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第33話 包囲網と発信器

 外から物音がする。立ち止まる。耳を澄ます。

 ただのネコだ。コンクリートの上を走り去る足音。


 再び画面に向かう。緊急連絡先を三つ登録する。林の喫茶店は除外した。

 新しい集結地点。脱出ルート。確認コード。全てを書き換える。


 終わった。PCを閉じる。備品をバッグに戻す。

 拳銃を腰に収める。ジャケットの下に隠れる。重さが頼りになる。


 倉庫の扉を開ける。朝の光が眩しい。安全を確認して車に戻る。

 エンジンをかける。次の一手を考える。支店ではなく、喫茶店へ向かう。


「外務省の連絡を待つな。我々が時間を作る」


 車が走る。街灯が流れる。エンジン音だけが響く。

 拳銃が腰に冷たい。衛星電話の液晶が青く光る。

 液晶にコードを打ち込む。林への暗号化された問い合わせだ。

 心臓が肋骨を打つ。十秒。二十秒。

 応答がない。


「佐藤、聞こえるか」


 衛星電話のイヤホンからノイズが聞こえる。かすかな息づかい。

「支店長……大丈夫です」

「場所を変える。本部は危険だ」

「了解。代替地点は?」

 頭が回転する。安全な場所。監視のない場所。

「美咲の寮の近く。あの公園だ」

「リスクが高いです」

「敵が想定しない場所ほど安全だ」


 電話を切る。手のひらが汗ばむ。

 ハンドルを握りしめる。指の関節が白くなる。

 ミラーに映る後続車。一台、二台。普通の車だ。

 だが、三台目がずっとついてくる。


 信号が黄色に変わる。アクセルを踏む。

 車が交差点を駆け抜ける。後続車は止まった。

 曲がり角で急停止する。路地に入る。

 エンジンを止める。息を潜める。


 衛星電話を再び握る。林への第二の信号を送る。

 特殊な周波数だ。もし生きていれば、応答する。

 液晶の表示が変わる。一文字、また一文字。

 『捕』

 そして文字が消える。


 歯を食いしばる。顎の筋肉が痙攣する。

 計画はもう変わった。本部へは行けない。

 公園での待ち合わせ。佐藤だけが頼りだ。

 車のエンジンをかける。静かに路地を抜ける。


「美咲……無事でいてくれ」


 廊下の角に清掃カートが置かれている。道具は整然と並んでいる。

 埃取りだけが立てかけられていた。他の道具と向きが違う。


「埃取りが立てかけてある。他の道具と違う」


 伊達が眉を上げる。手を机から離した。


「掃除道具はきれいに並べて戻すものだ」


「ああ、掃除の仕方か。細かいね」


「清掃スタッフの作業ルーチンはこうじゃない」


 伊達が机を軽く叩く。音が乾いている。


「ルーチン通りじゃないなら、何かあったんだ」


「そうか。清掃員なら、道具をきちんと戻す」


「慌てて現場から離れた証拠だ」


 伊達の視線が廊下へ向く。目が細くなる。


「監視だ。廊下の交差点の死角だな」 窓際の席が一つだけ空いていた。ちょうど喫茶店の入口から見通せる位置だ。

 私はテーブルに向かう。革の椅子に腰を下ろす。

 壁の時計の針が午前二時三十分を指している。


 カウンターから店員が近づいてくる。白いエプロンにシワ一つない。

 彼はテーブルを拭き始めた。布巾を手に持つ。

 動作が滑らかすぎる。


 布巾がテーブルの端をなぞる。円を描くように動く。

 一回、二回。同じ軌道だ。

 だが三回目で手が止まる。一瞬だけだ。


 店員の視線が窓の外へ揺れる。すぐに戻る。

 布巾の動きが乱れる。円が歪む。

 彼はテーブルの中央を避けている。


「コーヒーを一杯」


 私が注文する。店員はうなずく。

 彼が去った後、テーブル表面を見る。光の反射が均一でない。

 中央部分だけ拭き残されている。


 指でそっと触れる。ほんのわずかな凸凹を感じる。

 テーブルの木目に沿わない傷だ。新しい。

 何かが埋め込まれていた痕跡か。


 窓の外を見る。向かいのビルの影が深い。

 その影の中に人の形が動いた。一瞬で消える。

 心拍数が上がる。呼吸を整える。


 店員がコーヒーを持って戻る。カップを置く手が震えていない。

 だが、彼はテーブルの拭き残し部分を避けてカップを置いた。

 正確に、意図的に。


「ありがとう」


 私が言うと、店員は無言でうなずく。

 彼の耳に小さなイヤホンが光る。ほんの一瞬だ。

