表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/31

第23話 喫茶店の摩耗した床板

 カウンターからキッチンへ。キッチンからカウンターへ。


 だが、通常の業務の動線ではない。この一点だけが、異常に摩耗している。


 その場所の意味を探る。頭の中で店内の見取り図が展開する。


 カウンターの端。キッチン入口のすぐ左。


 ちょうど、隠しダクト扉の真上だ。


 呼吸が浅くなる。胸の鼓動が耳に響く。


 これは通路ではない。待機地点だ。


 誰かが、ここで立ち止まり、何かを待ち続けた。


 あるいは、何かを監視した。


 長い時間をかけて、床板を擦り切るほどに。受付のメモには、新光半導体との打ち合わせが十時半からとある。


 時刻は十時二十分。会議室Aの前まで来た。\

 ノブに手をかける。金属が冷たい。\

 中から声が聞こえる。男の声だ。慣れた口調。


「……あの件、もちろん進めてますよ」


 佐藤の声だ。だが、この時間に彼がここにいる理由がない。\

 指先に力を込める。ゆっくりとノブを回す。\

 ドアが開く。会議室内に三人。


 佐藤が窓際に立つ。書類を抱えている。\

 長テーブルの向こうには新光半導体の担当者、二人。\

 その間に、林が座っている。肘をテーブルにつき、こちらを見上げる。


「おや、支店長。ちょうどよかった」


 林がにっこりと笑う。目尻に皺が寄る。\

 佐藤の顔が硬い。微かに首を振る。


「林さんが、急な打ち合わせがあるとおっしゃって」


 佐藤の声が平板だ。目だけが訴えかける。\

 胸の奥で心臓が一瞬、止まりそうになる。口の中が乾く。


「お邪魔しましたか?」


 林が尋ねる。指でテーブルをコツコツと叩く。


「とんでもない。むしろ助かります」


 歩みを進める。テーブルの主賓席に着く。椅子が軋む。\

 新光の担当者が名刺を差し出す。手順通りに受け取る。


「では、契約書の最終確認に入らせて頂きます」


 書類を開く。文字が霞んで見える。\

 林の視線がこちらの手元を捉えている。脇の下に汗がにじむ。


「特に、第六項の秘密保持条項ですが……」


 新光の担当者が指差す。その先には、先月の物流データ参照条項。\

 林の会社が関与する部分だ。


「ここ、少し曖昧なんですよね」


 林が突然、口を挟む。身を乗り出して書類を覗き込む。\

 彼の肩がこちらの腕に触れる。熱が伝わる。


「具体的には?」


「いや、僕のところのルートが明記されてるけど……」


 林の指が条項をなぞる。爪が紙を擦る音がする。


「万が一の時の責任の所在が、ちょっとね」


 彼がこちらの顔を見る。笑みは消えている。


「林さん、それは前回の打ち合わせで了承頂いた部分では」


 佐藤が割って入る。声にわずかな焦り。


「了承したのは僕じゃない。僕の部下だ」


 室内の空気が張り詰める。新光の二人が息を殺す。\

 時計の針が動く音が、異常に大きく響く。


「……では、この場で修正案を?」


 こちらが口を開く。喉がひりつく。


「いや、いいよ」


 林がさっと背を戻す。両手を上げて、あたかも冗談のように。


「僕の確認不足だった。そのままで結構」


 彼は再び笑顔になる。しかし、目は笑っていない。\

 その瞳が、一瞬だけ佐藤を捉えた。それからこちらへ戻る。


「支店長の用意はいつも完璧だもんな」


 林が立ち上がる。椅子が床を引く。


「私はこれで。あとはよろしく」


 彼は軽く会釈し、ドアへ向かう。\

 ノブを回す。振り返らずに出て行く。


 ドアが閉まる。残された四人の沈黙。\

 佐藤が深く息を吸う。肩が震えている。


「……失礼します。少々、席を外させてください」


 彼は足早にドアを出る。顔色が悪い。\

 新光の担当者がきょとんとした顔をしている。


「では、続けましょう」


 声を出す。手に持ったペンが微かに震えている。\

 書類の文字を追う。しかし、頭には林の最後の言葉がこびりついている。


『用意はいつも完璧だ』


 それは褒め言葉ではない。むしろ、確認だった。\

 俺の『用意』が、彼の『想定』の範囲内にあるかどうかの。 林の椅子がまだ温かい。残された熱がこちらを睨んでいる。


 新光の二人が書類にサインする。ペンの走る音だけが響く。


「では、これで」


 彼らが立ち上がる。握手。手の平が汗ばんでいる。


 ドアが閉まる。同時にスマートグラスが震える。


『廊下、安全。林は退去確認』


 佐藤からの報告だ。息遣いが荒い。


「会議室に留まれ。誰にも開けるな」


 小声で指示する。喉の奥が焼けるように渇く。


 ドアの鍵をかける。カチリという音が空洞に響く。


「何が起きてる?」


 佐藤の顔が青ざめている。額に脂汗が光る。


「林は全てを知っている。あるいは、疑っている」


 テーブルに手をつく。指先が震えるのを押さえる。


「あの条項は罠だ。お前の確認を試すためだ」


「……でも、僕は何も」


「彼はお前の動揺を見た。それで十分だ」


 窓の外を見る。路上に黒い車はいない。


「今すぐに連絡網を切り替えろ。林を経由する一切の通信を絶て」


「手段は?」


「第三の連絡点。既に稼働させてある」


 ポケットから折り畳み端末を取り出す。バッテリー残量は三分の一。


「これを使え。衛星経由の一回限りだ」


 佐藤が受け取る。手が小刻みに震えている。


「次は七十二時間後。基隆港封鎖までに」


「場所は?」


「まだ決めていない。次の通信で指示する」


 ドアをノックする音。三回、間を置いて二回。


「支店長、緊急の電話です」


 受付の声だ。焦りが滲む。


「出てくれ」


 佐藤がゆっくりと頷く。彼の瞳に決意が灯った。


 ドアを開ける。廊下の冷気が流れ込む。


 受付の女性が無線機を持っている。顔色が悪い。


「官邸からの緊急回線です」


 無線機を受け取る。重い。


「もしもし、結城です」


 無線機から漏れる雑音。その向こうで声がする。


『作戦は中止せよ。繰り返す、中止せよ』


 声は聞き覚えがある。伊達だ。


「理由は?」


『上層部の決定だ。これ以上は危険』


 歯を食いしばる。顎の筋肉が痙攣する。


「了解した」


 だけではない。無線機をテーブルに置く。受信ランプが消える。


「佐藤」


「はい」


「伊達も危ない。第三の連絡点のみを信用しろ」


「……わかりました」


 時計を見る。十一時十五分。


 カウントダウンは、既に動き出している。 林が置いたコーヒーカップの跡がテーブルに残る。輪が二重に滲んでいる。


 佐藤の息遣いが耳に届く。浅く、速い。彼の指が端末を握りしめている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