第34話 バックドアへ駆け下りろ
伊達がうめく。彼は窓のブラインドを閉める。室内が暗くなる。
「退避経路はバックドアのみ。三秒で決めろ」
私は最後の書類を燃やす。炎が手元を焦がす。
「行け」
二人でドアへ駆ける。階段が暗闇へ続いている。盆栽の幹に触れる。樹皮がざらりと乾いている。根元の苔に異常がある。
苔の一部がめくれている。剥がした跡だ。\
指で探る。土の中に硬いものが当たる。
引っ張り出す。米粒ほどの金属片だ。端が焦げている。\
通信装置の破片だ。長期使用で熱を持った証拠。
枝を見上げる。針金の痕がくい込んでいる。\
十年かけて育てた樹形が歪んでいる。左側だけ不自然に曲がる。
その曲がりが、窓際の死角を作る。隠しカメラの盲点だ。\
すべて計算されていた。
胃の底が冷たい。喉が締め付けられる。\
この盆栽は贈り物だった。誰からか覚えていない。
伊達が近づく。息をのんだ。
「……何年も前からか」
うなずけない。拳を握る。金属片が掌に食い込む。\
監視は昨日始まったのではない。何年も、ここで暮らしていた。
「移動だ。今すぐに」
声が低く砕ける。盆栽を見つめる。\
十年の時間が、すべて虚構だった。清掃カートの道具は整然と並んでいる。だが埃取りだけが乱れていた。立てかけられ、向きが違う。
「伊達、清掃員は道具を正しく戻す。埃取りの置き方が違う」
胸が一瞬で締め付ける。心臓が肋骨の裏で暴れる。伊達の顔が血の気を失う。
「監視だ。廊下の交差点の死角だな」
彼の言葉が背骨に氷柱を刺す。手足が瞬時に重くなる。睡眠も洗面も忘れた。計画は粉々だ。
腰の拳銃に手をやる。冷たい金属が肌を焼く。日本政府ブリーフケースを掴む。革が手汗で滑る。
デスクの通信機のコードを引き千切る。火花が散る。灰皿の書類の灰を掻き混ぜる。証拠を潰す。
伊達がバックドアを開ける。暗い階段が口を開く。一歩を踏み出す。
振り返る。埃取りが無造作に立つ。十年育てた盆栽が歪む。
すべてが嘘だった。
「五分だ。遅れるな」
声が低く裂ける。階段を駆け下りる。足音は吸い込まれる。 埃取りが乱れている。立てかけられたまま、向きが揃っていない。監視の証拠だ。胃が痙攣する。朝食など無理だ。
「伊達、ここは終わりだ。五分で装備を回収する」
声が乾く。喉が焼ける。伊達がうなずく。彼は窓際のブラインドを閉める。室内が薄暗くなる。
日本政府ブリーフケースを開ける。書類はすべて灰になった。次は暗号化ノートPCだ。デスクの裏から引き抜く。電源を切る。バッテリーを外す。
拳銃を確認する。マガジンを抜き、薬莢を確認する。一発、二発。フル装填だ。腰に収める。冷たい重さ。
床板を蹴る。一枚が浮く。現金の束が隠してある。札束を掴み、ポーチに詰め込む。
伊達がバスルームから小さなキットを持ち出す。偽造パスポート用の用紙とインクだ。
「これで最後か」
「あと一分だ。痕跡を消せ」
ライターの燃料を床に撒く。埃取りの上にもかける。火種を落とす。
炎がじわりと広がる。木の枠が軋む。
「行け」
バックドアを蹴破る。階段の冷気が顔を打つ。駆け下りながら振り返る。炎の色が廊下を染める。
十年の隠れ家が、十五分で消えた。埃取りが乱れたまま、監視の痕跡が残っていた。胸が縮む。心臓が肋骨の裏で暴れる。
「通信を試みる。伊達、周囲を警戒しろ」
ノートPCを床に置く。暗号化プロトコルを起動する。青い画面が点滅する。鍵マークが回転する。三秒で接続完了を告げる。速度が速すぎる。
「民間の衛星回線だ。政府チャンネルは死んでいる」
伊達が窓の隙間から外を覗く。彼の背中が固まる。
「路地に静止車両。エンジンはかかっていない」
指がキーを打つ。佐藤の端末に問い合わせる。『安全コード、Delta-Seven』応答は即座だ。『受信確認』だが、データ送信のリクエストが跳ね返される。『接続拒否』
「佐藤の端末に外部からの干渉がある」
「本人の操作か? それとも……」
問いは宙に浮く。第二の問い合わせを試みる。在留邦人リストの断片を要求する。プログレスバーが進む。九十パーセントで停止した。画面が凍る。
「ダウンロードが遮断された。こちらのIPが特定されている」
掌が汗ばむ。冷たい汗が首筋を伝う。伊達が拳銃の安全装置を外す。カチッという音。
「緊急離脱だ。今だ」
うなずく。ノートPCのハードディスクに物理破壊コマンドを流す。キーを叩く。エンター。
画面が真っ青になる。文字が浮かぶ。\
『破壊完了。回収不能』
「よし」
ザックを担ぐ。重さが肩に食い込む。伊達がドアを開ける。階段の闇が待っていた。
最後に振り返る。ノートPCの画面が真っ暗だ。\
民間回線だけが繋がる世界。政府は沈黙した。\
頼れるものは、もはやこれだけだ。
階段の闇が肺を締めつける。息が浅い。心臓が肋骨を打つ。
伊達の背中だけを追う。一階。エントランスのガラス越しに人影が揺れる。
「清掃員だ」
しかし埃取りだけが立てかけてある。他の道具はきちんと並ぶ。
「掃除道具はきちんと戻すものだ」
伊達が引き止める腕を上げる。
「ルーチンが狂っている。監視だ。慌てて離れた証拠」
肩のザックが重い。喉が渇く。舌が上顎に張りつく。
「迂回路を使え。喫茶店へ直行する」
鞄の中を確認する。拳銃の重み。衛星電話の固い角。
外へ出る。朝の光が目を刺す。
駐車場の車両が多すぎる。すべての窓が黒く塗られている。
「分かった。彼らは待っていた」
背筋が冷たい。足が地面を蹴る。走れ。朝の光がアスファルトを揺らす。台北支店のビルが見える。
駐車場の車両が多すぎる。黒い窓がすべてこちらの動きを捉えている。
足を止める。深呼吸一つ。心拍を下げる。
「支店長、おはようございます」
警備員が敬礼する。視線が一瞬、私のザックに止まる。
「ああ」
エントランスの自動ドアが開く。冷房の風が首筋を撫でる。
受付の女性が笑う。いつもと変わらない朝だ。
「お帰りなさいませ」
うなずく。エレベーターへ向かう。金属の扉がゆっくり閉じる。
鏡面に映る自分の顔。目尻に疲れの影がある。
五階で停止する。扉が開く。
支店長室までの廊下が長く感じる。右手は窓。左手は執務スペース。
鍵を差し込む。回す。カチリ。
部屋に入る。すぐに鍵を閉める。背中をドアに預ける。
窓のブラインドがすべて下りている。昨日、私が上げたままにしたはずだ。




