経路か」


 額に汗がにじむ。首筋の筋肉が石のように固まる。


 衛星電話を手に取る。伊達への緊急ラインを呼び出す。


『状況は?』


「佐藤の端末から外部接続が確認された。暗号化されていない」


『時期は?』


「林との接触直後だ。彼の情報が流れた可能性が高い」


 受話器の向こうで息が止まる。


『林は裏切ったのか?』


「分からない。だが接触可能性は再評価が必要だ」


『了解。こちらの移動を続ける。次の連絡は喫茶店で』


 通話を切る。


 机の下の赤い点滅が目に焼きつく。敵はこの会話を聞いている。


 立ち上がる。書類をわざとらしく広げる。ページをめくる音を立てる。


「では、定例会議の資料を確認するか」


 大声で独り言を言う。演技だ。


 窓の外を見る。向かいのビルの人影が去っていく。


 彼らは表向きの業務を信じた。


 掌の汗が書類の端を濡らす。時間が足りない。


 佐藤のデータを二重チェックする。外部接続記録をすべて印刷する。


 紙を手で裂く。細かく千切る。


 灰皿を取り出す。ライターの火を近づける。


 紙が炎に包まれる。灰が舞う。


 これで物理的な証拠は消えた。


 机の下に手を伸ばす。発信機を探る。磁石で固定されている。


 強引にはがす。机の裏板に小さな穴が開いている。


 発信機を掌に載せる。LEDの赤い光が点滅し続ける。


 窓に向かって歩く。ブラインドを上げる。


 台北の空が灰色に濁っている。


 掌を開く。発信機を窓の外へ放る。


 小さな黒い点が落下していく。向かいのビルの屋上に消える。


「これで少しは時間が稼げる」


 しかし心臓の鼓動が収まらない。筋肉が震える。


 敵はすでに動いている。佐藤も、林も、陳も。


 すべての駒が盤上で動き出した。


 私はただ一つ、残された手を打つだけだ。


 喫茶店へ向かう。最後の情報を集める。


 そのために、今は支店長を演じ続ける。机の下の赤い点滅が耳打ちする。すべて聞かれている。


 心臓が肋骨の裏で暴れる。呼吸が浅く、肺が十分に膨らまない。


「支店長、おはようございます」


 美咲がドアを開けて入ってくる。インターンの名札が揺れる。彼女の目が私の拳を見つめる。握りしめた掌が白い。


「父さん、大丈夫?」


「ああ。朝の連絡だ」


 衛星電話をさりげなく引き寄せる。机の下を隠す。


「今日のスケジュールを確認に。十時から定例会議でしょ?」


 彼女の声がいつもより高い。指が書類の端を弄ぶ。


「変更した。三十分早める」


「え?でも役員の方々が…」


「緊急の貨物確認が入った。台湾A社からだ」


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