第32話 第三連絡点、緊急起動
次に情報システム課へ向かう。ガラスの壁越しに、佐藤が複数のモニターを見つめている。
ノックせずに入る。彼が振り返り、立ち上がる。
「支店長」
「第三の連絡点、緊急起動だ。ここで話せ」
私はドアを閉め、鍵をかける。薄暗い室内で、佐藤の顔が青白く浮かぶ。
「林の喫茶店に、隠し通路と組織的な監視網を確認した。床板の摩耗が証拠だ」
佐藤の息が止まる。彼の喉仏が上下する。
「連絡網は完全に汚染されている。我々の動きは筒抜けだ」
「…確証は?」
「監視カメラの送信先は深センだ。林は敵の手先か、乗っ取られている」
胸の奥で心臓が暴れる。鼓動が耳を塞ぐ。
「新たな網を構築する。衛星経由の一回限りだ。起点は俺、結点はお前だけだ」
机の上の端末を起動する。青白い画面に、暗号化プロトコルが展開される。
「今すぐ、在留邦人リストの真偽を第三経由で検証しろ。林からの医療データは全て破棄だ」
「了解」
「次に、基隆港を除外した新たな脱出ルートを選定しろ。船舶は東和名義で動くな」
私は極薄のタブレットを置く。台北郊外の私設埠頭の座標が、赤く点滅している。
「七十二時間後、ここに集結する。詳細は第三の連絡点のみで伝える」
佐藤の指がキーボードの上で止まる。彼が深く息を吸った。
「支店長は?」
「俺は囮になる。林の目をこの支店に釘付けにしておく」
「それは──」
「命令だ」
無線機の電源を切る。旧式の回線はもう使わない。
「全ての通常業務を、そのまま続けろ。変わったのは、中身だけだ」
私はドアへ手を伸ばす。金属のノブが冷たい。
「生きてろ、佐藤。新しい糸は細い。だが、確かだ」
ドアを開け、廊下の光の中へ戻る。背後の部屋に、新しい網を紡ぐ音だけが残る。
廊下の光が、目に刺す。心臓が胸骨を叩く。十。十。十。
清掃用具の配置。埃取りが立てかけられている。掃除員は道具をきっちり揃える。これでは無い。
「伊達、掃除道具の置き方が違う」
私の指が埃取りの柄を指す。角度が狂っている。
「ルーチンから外れている」
伊達の目が机の上の傷へ走る。彼のこめかみが震えた。
「監視だ。急いで離れた痕跡だ」
胃が絞られる。体温が皮膚の下で逆流する。即時移動。偽装経路。
鞄を掴む。中身の重量が腕を引く。拳銃、現金、衛星電話。全てが揃っている。
ドアを開ける。階段へ駆け下りる。足音は吸い込まれる。
喫茶店の窓から見える街が、逆さまに傾く。心臓が耳の奥で轟く。
客席のテーブル。隅に小さな傷。つるり。誰かが慌てて立ち去った痕跡だ。
「即時放棄だ。移動を変更する」
私の声は喉の奥で砕ける。胃液が食道を逆流する。
左手で現金を机に置く。右手は鞄のファスナーを開ける。衛星電話の感触が冷たい。
「林への連絡を試みる。五秒だけ」
店員の視線が背中を這う。カウンターで布巾を絞る音。ぎゅっ。ぎゅっ。
衛星電話のボタンを押す。一音。二音。三音。繋がらない。血の気が引く。
鞄を閉じる。立ち上がる。足が床に吸い付く。
出口は二つ。正面の扉と、奥の非常口。非常口の誘導灯がちらついている。
「非常口を使う。二重チェック」
非常口のドアを押す。階段が暗い。下へ駆け下りる。呼吸が鉄の味になる。
地下駐車場に出る。車列の陰から路上を覗く。誰もいない。
駐車場の冷気が首筋にまとわりつく。手のひらが滑る。
車列の陰から暗号化端末を取り出す。画面が青白く顔を照らす。起動音が響かない。
指紋認証。待つ。一秒。二秒。読み込みバーが動かない。背筋が凍る。
「接続できない。遮断だ」
端末を鞄にしまう。音を立てずにファスナーを閉める。耳を澄ます。
エンジン音が遠くで唸る。靴音がコンクリートを叩く。右から。左から。
鞄を肩に掛け直す。腰を落とす。駐車場の柱を盾にする。呼吸を殺す。
目印の白色ワゴンを見つける。鍵は泥除けの裏。手探りで探る。金属の冷たさ。
鍵を差し込む。回す。音一つ立てずにドアが開く。中に滑り込む。
エンジンをかける。ライトは消したまま。ハンドルを握る。手に汗がにじむ。
車の座席が背中に食い込む。迂回路を選んだ。\
ハンドルを握る指が白くなる。支店へ向かう通常ルートを捨てた。\
脇道に入る。速度を落とす。ミラーを確認する。一台、二台。
後続車が同じ曲がり角を選ぶ。灰色のセダン。間隔を保つ。\
信号で止まる。セダンも止まる。エンジン音が低く唸る。\
胸が締め付けられる。右手でギアを探る。
「尾行だ」
アクセルを踏む。車が飛び出す。次の路地に突っ込む。\
セダンが追う。距離が縮まる。ミラーにヘッドライトが迫る。\
ハンドルを切る。タイヤが軋む。細い道へ逃げ込む。
路地裏を縫う。ゴミ箱をかすめる。金属音が響く。\
振り返る。セダンが減速する。道幅が狭すぎる。\
その隙に右折する。住宅街に潜り込む。
路肩に停める。エンジンを止める。息を詰めて待つ。\
十秒。二十秒。セダンは現れない。\
後ろを確認する。空だ。尾行を振り切った。
手が震える。ハンドルから離す。深く息を吸う。\
今のルートは使えない。林への接触計画を練り直す。\
秘密セルの再編成。支店長としての振る舞い。全てを同時に進める。
再びエンジンをかける。別の迂回路を頭に描く。\
まずは支店へ。表の顔を演じる。その裏で糸を紡ぐ。
支店の駐車場が見える。灰色のセダンが角に待機している。ハンドルを握り直す。指先が冷たい。
路地にバックする。タイヤが路肩を擦る音だけが響く。別の場所が必要だ。\
心臓が肋骨を打つ。九拍。十拍。呼吸が浅くなる。
「計画変更。第一待機地点へ」
車を走らせる。市街を抜ける。郊外の倉庫街へ向かう。ミラーを絶えず確認する。\
埃っぽい倉庫前に停める。鍵を開ける。中は薄暗い。コンクリートの床が冷たい。\
持ってきたバッグを開ける。中身を並べる。
シグサウエルのスライドを引く。弾倉を確認する。十五発。薬室は空だ。\
医療キットの密封を確かめる。衛星電話の電源を入れる。接続インジケーターが点滅する。\
ノートPCを起動する。暗号化ソフトが立ち上がる。新しい連絡網の構築画面を開く。
「佐藤の漏洩範囲はまだ不明。全ての通信を再設定する」
指がキーボードを叩く。一つ一つ、新しい暗号鍵を生成する。額に汗がにじむ。\
肩の筋肉が石のように固まる。首を回すと軋む音がする。\
携帯電話の電源を切る。バッテリーを抜く。物理的な遮断だ。




