第30話 捕捉された屋上の影
立ち上がる。窓の外、向かいのビル屋上に人影がまた立つ。
「捕捉はされた。だが、今動くしかない」
「次の指示は?」
「七十二時間後、第三の連絡点で待て。それまで、沈め」
ドアへ歩き出す。背中の皮膚が、監視の視線にざわつく。
これで、古い網は全て断ち切った。新しい糸は、俺と佐藤だけが握っている。喫茶店の床板が白く擦り切れていた。林の机の角に触れた指先が、今も冷たい。
私はトイレへ向かう。客の目を避け、便器の裏の壁を押す。コンクリートブロックが滑り、隙間が開く。冷気が顔を撫でる。
懐中電灯の青白い光がダクト内を切り裂く。這って進む。膝と肘が金属にぶつかる。埃の匂いが鼻を突く。
分岐点の真上、監視カメラのレンズが微かに光る。林の目だ。
右の通路は選ばない。南京錠の罠だ。
左の上り坂を進む。排気ダクトの隙間から、支店の裏路地が見える。目印だけを脳裏に刻む。
引き返す。監視カメラのレンズがゆっくりと追ってくる。背筋が凍る。
ダクトを出る。ブロックを戻す。手を洗う水の冷たさだけが現実を繋ぐ。
店内に戻る。林はもういない。コーヒーカップが一つ、湯気も立てずに置かれている。
「……用は済んだ」
呟く声も枯れている。ドアを開ける。風鈴は鳴らない。
歩き出す。背中に視線を感じる。百歩、角を曲がる。
スマートグラスを叩く。緑の文字が走る。
「佐藤。第三の連絡点で待機しろ。新たな網を、今から紡ぐ」電話機の受話器が冷たい。主要取引先との会議は、十分後に始まるはずだった。
私はスケジュールを消す。指が震えずに動く。
「佐藤、今すぐ会え。場所は第三の通信室だ」
声は平然と出る。胃の裏側が氷で張り付く。
『支店長?でも十時から──』
「キャンセルしろ。全ての予定を白紙に戻す」
無線を切る。モニターのカウントダウンが71:15:22を示す。
廊下へ出る。足音だけが規則正しく響く。誰も疑わない平穏な顔で。
通信室の鍵を回す。中は暗い。佐藤が一人、端末の青白い光に浮かび上がる。
「林を切る。今すぐだ」
「しかし医療ルートは──」
「彼の情報は全て罠だ。喫茶店の床が証拠だ」
私は壁のコンセントを外す。配線の奥から極細のコードを引き抜く。
「これが新しい網の起点だ。衛星経由、一回限り」
佐藤の息が止まる。彼の目がコードを追う。
「お前が直接、現地の漁港へ行け。東和の名は使うな」
「私が?」
「ああ。俺は囮になる。林の目を引きつけておく」
胸の鼓動が早すぎる。肋骨が軋む。
「連絡手段は、これだけだ」
使い捨て端末を一枚、テーブルに滑らせる。
「起動は今夜、二十三時。それまで動くな」
「…了解しました」
「生きて戻れ、佐藤」
ドアを開ける。背中に彼の固い視線を感じる。
これで、古い糸は切れた。新しい糸は、ただ一本。電話機の受話器が冷たい。主要取引先・新光半導体との電話会議は五秒後に始まるはずだった。
私はスケジュールを手で消す。インクが滲む。
「佐藤、今すぐ会え。第三の通信室だ」
声は低く出る。胃の裏側が氷を張る。
『十時からの会議は?』
「こちらの都合で延期と伝えろ。システム障害と」
無線を切る。モニターのカウントダウンが71:15:22を刻む。
廊下へ出る。足音だけが規則正しい。誰も疑わない平穏な顔で。
通信室の鍵を回す。中は暗い。佐藤が端末の青白い光に浮かぶ。
「林を経由する情報を、今すぐ隔離せよ」
「検証プロトコルは?」
「第三の連絡点で新規構築する。全データを二重に検証しろ」
壁のコンセントを外す。配線の奥から極細のコードを引き抜く。
「これが新しい網の起点だ。衛星経由、一回限り」
佐藤の息が止まる。彼の目がコードを追う。
「医療情報も避難ルートも、林ルートを一切通すな」
「代替手段は?」
「俺が直接、聖心病院の李と接触する。お前は漁港へ向かえ」
胸の鼓動が早すぎる。肋骨が軋む。
「連絡はこれだけだ」
使い捨て端末をテーブルに滑らせる。
「起動は今夜、二十三時。それまで動くな」
「…了解」
「生きて戻れ」
ドアを開ける。背中に彼の固い視線を感じる。
これで古い網は断ち切った。新しい糸は、ただ一本。社内メールの一覧がモニターに並ぶ。どれもが平凡な業務連絡だ。しかし、一つだけ差出人が偽装されている。構文の癖が林と一致する。
私はそのメールを開かない。既読にならないよう、プレビューだけを凝視する。一行目の挨拶文に、三つの句点が不自然に散らばっている。
「…佐藤」
『はい』
「標的のメールを発見した。偽装送信者、林の可能性が高い」
『内容は?』
「開いていない。お前の端末で隔離解析を頼む」
キーボードを叩く音が短く響く。掌に冷や汗がにじむ。
『メールヘッダーを解析。中継サーバーが台北市内の特定地域を経由』
「場所を特定しろ」
『…林の喫茶店のIPアドレスと一致します』
息を深く吸う。肺の底がひりつく。予想通りだった。
「このメールを踏み台に、逆探知プログラムを仕掛けろ。送信元の真の位置を割り出せ」
『リスクが高い。敵に探知される可能性が』
「構わない。俺たちの位置はもう筒抜けだ。ならば、こちらの手の内も一枚、見せてやる」
モニターのカウントダウンが71:10:05を指す。時間の砂は容赦なく落ち続ける。
「もう一つの作業だ。避難計画関連の書類を、この場で処分しろ」
『物理的な破棄ですか?』
「ああ。シュレッダーは使うな。完全焼却だ」
金庫から書類の束を取り出す。表紙には「東和物産 緊急時対応要領」とある。全てが偽装だ。本当の計画は、俺の頭の中だけにある。
ライターの火が紙の端を焦がす。炎がじわりと広がり、文字を飲み込んでいく。熱が顔に迫る。監視カメラの赤いLEDが、通路の暗がりに一つ、微かに光っている。林が設置した第三の目だ。
私は財務部の書類を手に、会議室へ歩き続ける。足音だけが規則正しい。心臓の暴れる音を打ち消すためだ。
「お待たせ」
ドアを開ける。中に三人。財務部長と部下、それに記録係だ。
「早速、先月の業績から確認を」
財務部長が口を開く。数字の列がプロジェクターに映し出される。
私は頷く。視線は書類の上にある。だが、耳はドアの外に張りつけている。廊下の気配を聞き分ける。
「…以上が売上高。次に、経常利益の内訳ですが」
部長の声が流れる。内容は全て既知だ。月次報告など、今はどうでもいい。




