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第31話 美咲を巻き込まない

 スマートグラスの端が微かに震える。佐藤からの暗号メッセージだ。


『監視カメラ、動作確認。録画データは、外部サーバーへ自動送信』


 指で机の下を探る。極小の発信機を張り付ける。壁側、目立たぬ位置に。


「…支店長?この数値について、ご見解は?」


 財務部長が尋ねる。彼の目がこちらの顔を捉えている。


「想定の範囲内だ。今月は調整を加えれば問題ない」


 声は平然と出る。舌の根が乾いてひりつく。


「では、次は経費の詳細を」


 プロジェクターの画面が切り替わる。数字の羅列が踊る。


 私は時計を見る。打ち合わせ開始から七分。あと三分で切り上げる。


 スマートグラスが再び震える。


『外部サーバーの送信先を解析中。中国・深セン市のIPアドレスを確認』


 拳が机の下で固くなる。爪が掌に食い込む。


「…支店長?どうかされましたか?」


「いや。少し、胃の調子が」


 手でみぞおちを押さえる。演技だ。汗は本物だ。


「では、簡潔に済ませましょうか」


「悪いな」


 プロジェクターの電源が切れる。財務部長が書類をまとめ始める。


「残りはメールで共有する。ご検討を」


「ありがとう。助かる」


 立ち上がる。膝が軋む。ふらつく演技を一瞬入れ、机に手をつく。


「大丈夫ですか?」


「少し休めば治る。失礼する」


 ゆっくりとドアへ向かう。背中に三人の視線を感じる。


 廊下へ出る。足を速めない。規則正しい歩幅で執務室へ戻る。


 ドアを閉める。鍵をかける。


 その瞬間、膝の力が抜ける。背中をドアに預ける。冷たい感触が汗で湿ったシャツに染みる。


 スマートグラスを叩く。


「佐藤。カモフラージュは完了した。次は囮の準備だ」


『了解。偽の避難計画書は作成済みです』


「林の目に触れさせるため、わざと漏らせ」


『リスクを承知で』


「ああ。全ては七十二時間のためだ」


 窓の外を見る。黒い車が、また同じ位置に停まっている。


 こちらの動きは、全て筒抜けだ。


 ならば、わざと見せてやる。本当の手の内は、絶対に。 衛星電話の重さがポケットを引きずる。元々予定していた書類への署名など、もはや何の意味もない。\

 私は第三の通信室のドアを閉める。外の音が遮断される。


「佐藤、第三の連絡点の起動を最終確認しろ」\

『衛星回線、確立済み。暗号化プロトコル、稼働中です』\

 端末の画面が青白く光る。一回限りの通信路が、林の網を迂回して直接、佐藤とを結ぶ。


「新たな極秘連絡網の構築を開始する。起点はこの端末、結点はお前だけだ」\

『従来の全チャネルは?』\

「破棄だ。林が関与するものは、一切使わない」\

 胸の鼓動が耳の中で鳴る。時間の感覚が歪む。


「最初の指令だ。在留邦人リストの真偽を、第三の連絡点のみで再検証せよ」\

『医療情報を含む全項目を?』\

「ああ。林経由のデータは、全て汚染されている可能性が高い」\

 指で仮想キーボードを叩く。新しい暗号鍵を生成する。


「次の指令。基隆港以外の緊急脱出ルートを、この暗号鍵で選定しろ」\

『船舶の手配は?』\

「第三の連絡点を通じて、直接交渉する。東和の名は使うな」\

 無線機のスイッチを入れる。雑音だけが返る。


「外部からの電波探知を確認。敵は動いている」\

『この通信室の位置は?』\

「もうバレている。だが、構うな。用が済むまで動くな」\

 机の下から極薄の地図を取り出す。台北郊外の私設埠頭に印をつける。


「最終指令だ。七十二時間後、ここに集結せよ。第三の連絡点のみで詳細を伝える」\

『支店長は?』\

「俺は囮になる。林の目をここに釘付けにしておく」\

 息を深く吸う。肺が痛い。


「通信を切る。次は七十二時間後だ」\

『了解しました。生きて──』\

 スイッチを切る。音が途絶える。部屋の静寂が、皮膚に張り付く。\

 これで古い網は断ち切った。新しい網は、ただ一本の衛星回線にかかっている。\

 時間は、既に動き出している。 隠し通路で見た暗号リストが指先に焼き付いている。佐藤との旧連絡網は、もうゴミだ。


「第三の連絡点、起動させろ。今すぐだ」


 腕時計を叩く。液晶が青白く光る。


「従来の周波数は一切使うな。林の耳がついている」


 端末のキーを打つ。新しい暗号鍵が生成される。文字列が冷たい光で揺れる。


「新連絡網のプロトコルを送る。一回限りのパスで受け取れ」


 送信ボタンを押す。一瞬、胸の鼓動が止まる。


『受信確認。暗号化済みで解析開始』


 佐藤の声が雑音を噛み砕く。遠いが確かだ。


「基隆港の裏路地、私設埠頭の座標を暗号化せよ。林の知らない道だけだ」


 地図を広げる。赤い印が、監視の網の目をかすめる。


「船舶の手配は、東和の名を出さずに直接交渉しろ。第三の連絡点だけが繋ぐ」


 無線機のスイッチを切る。従来の回路はもう死んだ。


「次の指示は七十二時間後。それまで沈黙を守れ」


『…了解』


 通信が途切れる。部屋の静寂が、肌に粟立つ。


 これで古い繋がりは断ち切った。新しい糸は、衛星を一つ跨ぐだけの細いものだ。


 窓の外、黒い車がゆっくりと動き出す。こちらの息づかいを探るように。執務室のモニターに夕刻の業務チェックリストが表示されている。一つも手がついていない。


 私は内線のボタンを押し続ける。佐藤の机の電話が鳴り止まない。


「佐藤、今すぐ応答しろ」


 声は低い。喉の奥が焼けつく。


『…支店長?』


「緊急だ。第三の連絡点を起動した場所で会え。今すぐだ」


『何が?』


「林の喫茶店だ。床板の痕跡と隠し通路。全てを共有する」


 受話器を置く。指先が震えている。


 私は執務室のドアを開ける。廊下にいた部下が声をかけようとしたが、無視して歩き出す。


 エレベーターは使わない。非常階段を駆け下りる。足音だけが空洞に響く。


 車のキーを握る。金属が掌に食い込む。


 エンジンが唸る。タイヤがアスファルトを削る。


 スマートグラスに佐藤の位置が点滅する。第三の連絡点だ。


「待っている。全てを話す」喫茶店の床板の擦れ跡が掌に焼き付いている。林の温もりも、コーヒーの香りも全て嘘だった。


 私はエレベーターを降り、執務室へ直行する。巡回も声かけも必要ない。ここにいる平穏な日常は、もう終わっている。


「美咲」


 彼女が書類の山から顔を上げる。目が一瞬、警戒で硬くなる。


「インターン業務は、今日で打ち切りだ。即刻、寮に戻れ」


「え?でも父さん──」


「命令だ。帰れ」


 彼女の唇が震える。それでも頷いた。彼女を巻き込むわけにはいかない。


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