 コーヒーの湯気がゆらめく。時間が遅くなる。


 カップを手に取る。ふちに口をつける。

 苦味が広がる。普通のコーヒーだ。

 しかしテーブルの下を見る。床にほこりの塊が落ちている。


 それは埃取りからこぼれたものだ。形が不自然だ。

 清掃道具は完璧なのに、ここだけ手抜きがある。

 二つの異常が重なる。


 イヤホン。拭き残し。埃の塊。

 監視の証拠が三つ揃った。

 ここは罠だ。 喫茶店を出る。足が速くなる。

 胸の内側で脈打つドクンドクンという鼓動が耳に響く。

 喉の乾きがひりひりと疼く。飲み込んでも消えない。

 下腹部の重い張りを感じる。冷や汗が背中を伝う。

 手足が鉛のように重い。


「佐藤、第一地点を放棄する」


 衛星電話を握りしめる。指が震える。

「了解。第二候補は?」

「伊達の家だ。直行する」

「リスクが──」

「すでに監視下にある。急げ」


 路地に入る。影に身を潜める。

 後ろを振り返る。誰もいない。

 しかし皮膚が痺れる。視線を感じる。


 伊達の家の前で止まる。ドアに手をかける。

 鍵穴に新しい傷がある。輝いている。


「……中に入るな」


 伊達が私の腕を掴む。力が強い。

「お前は?」

「お前が優先だ。離れろ」

 彼がドアを開ける。中は暗い。

 清掃カートが廊下に置かれている。


 道具は整然と並んでいる。

 だが埃取りだけが立てかけられていた。


「埃取りが立てかけてある。他の道具と違う」


「掃除道具はきれいに並べて戻すものだ」


「清掃スタッフの作業ルーチンはこうじゃない」


 伊達が机を軽く叩く。


「ルーチン通りじゃないなら、何かあったんだ」


「慌てて現場から離れた証拠だ」


 伊達の視線が廊下の交差点へ向く。


「監視だ。廊下の交差点の死角だな」


 彼が懐中電灯を点ける。光が床を照らす。

 埃取りの立てかけてあった床に、足跡が乱れている。

 二組だ。逃げ出す時の足跡だ。


「ここも終わりだ。移動しよう」


 私がうなずく。拳銃の安全装置を外す。

 伊達がバックドアを開ける。階段が続く。

 二人で駆け下りる。足音が響かないように。


 外はまだ暗い。新しい隠れ家への道のりが始まる。 床の埃取りが乱れていた。立てかけられたまま、他の道具と違う向きだ。


「清掃スタッフの作業ルーチンはこうじゃない」


 胸の鼓動が早くなる。喉が渇く。伊達が机を叩く音が耳に響く。


「ルーチン通りじゃないなら、何かあったんだ」


「慌てて現場から離れた証拠だ」


 伊達の視線が廊下の交差点へ向く。目が鋭くなる。


「監視だ。廊下の交差点の死角だな」


 彼の言葉で背筋が凍る。手足に力が入る。ここは安全ではなかった。路地の影が長い。アスファルトが湿っている。

 向かいの古いアパートの窓が一筋だけ明るい。

 三階の右から二番目だ。カーテンは閉まっている。


 窓ガラスに人影が映る。横に動く。

 白い布切れのようなものを持っている。

 拭き掃除の動作を始めた。


 布が円を描く。上から下へ。規則的だ。

 しかし四回目で乱れる。縦の動きになる。

 五回目は窓の端だけを撫でる。中央を避けている。


 呼吸が浅くなる。心臓が胸壁を押す。

 あの動作は知っている。信号だ。

 監視対象を確認した合図。


 窓の人影が立ち止まる。私の方を見ている。

 距離は五十メートル。暗闇の中だ。

 目が合ったわけではない。だが確信した。


 足が動く。路地の奥へ後退する。

 背中がコンクリート壁に触れる。冷たい。

 懐中の拳銃に手をやる。金属の感触。


 アパートの玄関が開く。男が一人出てくる。

 彼はこちらの方向を一瞥し、携帯電話を取り出す。

 話しながら歩き出す。速度が速い。


「佐藤、第二地点も危険。移動を続ける」

 声が低く軋む。喉が焼けるように渇く。

「了解。次の指示を」

「待機地点Cだ。三十分後に」

「支店長、あなたの位置は?」

「追跡中だ」


 電話を切る。男の足音が近づく。

 路地の角を曲がる音。複数の足音だ。

 私は壁伝いに忍び寄る。下水溝の蓋を跨ぐ。


 向かいのビルからもう一つの人影が現れた。

 窓を拭いていた男だ。彼は手に白い布を握ったまま、

 私がいた場所を指さした。


 二人が合流する。言葉を交わす。

 一人がうなずき、アパートへ戻る。

 もう一人は私の方向へ歩き始める。


 逃げ道は二つだ。右は行き止まり。

 左は大通りに出る。監視の目が多い。

 私は息を止める。男の足音が三メートルまで近づく。 清掃カートの道具は整然と並んでいる。だが埃取りだけが違う。立てかけられたまま、向きが揃っていない。


「埃取りが立てかけてある。他の道具と違う」


 胸の鼓動が肋骨を打つ。伊達の机を叩く音が鋭い。


「掃除道具はきれいに並べて戻すものだ」

「ああ、掃除の仕方か。細かいね」

「清掃スタッフの作業ルーチンはこうじゃない」


 伊達が机から手を離す。顔が硬直する。


「ルーチン通りじゃないなら、何かあったんだ」

「そうか。清掃員なら、道具をきちんと戻す」

「慌てて現場から離れた証拠だ」


 伊達の視線が廊下の交差点に釘付けになる。


「監視だ。廊下の交差点の死角だな」


 背筋が氷のように冷える。拳を握りしめる。指の関節が軋む。

 計画変更は正しかった。ここにも手が回っていた。埃取りが乱れている。立てかけたまま、向きが違う。


「伊達、清掃員は道具を正しく戻す。埃取りの置き方が違う」


 胸が締め付けられる。呼吸が浅い。伊達の目が窓の外を走る。


「監視だ。廊下の交差点の死角だな」


 彼がデスクの通信機に手を伸ばす。スイッチを入れる。

 液晶が点灯し、すぐに赤く光った。接続エラーだ。

 政府チャンネルは死んでいる。


「代わりを使う」


 私はノートPCを開く。独自の暗号システムを起動する。

 キーを打つ。一回、二回。スクリーンに文字が浮かぶ。

『接続中』

 そして『限定的』と表示された。


「民間チャンネルだけが生きている」


「敵の通信妨害だ。地域封鎖も始まっている」


 伊達が歯を食いしばる。頬の筋肉がピクつく。

 外を見る。通りは異常に静かだ。朝の気配がない。

 戦時の静寂が窓から流れ込む。


「ここも危険すぎる。直ちに放棄せよ」


 うなずく。拳銃を確認し、腰に収める。

 現金、衛星電話、医療キット。すべてをザックに詰める。

 重さが肩に食い込む。


「佐藤には連絡したか」


「待機地点Cへ移動させる。我々も合流する」


「林は?」


 返答はない。先ほどの一文字が脳裏をよぎる。

『捕』

 時間は尽きている。裏切りが動きを加速させた。


「行こう」


 伊達がバックドアを開ける。暗い階段が待つ。

 一歩を踏み出す前に、もう一度部屋を見回す。

 埃取りが無造作に立てかけてある。監視の証拠だ。

 すべての安全は、もはや幻想だった。 窓際のサイドテーブルの埃の痕跡が気になる。円形の机の縁だけが無垢に光り、中央部に薄い膜が残っている。


 机の脇に清掃カートが放置されていた。雑巾とスプレーは整列している。しかしゴミ箱の蓋が外され、床に転がっている。


 通り向かいの路地で男が動く。清掃員の制服を着ている。彼はゴミ箱に近づき、雑巾を取り出す。


 雑巾が蓋の取っ手を包む。三度、ゆっくりと拭く。縁に沿った動きだ。だが側面には触れない。裏返しもしない。


 男の手が止まる。彼は蓋の特定の部分を指で撫でる。金属の継ぎ目だ。その後、雑巾を投げ捨てた。


 胸の奥がざわつく。喉が渇く。あの拭き方は清掃ではない。何かを確認する動作だ。


「伊達、外を見ろ」


 声が低く軋む。伊達が窓辺に寄る。目を細める。


「清掃員がゴミ箱の蓋を拭いている。だが不自然だ」


「どの部分を?」


「取っ手と継ぎ目だけだ。側面は汚れたまま」


 伊達の息が止まる。彼も見ていた。テーブルの埃の痕跡を。


「……パターンが同じだ」


 うなずく。拳を握る。机の埃も縁だけが綺麗だった。中央を避けている。


「監視チームが痕跡を確認していた。この部屋の扉の開閉回数か」


「または室内の人間の数だ」


 背筋が冷たい。足が次の行動を求める。


「証拠隠滅だ。今すぐに」


 伊達がデスクの通信機を引き抜く。コードを切り裂く。私は日本政府ブリーフケースを開け、書類を取り出す。


 一枚、また一枚。ライターの炎が紙を舐める。灰が灰皿に積もる。


「盆栽は?」


「安全な場所から確認する。今は動くな」


 窓の外を見る。清掃員が立ち去る。彼は振り返らない。


 しかし路地の影が動く。もう一人の男が現れ、ゴミ箱の蓋を拾い上げる。彼は蓋の継ぎ目を覗き込んだ。


「工作品だ。発信器だろう」


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