第29話 生存確率四割の新ルート
声をかける。視線は床から離さない。
「問題ない。ただ、机がきれいになってた。あなたの仕事か?」
林の声が背後のキッチンから聞こえる。
「そうだ。整理してみた」
「整理した?理由は?」
振り返る。林は手拭いを弄っている。目はこちらの顔を見つめている。
「机の角が気になったんだ。傷みそうで」
「机の角か。なるほど」
林の視線が一瞬、床の擦り切れた部分へ流れる。
「君は角を気にするか」
「気にする。特に、長く使ってる机ならな」
林がゆっくりと頷く。それからキッチンへ戻る。
胸の鼓動が早すぎる。吸気が浅く、肺の底まで届かない。午後の業務など、もうどうでもいい。
私はトイレへ向かう。ドアを閉め、便器の裏の壁を押す。コンクリートブロックが滑り、隙間が開く。
冷たい空気が顔を撫でる。隠し通路の闇だ。
懐中電灯を点ける。青白い光が、金属のダクト内を照らし出す。壁には無数の擦り傷。埃が舞う。
這って進む。十メートルほどで道が二又に分かれる。分岐点の真上に、小さなレンズが光っている。監視カメラだ。
林は、全てを知っていた。
右の通路を選ぶ。出口に金属の格子戸。外から南京錠がかかっている。一方通行の侵入路。罠だ。
引き返す。分岐点の手前に、壁に埋め込まれた金属板を見つける。脱出指示板だ。
指で埃を拭う。近隣の詳細な地図。待ち合わせ場所の指示。暗号化された連絡先。
その連絡先の一つが、佐藤からの第三の連絡点のものと一致する。しかし、別の一つは見知らぬコードネーム。
スマートグラスで写真を撮る。無音モードの僅かな振動がこめかみに響く。
データを送信する。佐藤へ。第三の連絡点経由で。
『受信確認。新たなコードネームを解析開始』
返信が震える。心臓が肋骨を打つ。
私は再び這い始める。入り口へ。林の声が、すぐ外で聞こえる。
「……そうか。ならば、後は任せた」
誰かと話している。声は低く、緊迫している。
息を殺す。ダクトの隙間から覗く。林の背中が見える。彼は小型の無線機を耳に当てている。
「了解だ。『龍の爪』は、確かに動く」
その言葉が、ダクト内に冷たく響く。胃が氷塊に変わる。
林は無線機をしまう。ゆっくりとキッチンへ戻っていく。
私は静かに、ダクトから這い出る。トイレのブロックを元に戻す。
手を洗う。鏡の自分の顔が青白い。瞳孔が開ききっている。
喫茶店の店内へ戻る。林はカウンターでコーヒー豆を挽いている。何事もなかったように。
「ああ、結城。遅かったじゃないか」
「少し、調子が悪くてな」
「大丈夫か?顔色が悪いぞ」
「気のせいだ。さて、そろそろ戻るとするか」
私はゆっくりとドアへ向かう。背中の皮膚が、林の視線で焼ける。
外へ出る。午後の日差しがまぶしい。
歩き出す。角を曲がり、スマートグラスを叩く。
「佐藤。新たなコードネームは?」
『解析完了。コードネーム『影武者』。対応する周波数は、中国軍のものと一致します』
「……つまり、この指示板は」
『敵が設置した偽物です。林の喫茶店は、完全に監視と罠の拠点です』
足が止まる。視界が一瞬、揺らぐ。
「全てを破棄しろ。新しい計画は、俺とお前だけの頭の中で作る」
『了解』
息を深く吸う。肺がひりつく。
証拠は揃った。手がかりは掴んだ。これでやっと、本当の戦いが始まる。カウンターの角に立つ。林の視線が背中を焼く。
「机の角、手入れは終わった。もう用はない」
声を平らに出す。喉の奥が砂のように乾く。
「そうか。なら、気をつけて帰れ」
林の返事が鈍い。手はコーヒーカップを拭き続けている。
トイレのドアを閉める音だけが大きく響く。便器の裏の壁を押す。コンクリートブロックが滑る。
冷気が顔を覆う。懐中電灯の青白い光がダクト内を切り裂く。
這う。膝と肘が金属にぶつかる音が、自分の鼓動を打ち消す。
分岐点の真上、監視カメラのレンズが微かに光る。林の目だ。
右の通路は選ばない。南京錠の罠は通らない。
左の上り坂を選ぶ。排気ダクトの細い隙間から外光が漏れる。
頭を上げる。わずかな隙間から、支店の裏路地が見える。
出口はない。だが、目印はできた。
後ずさる。監視カメラのレンズが、ゆっくりとこちらを追う。
ダクトを出る。ブロックを戻す。手を洗う水の冷たさだけが現実だ。
店内に戻る。林はもういない。カウンターにコーヒーカップが一つ、湯気も立てずに置かれている。
「……さよならだ、林」
呟く声も枯れている。
ドアを開ける。風鈴も鳴らない。
歩き出す。背中に監視の視線を感じながら、まっすぐに支店へ向かう。暗号化メモの整理など、もはや無意味だ。林の喫茶店で見たものは証拠だった。
「佐藤、真の協力者のみを緊急招集しろ。場所は第三の通信室だ」
端末に叩きつけるように命令する。指先が冷たい。
『参加者は?』
「お前と伊達だけだ。他は全て遮断しろ」
執務室のモニターを消す。在留邦人リストの赤い点が視界に残像を焼き付ける。
カウントダウンは71::34。時間の砂が音を立てて落ちている。
扉を閉める音が廊下に響く。足音は一つ、確かな歩幅で通信室へ向かう。支店業務の確認など、もはや意味をなさない。林の喫茶店で見た擦り切れた床板が全てを物語っている。
私は執務室のモニターを消す。在留邦人リストの赤い点が視界に焼き付く。
「佐藤、第三の連絡点を起動しろ。今すぐだ」
「了解。衛星回線、暗号化済み」
「医療情報の収集は、旧ルートを全て破棄せよ。林経由のデータは、毒だ」
「代替手段は?」
「第三の連絡点のみを使う。東和物産の立場は一切捨てろ」
無線機のスイッチを入れる。雑音だけが返る。敵の電波妨害が始まっている。
「連絡網、応答なし。外部からの遮断を確認」
「ならば、受信だけ続けろ。俺たちの声は、もう出さない」
机の下から極薄タブレットを取り出す。新しい避難ルートの地図が展開される。
「基隆港は敵のものだ。ここの小さな私設埠頭を使う。林の知らない道だけを」
「船舶の手配は?」
「第三の連絡点を通じて、直接交渉する。東和物産の名は出さない」
胸の鼓動が早すぎる。息を整えようとしても、肺が浅くしか膨らまない。
「佐藤、お前の評価を聞く。この新ルートの生存確率は」
「……四割。敵が全てを察知した場合、ゼロ」
「それで十分だ。勝つか死ぬか、それだけだ」
タブレットの電源を切る。引き出しの奥に隠す。




