第17話 林を切る決断
端末の電源を切る。脇腹の隠しポケットにしまう。
階段を上がる。筋肉が張り詰めている。
ドアを開ける。店内の灯りがまぶしい。
「ずいぶん長かったな」
林が湯呑みを磨いている。布巾の動きが早い。
「少し考え事がね」
私はカウンターに手をつく。角の傷が視界に入る。
「さて、そろそろ失礼する」
「そうか。気をつけてくれ」
彼の目が私の脇腹を一瞥する。布巾が止まった。
ドアのベルが鳴る。夜の冷気が流れ込んだ。 カウンターから三つ目の席に男が座る。スマホをテーブルに置く音。
私はコーヒーカップを傾ける。湯気が視界を揺らす。
男が画面を叩く。指先が三度、規則正しく動く。
胃が縮む。そのリズムを知っている。
「すみません、トイレは?」
林が奥を指さす。手の動きが滑らかすぎる。
通路の壁に寄る。漆喰のひび割れを数える。
七つ目の割れ目で止まる。指で押す。
壁板が滑る。隙間から冷気が漏れる。
懐中電灯を点ける。光束が埃を舞い上げる。
ダクトの縁に手垢が付いている。まだ新しい。
留め具に引っかき傷。金属の露出部分が光る。
指示板を撮る。暗号の一部がこすれている。
接続端子を確認する。錆びていない。
「使用済みか」
息が白くなる。吐く息が震える。
扉を押し閉める。カチッという音が骨に響く。
壁板を元に戻す。ひび割れの位置がずれないか確かめる。
手のひらを壁に押し当てる。冷たさがじんわり伝わる。
振り返らない。足音を響かせてカウンターへ戻る。
「暗くて迷いそうだった」
林が笑う。目が笑っていない。
「いつもより時間がかかったな」
「ああ、少し調子が悪くて」
コーヒーカップに手を伸ばす。表面が冷めている。 男の指が再び画面を叩く。三度。間隔が完全に均一だ。
コーヒーカップを置く。揺れた液面が白い円を描く。
私は椅子を引く。脚が床を擦る音を立てる。
「勘定をお願い」
林がレジを打つ。キーの音が一つ飛んでいる。
男が咳払いをする。手がスマホの側面を撫でる。
財布から紙幣を数える。指先で三枚ずつ区切る。
「お釣りは結構です」
ドアへ向かう。背中に視線がまとわりつく。
ベルが鳴る。夜の湿気が皮膚に張り付く。
路地を曲がる。足音が後から続く。
速度を変えない。ショーウィンドウに映る影を数える。
二つ。距離を詰めている。
携帯を取るふりをする。新しい端末の電源を入れる。
暗号化チャットを開く。指紋認証が一発で通る。
「汚染確認。プランBを開始せよ」
送信。既読が即座に点く。
「了解。七十二時間カウントダウン開始」
端末をしまう。脇腹のポケットが熱い。
次の角で左折する。足音が二組、同じ方向へ曲がる。
私は歩道を渡る。信号が青から黄に変わる。
振り返らずに加速する。肺が冷たい空気を焼く。 男が机を叩く。人差し指の第二関節が三度、均等な間隔で落ちる。\
私はカップを口に運ぶ。唇が陶器の縁に触れる。\
一回目は軽い。机の木目に沿った位置だ。\
二回目はやや強め。叩く音が鈍い。\
三回目は一回目と同じ力加減。だが、指の角度が微妙に違う。\
彼はスマホを見つめたまま。画面の反射が目に映らない。\
胃の裏側が熱くなる。そのパターンを覚えている。\
「今日はもう切り上げよう」\
林が箒を止める。柄が床に触れる音。\
「そうか。もう夜も遅いしな」\
私は立ち上がる。椅子の脚が床を引っ掻く。\
ドアのベルが鳴る。外の闇が深い。\
路地の角で振り返る。喫茶店の明かりが二階に移動した。\
新しい端末を取り出す。指紋認証が一発で通る。\
暗号化チャットを開く。佐藤のアイコンがオンラインだ。\
「三叩きを確認。林経由は全て汚染」\
送信する。指先が冷たい。\
「了解。新ルートを構築開始。接触は明朝五時」\
既読表示。三秒後に返信が届く。\
「監視要員を配置。林の動静を記録せよ」\
「実施中。彼は現在、二階で通話中」\
息が浅くなる。首筋に汗が伝う。\
端末をしまい込む。脇腹のポケットが張り付く。\
歩き出す。足音を歩調に合わせる。\
次の交差点で信号が青に変わる。渡り切ったところで振り返る。\
喫茶店の二階の明かりが消えた。代わりに隣の建物の影が動く。\
「やはりな」\
路地裏に入る。壁に背中を預ける。\
鼓動が耳を塞ぐ。暗闇の中で目を凝らす。 路地裏の奥に段ボールが積まれている。隙間から光が漏れる。
壁伝いに進む。足音が反響しない地面を選ぶ。
安全な別拠点の入り口は書店の裏口だ。錆びたインターフォンを三回押す。
ドアが開く。佐藤が無言でうなずく。
中は薄暗い。埃とインクの匂いが混ざる。
私はテーブルに新しい端末を置く。液晶が青白く光る。
「全チャンネルを遮断しろ。林のアクセス権限を剥奪だ」
佐藤がキーボードを叩く。音が乾いている。
「了解。バックドアを三点確認。全て封鎖した」
胸の奥が締め付けられる。これで孤軍になる。
「新たな連絡網は?」
「三層構成で構築中。第一層は民間SNSの暗号化チャット。第二層は短波ラジオの暗号放送。第三層は人的リレーだ」
私は頷く。手が机の上を這う。地図を広げる。
「避難ルートはこれだ」
赤い線が基隆港を迂回し、東海岸を南下する。
「林のネットワークを完全に避ける」
「船舶の手配は?」
「別ルートで接触済みだ。香港資本の貨物船が協力を承諾した」
佐藤の指が地図をなぞる。山道の分岐点で止まる。
「ここが危険区域だ。監視カメラが集中している」
「迂回ルートを用意しろ。時間はかかっても構わない」
天井から水が滴る音がする。規則的な間隔だ。
二人の呼吸が重なる。黙働の時間が流れる。
新しい端末が震える。暗号化されたメッセージが表示された。
「第一陣の移動開始を確認。龍山寺の待ち合わせ地点から離脱完了」
私は息を吐く。肺の底がひりひりする。
「第二陣の準備は?」
「明朝四時、台北駅地下街の第三トイレ前で」
「監視の目を欺けるか」
「清掃員に変装した仲間が三人つく。誘導路を確保する」
手首の時計を見る。針が午前三時二十分を指している。
「あと一時間四十分か」
佐藤がコーヒーを差し出す。湯気がゆらぐ。
「支店長。一つ聞いていいか」
「何だ」
「林さんを本当に切るのか」
カップの縁が指に食い込む。熱さを感じない。
「もう切った。彼が敵に回った時点でな」




