第15話 娘への退避命令
「わかった」
「もう一つ。陳に近づくな。たとえ口説かれても、絶対に従うな」
「そんなこと、ないわ」
「あるかもしれない。敵は手段を選ばない」
彼女の沈黙が重い。夜の風が頬を刺す。
「生きて。約束だよ」
「ああ。約束だ」
通話を切る。画面が暗くなる。
握りしめた携帯の角が、掌に食い込む。血の気が引く冷たさが、親指の腹を伝う。
これで、全てを伝えた。あとは彼女が動くだけだ。
路地の奥から車のエンジンが唸る。黒い影がゆっくりと近づく。
携帯をコンクリートに叩きつける。プラスチックが砕ける。
影に溶け込む。次の行動が始まる。 指先が首の後ろに触れる。筋肉が石のように固まっている。息を吐く。痛みが鎖骨に響く。
肩をゆっくり回す。関節が軋む。左肩だけ動きが鈍い。昨日の緊張が残っている。
背筋を伸ばす。脊椎が一本ずつ順番に起き上がる。腰に違和感を覚える。
深呼吸を一つ。肺が十分に膨らまない。肋骨の下が重い。
「心拍は八十五。まだ高い」
壁に手をつく。体を前屈させる。腿の裏が張る。
今日の情報を脳裏に映す。陳の裏切り。計画の漏洩。娘の危険。
息を吸う。吐く。心臓の鼓動が少し遅くなる。
「灯台通信の異常。基隆港の監視網。偽情報の流布先」
体を起こす。首を横に倒す。右側の筋が引っ張られる。
明日の行動を順番に並べる。佐藤との接触。新端末の受け渡し。偽ルートの設置。
「優先順位は三つ。連絡網の再構築。囮の展開。美咲の移動確保」
腕を組み、胸を開く。肩甲骨が中央に寄る。
時間を計算する。今は二十三時十分。行動開始は午前四時。
「睡眠は三時間。それまでに筋緊張を解け」
膝を曲げ、スクワットの姿勢を取る。太腿に力が入る。
暗闇の中で、目を閉じる。計画の細部が点と点でつながる。
「陳に気づかれる前に動く。彼の目を囮に釘付けに」
体を持ち上げる。筋肉の伸縮を感じる。
心拍が七十八まで下がる。呼吸が深くなる。
「明日が全てだ。四十八時間の勝負を、六時間で決める」
ストレッチを終え、立ち上がる。体が軽くなった。
「さあ、計画を実行に移す時だ」 腹筋の最後の一回で息が止まる。肋骨の下が焼ける。
腕立て伏せへ移る。肘が九十度で固定される。床の感触が掌に伝わる。
十回で肩が熱くなる。十五回で呼吸が乱れる。
二十回目、体を持ち上げきれない。床に額をつける。
「腕の力が落ちている。昨日の移動の疲れか」
スクワットを始める。膝の関節が軋む。太腿の筋肉が引き締まる。
深く沈み込む。腿が水平になるまで。
十五回で心拍が早くなる。二十回で視界が揺らぐ。
汗が首筋を伝う。シャツの背中が貼り付く。
最後の五回は歯を食いしばる。膝が震える。
「脚力は維持できている。これで移動は可能だ」
床に座り、ストレッチをする。腿の裏が突っ張る。
呼吸を整える。胸の鼓動が遅くなる。
立ち上がり、壁に背中を預ける。冷たさが汗を吸う。
明日の行動を脳内で再現する。佐藤との接触場所。新端末の受け渡し手順。
「午前四時、第一地点。午前五時、第二地点。それぞれの待機時間は五分」
筋トレ後の脱力感が思考を研ぎ澄ます。感覚が末端まで届く。
「囮の動きは午前六時開始。それまでに偽の通信を三回流す」
窓の外を見る。街の灯が幾つか消えている。
「陳の監視網がどこまで広がっているか。囮で測る」
体を動かし終え、計画が血肉になる。
「よし、これで明日を戦える」
エアコンの送風音だけが、静寂を破る。 筋トレ後の脱力が思考を透明にする。末端の血管まで感覚が通う。
「内部の敵は陳。対応は三つだ」
手帳を開く。ペン先が紙を刺す。
「第一、連絡網の再構築。佐藤に新端末を配布し、暗号鍵を更新せよ」
指が次の行を指す。文字が震えない。
「第二、囮の展開。陳に偽の集結地点を流し、監視網を分散させろ」
胸の鼓動が静かに響く。呼吸が深い。
「第三、美咲の移動確保。彼女だけは絶対に守る」
優先順位が骨に刻まれる。迷いがない。
「実行は同時進行だ。時間差で動け」
窓の外、夜明け前の闇が濃い。動くには絶好の時間だ。
「まずは佐藤だ。第一地点へ向かう」\
廊下の壁の塗装に、微かな色のむらがある。昨日まではなかった。
膝をつき、指で表面を撫でる。僅かな凹凸を感じる。下地に何かが埋まっている。
「ここだ」
林が工具箱を開ける。バールの先を隙間に差し込む。
壁板が静かに外れる。奥に金属製の箱が鎮座する。
「証拠品は全てここに移した。偽の隠し場所にはダミーの書類を」
俺の掌が箱の蓋に触れる。冷たい。鍵穴には微細な傷が付いている。
「新品のはずだ。誰かが開けようとした痕跡か」
林の息遣いが止まる。彼の目が暗くなる。
「侵入者は二度来ている。一度は発見。二度目は偽装」
箱の中を確認する。書類、USB、現金。全てが整然と並ぶ。
「だが、順番が違う。俺が置いた順ではない」
血の気が引く。背筋が氷柱になる。
「つまり、敵は中身を確認した。そして元に戻した」
林が拳を壁に打ち付ける。鈍い音が響く。
「完全に筒抜けだ。ここの安全は崩壊した」
俺は箱を取り出す。重みが腕に伝わる。
「強化するしかない。偽の隠し場所をもう一つ作れ」
「場所は?」
「敵が既に確認した場所だ。わざわざ二度は探さない」
林がうなずく。彼は床板を外し始めた。
「ここに本物を。偽の箱は元の場所に戻せ」
作業の音だけが、深夜の廊下に響く。
俺の耳が外界の音を捕らえる。エレベーターの稼働音。遠くの犬の吠え声。
「時間が限られている。迅速に」
掌に汗がにじむ。箱を床下の空間に滑り込ませる。
林が床板を元に戻す。釘を打つ音が鋭い。
「偽の箱には追跡機を仕込んだ。開封すれば位置が送信される」
「それで敵の拠点が分かる」
「ああ。少なくとも、次の一手は読める」
壁板を元に戻す。塗装のむらが目立たないように撫でる。
「これで準備は完了だ」
立ち上がる。膝の関節が軋む。
「次は移動だ。ここには戻らない」
林が工具箱を閉める。金属音が一つ、闇に消える。
「生きて会おう。重則」
「ああ。必ずだ」
玄関のドアノブに手をかける。冷たさが覚悟を固くする。指が鞄のファスナーを探る。金属の歯が一音だけ響く。
中から地図を取り出す。裏面に細かい文字が並ぶ。
「第一地点はここだ。佐藤との接触は四時十五分」




