第16話 セーフハウス午前四時
目を閉じる。経路を脳裏に描く。曲がり角、信号、監視カメラの位置。
「第二地点は移動後。新端末の受け渡しは五分間」
肩の筋肉が微かに動く。心拍が七十四を刻む。
「囮の通信は三回。偽の集結地点を変えろ」
掌の汗が紙を濡らす。文字が滲む。
「美咲の安全確保が最優先だ。連絡は『稲妻』のみ」
深呼吸をする。肺が冷たい空気で満たされる。
「陳の裏切りは確定だ。だが、敵は彼一人ではない」
地図を畳む。指紋が残らないように注意する。
「監視網の隙を突く。動きは速く、小刻みに」
立ち上がる。膝の関節が滑らかに動く。
「計画は終わった。あとは実行するだけだ」
鞄を背負う。肩にストラップが食い込む。
「全工程を七十二時間から四十八時間に圧縮する」
窓の外を見る。闇がまだ深い。
「始めよう。時間は俺たちの味方ではない」 隠れ家の床は固い。毛布一枚が背骨に食い込む。
天井のひび割れを見つめる。視線がひとつ、またひとつと数える。呼吸を浅く整える。
通信端末を胸の上に置く。液晶の光が微かに脈打つ。熱が服を透す。
「緊急周波数は常時監視。着信は三秒以内に対応」
目を閉じる。まぶたの裏が明るい。耳が外界の音を拡大する。
遠くの警笛。階下の水音。自分自身の鼓動。
浅い眠りが波のように寄せては引く。意識の縁で計画が回転する。
第一地点。佐藤。新端末。囮。
端末が震える。光が一瞬、天井を染めた。
目を見開く。指がボタンを押す。一秒。
「報告」
『第一地点、監視網を確認。黒いセダン、二台。通過せず』
息を吐く。肺が縮む。
「予定通り第二地点へ移動せよ。接触は五分遅らせろ」
『了解』
通話が切れる。闇が戻る。
再び目を閉じる。筋肉の緊張が解けない。肩が床から浮いている。
次は美咲からの連絡を待つ。彼女が新端末を受け取ったか。
時間がゆっくりと流れる。時計の針の音が聞こえない。
浅い睡眠の底で、足音が聞こえる気がした。廊下か。
体が無意識に起き上がる。手が端末を握る。
音はしない。ただの気のせいだ。
再び横になる。心拍が早い。深呼吸を一つ。
「護る。それだけだ」
闇の中で、歯を食いしばる。覚悟が冷たい毛布のように体を覆う。
次に端末が光るまで、浅い眠りを維持する。
ダクトの扉を閉めると、外の騒音が戻ってきた。喫茶店のカウンターを離れる。
路地の空気が重い。埃と油の匂い。
歩幅を一定に保つ。背後に視線を感じる。振り返らない。
スマートフォンを取り出す。指紋認証がかかる。
在留邦人安全情報サイトを開く。ページが遅い。接続不安定。
「リストを確認せねば」
路地裏を曲がる。人通りが減る。心拍が上がる。
スマホの画面に赤い文字が浮かぶ。『通信エラー』
胃が縮む。止まらず歩く。
交差点で信号待ち。バイクの群れが脇を通り過ぎる。
一息つく。再びサイトを読み込む。今度は表示される。
名簿の一覧が流れる。無事確認マークが付いていない者が七人。
その中に美咲のコードネームは無い。胸の締め付けが緩む。
「次は佐藤だ」
新しい暗号アプリを起動する。鍵アイコンが回転する。
自宅までの距離を計算する。あと三百メートル。
足を速める。影が付いて来る気配。 背後から来る気配が消えた。玄関の鍵を開ける。
室内の空気がよどむ。カーテンを閉めたままにしていた。
スーツをハンガーから外す。肩の縫い目を確かめる。
シャツの襟に指が触れる。少し固い糊の感触。
「普段通りに振る舞え」
ネクタイを結ぶ。手順が自動化している。鏡に目が合う。
鞄を開ける。書類の上に非常用端末がある。
端末の電源を入れる。緑のランプが点滅する。位置情報送信確認。
次に下段を開ける。折り畳み式ナイフと止血帯。
重さを手のひらで測る。規定の分量か。
靴下を履き直す。足首に小型の通信機が縫い込まれている。
圧迫感を確認する。邪魔にならない位置だ。
最後に靴を履く。靴底の感触が普段と違う。
踵を叩く。中敷きの下に薄い金属板が滑り込む。
立ち上がる。全身のバランスを取る。違和感はない。
「準備は完了だ」
ドアノブに手をかける。外の音が聞こえてくる。
カウンターの角が欠けている。白い木肌が剥き出しだ。
指でなぞる。繊維が逆立っている。新しい傷だ。
「ここ最近、仕入れに支障はないか?」
林が茶碗を置く。音が硬い。
「問題ない。ただ、机がきれいになってた。あなたの仕事か?」
彼の目が机を撫でる。速度が均一すぎる。
「そうだ。整理してみた」
「整理した?理由は?」
私の手が角に触れる。木屑が指に刺さる。
「机の角が気になったんだ。傷みそうで」
「机の角か。なるほど」
林が息を吐く。肩が少し下がった。
「君は角を気にするか」
「気にする。特に、長く使ってる机ならな」
彼が頷く。目が引き出しの一つに一瞬止まる。 伊達が引き出しを閉める。手の動きが一瞬だけ速くなる。
私はカウンターから離れる。床板が軋む音を立てる。
トイレの方向へ歩く。振り返らない。
数分を数える。心臓の鼓動が耳に響く。
そっと戻る。足音を殺す。
引き出しの前に立つ。鍵はかかっていない。
指先で引く。滑りが重い。
中を見る。書類の山が崩れそうだ。
一番上をめくる。白紙が数枚続く。
その下を探る。手が硬いものに触れる。
取り出す。小型のレコーダーだ。
スイッチを確認する。録音ランプが微かに光っている。 レコーダーが冷たい。液晶に赤点が揺れる。
私は息を止める。鼓動が首筋を打つ。
裏蓋を開ける。電池は新品だ。
録音時間を確認する。七十二時間を超えている。
スイッチを切る。赤点が消えた。
元の位置に戻す。書類の山を崩さないように押し込む。
引き出しを閉める。音がしないように手のひらで支える。
カウンターに戻る。足裏が床に吸い付く。
「少し外の空気を吸ってくる」
林が眉を動かす。何も言わない。
裏口の階段を下りる。コンクリートの冷気が足元から上がる。
携帯を取り出す。電源を落とす。
SIMカードを抜く。爪が震える。
路地の陰で屈む。排水溝の隙間にカードを滑り込ませる。
新しい端末を取り出す。佐藤からの初期設定済みだ。
暗号化チャットを起動する。接続完了の表示が瞬く。
「明日の午前四時。セーフハウスで」
送信ボタンを押す。既読がすぐに表示された。
「了解。基本方針に従う」




