第25話 病院からの赤い信号
「……では、そろそろ本題に戻そう」
声を張る。全員の背筋が伸びる。
「先ほどのBプロジェクト、だが……」
話を続けながら、ポケットの中の端末に指を這わせる。
ボタンを一度押す。内蔵バッテリーが微かに震える。
これで合図は送れた。佐藤は動き始める。 第三の連絡点からの応答が胸の奥に刺さる。佐藤の端末が青く光ったままだった。\
「受信確認。72時間。待機」\
その文字が視界に焼き付く。私はゆっくりと会議室のドアを開けた。\
中は空っぽだ。午前中の打ち合わせは、もはや形だけのものになっていた。
「新連絡網の構築を急げ」\
佐藤の息遣いが荒い。彼の額に脂汗が光る。\
「林を経由するルートは、全て汚染されている」\
窓の外を見る。路上に黒い車は見えない。\
「第三の連絡点だけが繋がる。衛星経由の一回限りだ」
「伊達からの連絡は?」\
佐藤の声が震える。\
「無視しろ。彼も危ない」\
ポケットの端末が熱を持つ。バッテリー残量が減り続ける。\
「次は今夜、松山の廃工場だ。そこで新しい網を紡ぐ」
「今すぐ動くべきか」\
「動くな。いつも通りにしていろ」\
私はドアへ歩き出す。背中に彼の視線を感じる。\
「疑われるな。これが最後の隠れ蓑だ」
廊下の冷気が首筋を撫でる。皮膚が粟立つ。\
執務室のドアまであと十歩。足音だけが規則正しく響く。\
カウントダウンは、もう戻せない。 腹が鳴る。しかし喉は渇いている。唾を飲み込むと喉が痛い。
机の上に昼食の弁当が開かれている。箸は手に取っていない。
窓の外を見る。路上に一台の黒い車が停まっている。三十分前から同じ位置だ。
スマートグラスが揺れる。新たな文字が流れる。
『佐藤、第三連絡点から応答なし。三回試みた』
「……何時から」
『十一時四十分。最後の通信から二十分』
弁当の蓋を閉じる。ご飯の匂いが急に嫌になる。
「待機を続けろ。決して動くな」
『支店長、これは──』
「命令だ」
無線を切る。周囲の物音が急に大きくなる。
胸の鼓動が耳を塞ぐ。右手の指先が冷たい。
カーテンを閉める。部屋が薄暗くなる。
机の引き出しを開ける。奥から折り畳み式の端末を取り出す。
スイッチを入れる。画面が青白く光る。接続アイコンが点滅している。
『接続試行中…』
三秒。五秒。十秒。
アイコンが赤に変わる。『失敗』の文字が浮かぶ。
端末を置く。手の平に汗がにじむ。
また外を見る。黒い車が動き始める。ゆっくりと走り去る。
それと同時に、スマートグラスが震える。
『佐藤、応答あり。暗号化された位置情報を受信』
「内容は」
『松山の廃工場。今夜、二十三時。追加で──警戒レベル最高』
息を深く吸う。肺が痛い。
「了解した。次は七十二時間後だ」
『支店長、林の件は?』
「無視しろ。全ての連絡は第三経由のみだ」
無線を切る。部屋の静寂が重くのしかかる。
弁当の蓋を再び開ける。冷めた野菜が色を失っている。
箸を取る。一口、口に入れる。味がしない。
咀嚼する。嚥下する。ただの作業だ。
スマートグラスがまた揺れる。今度は内線だ。
「支店長、陳様がお越しです。至急の用件と」
箸を置く。喉の奥で食べ物が詰まる。
「応接室に通してくれ。すぐに向かう」
立ち上がる。膝が軋む。
ドアへ歩く。足取りだけは確かに。 弁当の蓋を閉じる。ご飯の冷めた匂いが鼻を刺す。
スマートグラスが揺れる。緑の文字が走る。
『林、喫茶店を出た。西へ。歩行速度、通常』
「追跡するな。監視だけ続けろ」
声を潜める。ドアの向こうの話し声が聞こえる。
机の上には、午後の打ち合わせ資料が積まれている。一番上には「新光半導体・次期物流協議」とある。
その下から、薄い金属板を引き抜く。
手の平サイズだ。表面は磨かれたアルミ。裏面には微細な回路が刻まれている。
親指で端を押す。カチリと音がする。板が二つに割れる。
中には、SIMカード大のチップが一つ。
「第三の連絡点、起動」
チップをスマートグラスの側面スロットに差し込む。微かな振動がこめかみに伝わる。
視界の隅に、赤い点が現れる。点滅する。
『暗号化回線・確立。送信先:佐藤浩一』
指で空中をなぞる。仮想キーボードが浮かぶ。
「隠し通路、確認。林、関与。新プロトコル、即時発動を」
文字を打つ。一文字毎に、赤い点が早く点滅する。
『送信中…』
胸の鼓動が早すぎる。吸気が浅く、肺の底まで届かない。
送信バーが満たされる。一瞬、赤い点が青に変わる。
『完了。応答待機』
チップを抜く。金属板を元に戻す。資料の山の最下層に押し込む。
スマートグラスが揺れる。今度は内線だ。
「支店長、佐藤課長からです。『資料の誤配信があった』と」
「接続しろ」
クリック音。佐藤の声が直接、鼓膜に響く。
『新プロトコル、受領。暗号鍵は?』
「今日の日付。逆順。三回繰り返せ」
『了解。……完了。回線は清浄』
息を吐く。肩の力が、ほんの少し抜ける。
「次は七十二時間後。場所は未定。待機だけ続けろ」
『林は?』
「触れるな。罠かもしれん」
無線を切る。部屋の静寂が、今だけは重くない。
弁当の蓋を開ける。箸を取る。冷めていても、一口、味がする。弁当のご飯が、歯に張り付く。味も香りもない。冷たさだけが舌に残る。
衛星電話を握る手の平がじんじんと熱い。佐藤の声が雑音を噛み砕く。
『林の裏切り、確実ですか』
「喫茶店の床だ。隠し通路の上を、長期間踏み固めた痕跡がある」
『監視か』
「あるいは、誰かの出入りを記録していた」
弁当の焼き魚を一口。身がぼそぼそと崩れる。
『第三の連絡点は維持します。しかし、新たな会合の場所と時間は』
「今夜、二十三時。台北郊外、第一廃工場。松山區の」
通信端末の画面が一斉に光る。一つが赤く点滅する。在留邦人リストからの緊急信号だ。
『場所を聞きます。連絡手段は?』
「衛星経由の一回限りだ。暗号鍵は、今送る」
指で仮想キーボードを叩く。冷めたご飯を嚥下する。喉がつかえる。
『受領しました。……重則さん、美咲さんは?』
「知らせていない。巻き込むな」
赤く点滅する画面をタップする。位置情報が表示される。市内の病院だ。邦人、一名。心臓発作の疑い。
『彼女も危険に晒されている。林は全てを知っている可能性が』
「だからこそ、動かすな」




