第8話
十一月になった。
街路樹の葉が、ほとんど落ちた。
朝の通勤路に、黄色と橙の葉が積もっていた。風が吹くたびに、残った葉が舞い落ちた。枝だけになった梢が、青い空に細く伸びている。
香織は歩きながら、その梢を見上げた。
葉が落ちると、枝の形が見える。
葉があるときは、葉の色と量が目に入る。しかし落ちてしまうと、枝そのものの構造が見える。どこで分岐して、どこへ向かっているか。
言葉の骨格に似ている、と香織は思った。
装飾が取れると、骨格が見える。
それが、校閲者の目が見ようとしているものだ。
---
十一月の第一週、馬渕との約束の食事が実現した。
五月に食事をした和食の店を、馬渕がまた予約していた。
個室に入り、向かい合って座った。
料理を頼んでから、馬渕が言った。
「話を聞かせてほしい、と言ったのは俺だが——どこから話すかは、村上さんに任せる」
「どこから話すか」
「校閲という仕事を通して、考えてきたことを。好きなところから」
香織はしばらく考えた。
好きなところから、という言葉が、珍しかった。
構成を決めてから話すのではなく、自分が話したいところから話せ、ということだ。
「水無月先生の案件を、最初に受け取ったとき——表紙を見て、この名前をどこかで知っている気がした、という話をしてもいいですか」
「ぜひ」
「知っているような気がしたけれど、どこで知ったか思い出せなかった。後で分かったのは、入社当時に一度だけ、先輩からこの著者の名前を聞いていたということでした。一作だけ出て、その後何も出なかった作家として」
「一度聞いた名前が、記憶に残っていた」
「無意識に、残っていたんだと思います。校閲の仕事をしていると、こういうことがあります。一度読んだ言葉が、後になって意味を持って戻ってくる」
馬渕は静かに聞いていた。
「言葉は、読んだ瞬間だけに生きるのではなく、記憶の中に沈んで、必要なときに浮かびあがる。それが、読むということの、見えない部分だと思っています」
「読書のことか、校閲のことか」
「両方です。校閲は、正確に読もうとすることです。しかし正確に読もうとするほど、言葉が体の中に深く沈む。それが後で、別の仕事をしているときに出てきます」
---
料理が来て、しばらく食べながら話した。
香織は、三十年間で学んだことを、順番ではなく思い出す順に話した。
言葉の骨を見つけることの、具体的な感覚。誤字を見つけることと、意図を読むことの違い。著者の言葉に、どこまで近づいて良いかという判断。校閲者が言葉を守るとはどういうことか。
馬渕は、ときどき短い質問を挟みながら、ほとんど聞いていた。
一時間ほど話したところで、馬渕が言った。
「三十年間、誰かにこういう話をしたことはあったか」
「ほとんどありませんでした。今年、少しずつするようになりました」
「なぜ、今年になって」
「求められたからです。三枝さんに、吉田さんに、馬渕さんに。そして桑田さんに」
「求められなければ、話さなかったか」
香織は少し考えた。
「以前は、そうだったと思います。しかし今は、求められる前に話してもいいと思い始めています」
「何が変わったんだ」
「水無月先生の案件で——言葉は届けなければ届かない、ということを、改めて知りました。書かれた言葉も、言われた言葉も、受け取る人間がいなければ意味をなさない。しかし同時に、届けようとしなければ、届かない」
馬渕はその言葉を、しばらく繰り返すように黙っていた。
「水無月は、届けようとし続けた」
「はい。三十年間」
「届けようとし続けることが、三十年後に報われた」
「報われた、という言葉が正確かどうか分かりません。しかし——届いた、ということは確かです」
---
食事が終わり、お茶を飲みながら、馬渕が言った。
「一つだけ、聞いていいか」
「はい」
「あなたは、この仕事で、何を一番大事にしてきたか」
香織は少し間を置いた。
三十年間の仕事を、一言で言う。
「言葉に対して、正直であること」
馬渕は香織を見た。
「正直であることが、校閲者の一番の仕事だと思っています。誤字を見つけることは、正直さの一部です。著者の意図を正確に読もうとすることも、正直さの一部です。言葉の骨を守ることも、正直さの一部です。すべては、言葉に対して正直であることから来ています」
「言葉に対して正直、ということは、著者に対して正直、ということか」
「それも含みます。しかし、それだけではありません。言葉そのものに対して正直、ということです。言葉が持っている意味に、誠実であること。その意味を歪めない、薄めない、消さない」
馬渕はしばらく、その言葉を受け取っていた。
「俺は三十五年間、言葉を扱う仕事をしてきた。しかし、その言葉に正直だったかどうか——今夜、改めて問われた気がする」
「馬渕さんは、最後に正直になりました」
「最後に、というのは遅すぎる」
「遅すぎることと、意味がないことは、別の話です」
馬渕は少し目を細めた。
「それ、水無月の言葉か」
「案件の中で、学んだことです」
「あなたの言葉でもある」
香織は答えなかった。
しかし否定もしなかった。
---
店を出て、駅に向かって歩いた。
十一月の夜は、冷たかった。
五月に同じ道を歩いたとき、温かかった、と香織は思い出した。
あのとき、楽しかったという言葉を自分に許可した夜だった。
今夜も、同じ道を歩いている。
しかし今夜は、別の言葉が胸の中にあった。
言葉に対して、正直であること。
三十年間、それだけを守ってきた。
これからも、守り続ける。
馬渕が先に口を開いた。
「村上さん、今夜の話を、どこかに書いてほしい」
「書く、というのは」
「文章として。今夜話してくれたことを、言葉として残してほしい。校閲者が三十年間考えてきたことを」
「誰かに見せるために、ですか」
「桑田さんのところで、若い担当者に何かを伝えるときに使えると思う。あるいは——三枝さんや吉田さんに。形として残っていれば、あなたがいなくなった後も、言葉だけは残る」
言葉だけは残る。
水無月が信じていたことだった。
香織は少し考えた。
「書いてみます」
「頼む」
馬渕の声に、珍しく切実なものがあった。
この人間は、言葉を残すことの意味を、今年学んだのだと香織は思った。
三十年かかって、学んだ。
しかし学んだことは、確かだ。
---
翌週から、香織は仕事の合間に、少しずつ書き始めた。
ノートではなく、パソコンで書いた。
題名は、まだ決めていない。内容は、校閲という仕事を通して考えてきたことだ。技術的なことではなく、姿勢についてのことを書こうとしていた。
最初の一文を、何度も書き直した。
校閲者の仕事は、言葉の骨を見つけることだ。
と書いて、消した。
言葉に対して正直であることが、校閲者の仕事の根本だ。
と書いて、また考えた。
どちらも正しい。しかし最初の一文として、どちらが正しいか。
迷いながら、三枝に見せた。
「最初の一文、どちらがいいですか」
三枝は二つを読み比べた。
「両方必要な気がします」
「どちらかを選ぶとすれば」
「う——ん」三枝はしばらく考えた。「後者ですかね。前者は方法で、後者は姿勢だから。最初に姿勢を書いた方が、後から方法が生きてくる気がします」
香織はその言葉を聞いて、頷いた。
「ありがとう」
「え、それで決めちゃうんですか」
「三枝さんの判断は、正しいと思いました」
三枝は少し照れた顔をした。
「村上さんに言われると、なんか重いですね」
「重くていいんです。判断には、重さが必要です」
---
十一月の半ば、吉田から報告が来た。
先月、引っかかりを感じた一文について、著者に確認した結果だ。
「著者に聞いたら、その一文、書き直してくれました」
「どう書き直されましたか」
吉田が原稿を見せた。
元の一文と、書き直された一文を比べると、言葉の数はほとんど変わらなかった。しかし言葉の選び方が変わって、著者が伝えたかったことの核心が、より正確に出ていた。
「著者は、ここに引っかかりを感じてくれる人がいてよかった、と言ってくれました」
「そうですか」
「校閲者に感謝された、というのが——初めてで、うれしかったです」
吉田の顔が、入社のときとは別人のように、生き生きとしていた。
「吉田さん」
「はい」
「今日から、あなたは一人前の校閲者です」
吉田の目が、大きく開いた。
「そんな、まだ半年しか」
「年数の話をしていません。著者の言葉の骨を、正確に感じた。その感覚を、確認することをした。結果として、言葉が正しくなった。それが、校閲者の仕事です」
「でも、村上さんには——」
「私にできて、あなたにできないことは、たくさんあります。しかし今日あなたがしたことは、私にしかできないことではありません。あなたが、自分でした仕事です」
吉田はしばらく、香織の言葉を受け取っていた。
それから、目が少し潤んだ。
「ありがとうございます」
三枝が隣で、口元を押さえていた。
泣くのを、こらえているようだった。
---
その日の夕方、香織は書きかけの文章を開いた。
最初の一文は、三枝の判断で決まった。
*言葉に対して正直であることが、校閲者の仕事の根本だ。*
その続きを、今日書けると思った。
*言葉の骨を見つけることは、その正直さの、最も具体的な形だ。骨とは、著者が伝えたかったことの核心のことだ。どんなに装飾された文章にも、骨格がある。その骨格を傷つけずに、周りを整えていく。それが、校閲者の仕事だ。*
*骨は、時間に耐える。本物の言葉は、腐らない。二十九年間、暗い書庫に眠っていた言葉が、今も正確にそこにあった。それを、今年、体で確認した。*
書き終えて、少し読み返した。
まだ続きがある。しかし今日は、ここまでにした。
少しずつ、書き続けることが、今の香織の仕事の一部になっていた。
定年まで、あと七ヶ月。
その七ヶ月の中で、書き終えることができるかもしれない。
しかし、終わらなくても良いとも思った。
水無月透が三十年かけて書き続けたように、香織も書き続けることができる。
終わりは、焦って決めるものではない。
言葉が、終わりを教えてくれる。
その言葉を待つことも、言葉に対して正直であることの、一つの形だった。
---
窓の外で、風が鳴った。
十一月の冷たい風が、枯れ葉を舞わせていた。
明日には、街路樹の葉がほぼ全部落ちているかもしれない。
しかし枝は残る。
来年の春に、また芽吹くために、枝は残る。
言葉の骨格のように。
香織はパソコンを閉じて、コートを手に取った。
今日の仕事は、終わった。
しかし明日も、仕事がある。
それが、続くということだ。




