第41話 春雷の予備回線
受話器の向こうで息が詰まる。腕時計の針は十時四十七分を指す。
「新たな連絡網を確立せよ。手順を」
『支店の予備回線を使え。周波数467.2MHz。暗号鍵「春雷」だ』
「了解」
『港の第三埠頭。青い漁網が三つ重なった標識。合言葉は「桜は散ったか」』
「返答は?」
『「まだ蕾だ」』
電話を切る。林を見下ろす。
「陳は美咲をどこに?」
「…分からない。港の近くの倉庫、とは」
「証拠のファイルは」
「店の金庫だ」
彼がポケットから鍵を取り出す。震える手が床に落とす。
「拾え」
彼はうつむいたまま動かない。
「お前はここに残れ」
「重則…」
「動くな。次の弾丸はお前の頭だ」
背を向ける。裏口のドアを開ける。
朝の光が血の匂いを照らす。掌に汗が滲む。机の上の電子レンジが温めた弁当は手付かずだ。伊達が窓のブラインドの隙間から外を覗いている。背筋が硬直している。
「清掃員の配置が変わった。三人から五人だ。しかも全員が携帯を握っている」
心臓が肋骨の裏で暴れる。口の中が砂のように乾く。
「いつから」
「十分前からだ。明らかに待ち伏せの配置」
胃が締めつけられる。吐き気が喉まで上がる。
「連絡待機は?」
「佐藤からの通信は三十分途絶えている。計画通りなら五分前には確認が入るはずだ」
伊達がサイドテーブルから拳銃を抜く。金属の冷たい音。
「ここはもう危険だ。即時離脱だ」
弁当をそのまま置く。蓋の上に湯気の水滴が光る。
「セーフハウスへ移動する。用意は」
「常に整っている。地下の非常口から」
ザックを背負う。肩の食い込みが痛い。
「昼食は諦めろ。生存が最優先だ」
伊達が壁の絵をずらす。暗い通路の入口が現れる。
「行け。私が後を追う」
一歩、通路の闇へ踏み込む。冷たい空気が肺を刺す。
背後で絵が元に戻る音。最後に伊達の声が微かに聞こえた。
「連絡はセーフハウスで待て」非常用セーフハウスのドアが閉まる音が、コンクリートの壁に反響する。埃の匂いが鼻腔を刺す。肩のザックを下ろし、床に置く。重さから解放された肩が疼く。
「ここが最後の砦か」
伊達が懐中電灯を点ける。白い光が無機質な空間を撫でる。鉄パイプのベッド。机。積まれた水のボトル。
「通信環境を確認する。まずは衛星回線だ」
衛星電話を取り出す。起動する。認証プロンプトが光る。指が震える。コードを打ち込む。
『接続完了』
小さな文字が表示される。ほっとする間もなく、次の作業が頭を支配する。
「連絡待機体制を整える。優先順位を決めろ」
伊達が机の上に地図を広げる。赤と青の印が散らばる。
「まずは佐藤の動向。次に林の真意。そして『蒼い鳥』の生存確認だ」
「了解。こちらの監視網を再構築する。使える情報源は三つだけだ」
胃が締めつけられる。空腹ではない。緊張が臓器を歪ませる。
「一つ目は、軍OBネットワークの予備回線。二つ目は、商社の緊急用サテライト。三つ目は…」
言葉が詰まる。伊達の目が問う。
「三つ目は?」
「…美咲のスマートフォンの位置情報だ。最後に捕捉された地点を追う」
声が掠れる。父親としての情が、戦術家の冷静さを蝕む。
「危険だ。誘導される」
「分かっている。それでも使う」
鞄からノートPCを取り出す。起動する。暗号化ソフトを立ち上げる。
「まずは生存信号を送る。本土に『作戦継続中』と」
「了解。こちらの周波数で送信する」
伊達が無線機のダイヤルを回す。電子音が低く響く。
「次に、このセーフハウスの安全確認だ。出入り口。通気口。非常脱出路」
立ち上がる。足が重い。壁を伝いながら部屋の端へ歩く。
通気口の格子に手を触れる。埃が付かない。新しい。
「…ここも使われている」
「掃除の痕跡か?」
「そうだ。だが、誰が?」
背筋が冷たい。信頼できる場所は、もうどこにもない。
机に戻る。水のボトルの蓋を開ける。液体が喉を通る。冷たいが、渇きは癒えない。
「連絡待機リストを作成する。接触可能な協力者を洗い出せ」
伊達がメモを渡す。五つの名前。そのうち二つには既に×印が付いている。
「あと三人か」
「しかも、信頼度は低い」
「それでも使う。選ぶ余地はない」
ノートPCのキーを叩く。暗号化されたメッセージを起草する。
『状況報告。場所は安全圏。林、接触不能。佐藤、行方不明。『蒼い鳥』、確認待ち。次の指示を乞う』
送信ボタンを押す。プログレスバーがゆっくりと進む。
「返信を待つ間、緊急計画の再構築だ。喫茶店が使えぬなら、次の集結地点は?」
「第四埠頭の廃倉庫しかない。しかし、林がその情報を知っている可能性は高い」
「ならば、第五の選択肢を作る。ここから直接、沖合へ脱出するルートは?」
伊達の指が地図を滑る。基隆港の外洋を指さす。
「小さな漁港がある。監視の目は薄い」
「アクセス方法は?」
「陸路で三十分。だが、途中にチェックポイントが三箇所」
頭が痛む。視界の端がちらつく。
「リスクを評価しろ。通過可能か」
「可能性は四割。発見されれば包囲される」
無線機が短く鳴った。返信だ。
メッセージを解読する。文字が浮かび上がる。
『本土より。待機継続を指示する。追加情報、二十四時間以内に送付。決して動くな』
拳を握る。指の関節が白くなる。
「動くな、か」
「命令だ」
「命令が、今まで何の役に立った?」
伊達が黙る。その沈黙が全てを物語る。
「俺たちは、もう命令に従う立場にはない。生きて、ここを出る。それだけだ」
「…次はどうする?」
「連絡待機を継続する。だが、待っているだけではない」
ノートPCを閉じる。衛星電話をベルトに装着する。
「安全確認を終えたら、即時移動の準備に入る。次の接触が来るまでに、ここの痕跡を消す」
「了解」
ベッドのシートを剥がす。机の埃を払う。自分たちがいた証拠を、一つずつ消していく。
心臓が重い鼓動を打つ。時間だけが過ぎていく。待つことの焦燥が、皮膚の下で燃える。
窓のない壁を見つめる。ここには、昼も夜もない。ただ、次に動く瞬間を待つ闇だけがある。
「次は俺が決める。誰の命令でもない」
声は、コンクリートの壁に吸い込まれた。弁当の蓋を開けたままにした。電子レンジの温め直しの音が止まった。伊達が窓のブイラインドの隙間から覗いている。背筋が弓のように張り詰めている。
「外にいる。清掃員の数が増えた。全員が携帯を握っている」




