第26話 風鈴の濁る音
緊急信号に応答する。自動返信を設定する。冷えた弁当の残りを口に押し込む。
「会合には、伊達も呼べ。ただし、林のことは一切話すな」
『伊達さんも怪しい、と?』
「わからん。だが、信用できるのは今、お前だけだ」
衛星電話のバッテリー警告が点く。温もりが急速に冷める。
「通信を切る。二十三時を待て」
『了解』
音が途切れる。部屋の静寂が、急に厚くなる。
弁当の空容器をまとめる。手がわずかに震えている。
複数の通信端末を監視し続ける。目がしみる。在留邦人リストの赤い点は、消えていない。 弁当の冷ややかな重さが手に残る。箸先が震えた。
スマートグラスの奥で、佐藤の応答が待ち受けている。
「確認した。隠し通路の存在は、疑いの余地がない」
『通路は使用されているのか』
「床板の擦れ跡だ。長期間の往復で、表面が滑らかになっている」
弁当のご飯を一口。味がしない。
『林の関与は?』
「彼が設置した可能性が高い。あるいは、少なくとも知っていた」
喉が渇く。水筒の蓋を開ける手が滑る。
『三叩きの意味は?』
「合図だ。出入りの確認。あるいは、監視の始動を」
冷たい水が食道を下る。胃が縮む。
『では、計画は?』
「即時、変更だ。林を経由する全てのルートを遮断せよ」
『避難ルートは?』
「新たに構築する。第三の連絡点のみを使用して」
スマートグラスが微かに震える。新たな信号だ。在留邦人リストから。
「今夜、二十三時。松山の廃工場で再始動する」
『了解』
通信が切れる。弁当の残りが、急に目に入る。
私は箸を置く。腹は空いていたが、もう受け付けない。
「佐藤」
『はい』
「お前の評価を聞かせろ。客観的にだ」
『……林は、もはや味方ではない。通路の発見は、彼の関与を証明する』
「確信度は」
『九割』
机の上で拳を握る。爪が掌に食い込む。
「よろしい。では、実行だ」
『連絡網の再構築を開始します。避難ルートの選定も併せて』
「即時報告せよ」
『はい』
通信が完全に途切れる。部屋の静けさが重い。
窓の外を見る。黒い車はもういない。
ただ、午後の日差しだけが、台北の街を静かに焼いていた。弁当のご飯が冷えていた。味噌汁の表面に膜が張る。
スマートグラスが震える。在留邦人リストの赤い点は、依然として病院で光ったままだ。
『邦人、一名。応答不能。救急搬送後、消息不明』
箸を置く。喉が詰まる。
「佐藤、林の現在位置は」
『喫茶店を出て、西方面へ。車両使用。目的不明』
「追跡するな。第三の連絡点だけを監視しろ」
弁当箱を閉じる。手の平に冷たい脂汗がにじむ。
机の引き出しから、極薄のタブレットを取り出す。電源を入れる。
カメラアプリを起動する。喫茶店の隠し通路付近の、床板の接写画像が並ぶ。
擦り切れた木目。色の違い。継ぎ目の微妙な段差。
指で拡大する。その痕跡が、規則的な往復によるものだと確認できる。
「証拠写真、全データを暗号化。佐藤へ送信せよ」
タブレットが微かに温む。送信バーが進む。
『送信完了。佐藤からの応答、待機中』
「待たずに次の手を打て。新連絡手段の具体案を起案しろ」
『林を排除した場合の、代替ルートは?』
「基隆港の別ルート。知っている者は、俺とお前だけだ」
タブレットの画面に地図が表示される。港の裏手の、小さな私設埠頭が赤くマークされる。
「ここだ。極秘に確保せよ」
『了解。連絡手段の具体案は?』
「衛星電話の乱数発信。毎日、特定の広告電波に載せた暗号。一度限りの使い捨て端末」
指が仮想キーボードを駆け抜ける。文章が並ぶ。
『作成中。五秒』
胸の鼓動が耳朶を打つ。五、四、三、二、一。
『完了。暗号鍵付き。佐藤へ転送』
「よし」
スマートグラスが激しく揺れる。警告音が低く響く。
『注意。周辺の電波探知が、三十秒前から急増。指向性アンテナ、三基確認』
「発信源は」
『当支店の建物を、中心としている』
タブレットの電源を切る。引き出しの奥に押し込む。
立ち上がる。窓辺へ歩く。カーテンの隙間から外を見下ろす。
向かいのビル屋上に、小さな人影が一つ。三脚を立てている。
「……捕捉されたか」
拳を握る。爪が掌に食い込む痛みだけが、現実を保つ。
「佐藤」
『はい』
「新連絡手段の起草案を、即時実行に移せ。今すぐだ」
『今ここで?』
「ああ。探知されようが構わん。まずは網を張り直す」
深く息を吸う。肺の底がひりつく。
「次の指示は、七十二時間後。場所は、新たに知らせる」
スマートグラスの電源を切る。視界が普通の部屋に戻る。
ただ、心臓の鼓動だけが、この静寂を打ち破り続けている。指先が机の上を滑る。スケジュール帳の午後の欄には、支店業務の確認と調整が並んでいる。\
心臓が肋骨の裏側で早鐘を打つ。鼓動が喉まで上がってくる。
「佐藤」\
『はい』\
「林を経由する情報源を、全て遮断しろ。今すぐだ」\
『完全にですか』\
「疑いの余地はない。喫茶店の床が物語っている」\
左手で胸を押さえる。心臓の暴れる位置を確かめる。
「新たな避難計画の策定を開始する。基隆港以外の全ルートを見直せ」\
『時間がありません』\
「七十二時間あれば十分だ。第三の連絡点だけを繋げ」\
息を吸う。吐く。吸気が浅く、肺の底に届かない。
「極秘連絡の確立は済んだか」\
『衛星経由の一回限り回線、確立済みです。暗号鍵は先ほどのもの』\
「よし。これで林の目を欺ける」\
スマートグラスが揺れる。在留邦人リストの赤い点が、一つ消える。
「次の会合は今夜だ。それまで、全ての動きを止めろ」\
『了解しました』\
通信を切る。部屋の静寂が、皮膚に張り付く。\
スケジュール帳の午後の欄を、黒のペンで全て塗りつぶす。
「業務優先順位は、一つだけだ」\
囁く声が、乾いた喉で軋む。\
「生きて帰ること。それだけだ」膝が机の角に当たる。振り返る。林がカウンター越しに見つめている。
「忘れ物か?」
「いや。床の傷みが気になっただけだ」
立ち上がる。背筋に冷たい汗が伝う。
「そろそろ戻る。支店に書類が山積みだ」
「急ぐな。もう一杯、如何?」
「悪いが、午後の業務がある」
足を運ぶ。床板の擦れ跡が、足裏を通して伝わる。
ドアを開ける。風鈴が一音、濁る。
「結城」
振り返る。林はカウンターの中で動かない。




