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第18話 書店裏部屋の時限音

 

 外で車のエンジン音が遠のく。静寂が戻る。


「了解です。では、最終確認に入る」


 彼が再びキーボードに向かう。背中が小刻みに震えている。 書店の裏部屋で地図を畳む。佐藤のキーボード音が途切れた。

 男の三叩きが頭蓋骨の内側で鳴る。リズムが林の癖と重なる。

 私は机の角を握る。指の腹が冷たい木肌に食い込む。

 陳国華の記録を思い出す。尋問報告書の隅に同じ癖が記されていた。

「コードネーム『樵夫』。暗号化前の合図として三回の接触を常用」

 鼓動が耳朶を打つ。胸郭が軋む音がする。

 林の机の角の傷。あれは合図の跡か。

 隠し通路のダクト。定期的な使用痕。

 全てが繋がる。長い糸が一つの結び目を作る。

「佐藤」

 声が低く掠れる。

「新連絡網の第一接触を前倒しせよ。今すぐにだ」

「理由は?」

「『樵夫』が動いた。我々の時間は七十二時間どころではない」

 佐藤の顔色が変わる。手がキーボードから滑る。

「……了解。第三トイレ前の接触を三十分後に変更します」

 私は立ち上がる。膝の関節がきしむ。

「ここはもう使えない。林はこの場所を全て把握している」

「撤収先は?」

「港の倉庫街。『華昌号』の船渠だ。香港資本の船長を覚えているか」

「はい。ただし、そこに至るルートは林の監視網が最も密です」

「ならば、監視の目を正面からくぐる」

 鞄から変装用小道具を取り出す。髪を逆立てるワックス。色の薄いコンタクト。

「彼らが探しているのは『元自衛官の結城重則』だ。その男はもうここにいない」

 変装を始める。顔の筋肉を弛める。歩き方を変える練習をする。

 佐藤が新しい端末を渡す。表面は傷だらけの安物に見える。

「中は最新の暗号化チップです。一度のみの使い捨て」

「ありがとう」

 ポケットにしまう。脇腹の熱さとは違う冷たさだ。

「では、明朝五時に『華昌号』で」

「必ず着く」

 ドアを開ける。路地の向こうに一台の車のヘッドライトがついたまま止まっている。

 私は背筋を丸める。足取りを重くする。

 歩き出す。車のエンジンがかかる音がしない。

 五十メートル。百メートル。

 振り返らずに曲がる。車の灯りがゆっくりと動き出した。

「来たか」

 速度を上げない。息を整える。

 次の角で民家の軒下に入る。車が通り過ぎるのを待つ。

 ヘッドライトが遠ざかる。だが、エンジン音は聞こえない。

「電気自動車か」

 暗闇から再び歩き出す。目標は港まであと三キロ。

 背中に視線の塊を感じる。複数の目がついている。

 私はため息をつくふりをする。手をポケットに入れる。

 新しい端末の電源を入れる。指紋認証。

 暗号化チャットを開く。佐藤への最終メッセージを打つ。

「監視網を突破。『樵夫』には一切触れるな。これが最後の通信だ」

 送信。端末の電源を切り、その場でコンクリートに叩きつける。

 基板が砕ける音。歩きながら部品を路地の排水口に蹴り込む。

 肩の力が抜ける。孤軍になった実感が胃の底に沈む。

 港の灯りが闇に浮かぶ。倉庫の影が巨人のように並ぶ。

 あの中に味方が一人いる。それだけが今の全てだ。

 足を速める。冷たい風が頬を裂く。 隣席の男がコーヒーカップを置く。左手の小指が二度、陶器に触れた。


 私は新聞をめくる。紙の音で動作を覆う。


 男がマッチを擦る。炎が上がる前に消した。三本目の軸が折れている。


 胃が縮む。あの癖を知っている。


 新聞を畳む。立ち上がる音を大きく立てる。


 トイレへ向かう。男の視線が背中にまとわりつく。


 鏡に映る自分が息を詰める。脈拍が目元で刻む。


 非常口の表示を見る。非常灯が切れている。


「ここか」


 階段を下りる。足音が反響して数を乱す。


 地下の倉庫扉に手をかける。鍵はかかっていない。


 中は暗い。湿った埃の匂い。


 懐中電灯を点ける。光束が蜘蛛の巣を揺らす。


 奥の壁にダクトがある。格子の蝶番に油の痕。


 指で撫でる。まだ粘り気が残る。


「最近使われた」


 格子を外す。音一つ立てずに滑る。


 奥に空間が見える。配線が束ねられている。


 その中に箱がある。防水ケースだ。


 蓋を開ける。中は空っぽ。だが底に微かな擦り傷。


「証拠を移した後か」


 ケースを元に戻す。格子をはめる。


 扉を閉める。暗闇が一層深くなる。


 階段を上がる。肺が冷気を疼かせる。


 店内に戻らない。裏路地からその場を離れる。


 路地を三つ曲がる。公衆電話を見つける。


 受話器を上げる。コインを入れない。


 佐藤の覚えている番号を回す。プルルという音が二回。


 切れる。これが合図だ。


 次の路地の雑貨屋に入る。店員に五千円札を渡す。


「電話を貸してくれ」


 彼が無言で卓上電話を差し出す。


 番号を回す。三回目の呼び出しで受話器が取れる。


「明朝五時、龍山寺の南門だ」


「了解。新ルートは青信号で」


 電話を切る。札を受け取らないまま店を出る。


 店員が札をしまう音が後ろでする。


 歩き出す。背中の皮膚がざわつく。複数の目が付いた。カウンター上の壁時計が音を立てる。秒針の動きごとにクリック。

 一、二、三。四ではなく、三秒目で音が重くなる。

 一、二、三。歯車の噛み合いがずれている。

 故障ではない。この間隔は意図的だ。

 脳裏に閃光が走る。三という数字が鎖を引き絞る。

 陳の尋問室。壁の時計が同じリズムを刻んでいた。

 あの時も、三秒ごとに頭蓋骨を抉る音がした。

 指先が冷たくなる。血液が引き潮のように引く。

 今、この場所で、その音が再現されている。

 林が湯呑みを洗う手が止まる。視線が時計へ流れる。

「その時計、いつからあった?」

「ずっと前からだ。気になるか?」

「音が。」

「音?」

「三秒ごとに濁る。」

 林がゆっくりと顔を上げる。目尻に微かな痙攣。

「時計の話は初めてだ。」

「そうか。」

 私はカウンターから手を離す。掌の汗が木肌に痕を残す。

 この音は合図か。それとも、私への警告か。

 秒針がまた三秒を刻む。その響きが脊柱を凍らせる。背中の皮膚がざわついたまま歩く。複数の目が付いている。


 公衆電話から三本目の路地を曲がる。時計店のショーウィンドウが暗い。


 ガラスに顔が映る。影が一つ、二つ、立ち止まる。


 私は歩調を崩さない。時計の文字盤を見るふりをする。


 店内の暗がりから微かな音がする。チク、タク、チク。


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