第21話 最終調整会合の朝
手が震える。紙をめくる。
下からメモが現れる。「/15 05:15 最終調整会合」
今この時刻だ。
背筋が凍る。ここが会合場所だと。
足音が聞こえる。上階からだ。複数の音。
扉を閉める。壁板を元に戻す。段差がぴたりと合う。
収納扉を押し込む。歪みが目立たない角度に調整する。
立ち上がる。膝が軋む。
新しい端末を取り出す。電源を入れる。
暗号化チャットを開く。佐藤へ打つ。
「林は全てを知っている。待ち合わせは即刻変更せよ」
送信。既読がつかない。
待つ。三秒。五秒。
画面が暗転する。電源が落ちた。強制的だ。
上階の足音が近づく。階段を下りてくる。
私は窓へ走る。鍵を開ける。
外の夜気が流れ込む。クラクションが三度鳴る。間隔が正確すぎる。
私は足を止める。耳を澄ます。
また三度。同じ間隔だ。
路地の影に身を潜める。心臓が胸郭を打つ。
車のヘッドライトがゆっくり通り過ぎる。電気自動車の無音。
クラクションが再び三度。今度は遠くで。
記憶が疼く。このパターンを知っている。
「あの日も、そうだった」
陳の尋問室を出た直後。駐車場で同じ音を聞いた。
あれは合図だった。
背筋が凍る。林の喫茶店から三ブロック。まだ圏内だ。
新しい端末を取り出す。電源を入れる。
暗号化チャットを開く。佐藤への接続画面が点滅する。
接続失敗。再試行。
また失敗。圏外表示だ。
「電波妨害か」
クラクションが近くで三度。二台目が通り過ぎる。
規則的なパターン。監視網の位置確認だ。
端末をしまう。ここでは連絡は取れない。
歩き出す。速度を落とさない。
公衆電話を探す。次の角にボックスがある。
中に入る。受話器を上げる。
コインを入れずに佐藤の番号を回す。プルル、プルル。
二回で切る。これで緊急事態を知らせる。
受話器を置く。直後にボックスの外でクラクションが三度。
すぐ近くだ。
ドアを押す。外に男が立っている。スマホを持ったまま。
「電話、故障ですか?」
男の声が平坦すぎる。
「ああ。そうらしい」
私は路地裏へ歩き出す。男がついてくる。
足音が一つ。間隔が一定だ。
次の曲がり角で振り返る。男はスマホの画面を見つめている。
指が三度、タップする。
「監視班だ」
走り出す。背後の足音が急に速くなる。
路地を右に曲がる。左に曲がる。
クラクションが三度。別の方向から。
「包囲網か」
肺が冷気を焼く。港はまだ遠い。
携帯を取り出す。最後の手段だ。
衛星携帯電話の電源を入れる。起動に時間がかかる。
背後で足音が迫る。
「すみません、道を聞きたいのですが」
男の声が冷たい。
私は振り向かずに曲がる。衛星携帯の画面が接続を探す。
ようやく接続完了。佐藤の番号を打つ。
呼び出し音が一度。二度。
背後でクラクションが三度。非常に近い。
「もしもし」
佐藤の声が聞こえる。
「今どこだ」
「支店長?今、倉庫街の……」
背後で金属音がする。男が近づいてきた。
「聞け。林は敵だ。全ての計画は筒抜けだ」
「……了解しました」
「新たな待ち合わせ場所を決めろ。今すぐに」
「では、淡水港の第三埠頭。あと一時間で」
「わかった」
電話を切る。衛星携帯の電源を落とす。
振り返る。男が三メートル先に立っている。
「お疲れ様です。結城さん」
男がゆっくり手を上げる。掌に小さな装置が光る。 非常用マスクの紐が耳に食い込む。ゴムの匂いが鼻を刺す。
懐中電灯の光束がダクトの奥を揺らす。埃が舞う。
奥に分岐点。左は行き止まり。右が続いている。
右へ進む。足下の配管が軋む。
五十メートルほどでまた分岐。今度は三方向だ。
壁に古い矢印。ペンキが剥げている。
その下に新しい刻み目。三本の線。
「合図か」
最も細いダクトを選ぶ。体がやっと通れる幅だ。
這って進む。肘と膝が擦れる。
前方に微かな光。外の街灯だ。
金網の格子がある。外側から南京錠がかかっている。
懐中電灯で照らす。錠の裏側を見る。
シリンダーが二つ。片方はダミーだ。
もう片方を押し上げる。カチリ。
南京錠が開く。音を立てずに外す。
格子を押す。外の冷気が流れ込む。
路地裏に出る。ビルの間の狭い空間だ。
新しい端末を取り出す。電源を入れる。
暗号化チャネットワークを起動する。接続表示が点滅。
「佐藤、聞こえるか」
「支店長。場所は?」
「第一埠頭の裏路地だ。監視網の外に出た」
「了解。そちらへ向かう。二十分後だ」
「待て。直接は危険だ」
「では?」
「緊急連絡網を確立する。単純な方法で」
「具体案を」
「公園の公衆トイレ。男子の三つ目の個室だ」
「了解。何を?」
「鏡の裏に使い捨て端末を仕込む。暗号はいつものものだ」
「交換周期は?」
「六時間毎。使用は一度限り」
「承知した」
「もう一つ。林の動きを記録せよ。だが近づくな」
「……わかりました」
端末の電源を切る。路地の奥に押し込む。
振り返る。ダクトの出口が闇に溶けている。
「これで一手、稼いだ」
歩き出す。背中の皮膚のざわつきが少し薄れた。
自宅を出た。朝の光が舗道を濡らしている。
「第三の連絡点、稼働させろ」
腕時計を叩く。液晶が白く光る。
バス停を過ぎる。歩幅を一定に保つ。
振り返らない。後方の窓の反射だけを見る。
スマートグラスの端に緑の文字が走る。
「衛星経由、暗号化済み。佐藤から」
舌が歯茎に張り付く。唾を飲み込む。
右手をポケットに入れる。折り畳み式端末を探る。
「接触成功、第一段階完了」
信号が青に変わる。渡り始める。
左側のビル屋上に人影が一つ。
足を止めない。速度を変えずに進む。
「第二段階を開始せよ」
端末のボタンを二度押す。内蔵バッテリーが温む。
交差点を曲がる。人影は視界から消えた。
「七十二時間、カウントダウン中」
支店の入り口が見える。ガラスドアが光る。
ポケットから手を抜く。指先が冷たくなっている。 支店のドアが開く。エレベーターの音が階下で止まる。
胸の奥で鼓動が二つ、跳ねる。手の平が湿る。
「おはようございます」
受付の女性が立つ。笑顔が完璧すぎる。
「本日は九時半から『華泰聯通』の陳様がお見えです」
メモを渡される。紙の縁が指に引っかかる。
「応接室に通してくれ」




