エピローグ
六月の朝だった。
七時十五分に出社した。階段を六階まで上がった。コートを脱いでハンガーにかけた。デスクに座り、パソコンを立ち上げた。赤いボールペンをペンケースから出した。
何も変わらない朝だった。
ただ、今日が最後だという事実だけが、いつもと違った。
定年の日だ。
カレンダーを見た。六月三十日。この日を、一年と七十三日前から数え始めた。カウントダウンとして数えていた頃があった。しかし今日は、来るべき日が来た、という感覚だけがあった。
炭火のような熱が、体の中心にある。炎ではなく、しかし確かにある。
静かな気持ちだった。
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デスクの上に、一冊の原稿が置かれていた。
昨日の夕方、担当編集者から届いた。来月刊行予定の短編集だ。新人作家の第一作で、丁寧な文体を持つ若い書き手だった。今日中に仕上げることになっていた。
香織は赤ペンを手に取った。
最初の一行を、目で追った。
読み始めると、すぐに集中が深くなった。
三十年間、変わらないことがある。原稿を読み始めると、それ以外のことが消える。定年の日であることも、退職挨拶があることも、今日で最後であることも——一時的に、遠くなる。
言葉が、目の前にある。
それだけが、今の事実だ。
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二時間ほど読み進めたところで、一カ所で手が止まった。
第三話の、ある段落だ。
誤字だった。
一文字だけ、変換が違う。意味は通じる。文脈上は、ほとんど分からない程度の誤りだ。しかし確かに、間違っている。
香織は赤ペンで、丸を入れた。正しい文字を、横に小さく書いた。
誰も気づかないかもしれない、と思った。
この一文字の誤りに、担当編集者は気づいていなかった。著者も気づいていなかった。校閲に回る前に、何人かの目を通っているはずだが、それでも気づかれなかった。
しかし香織には、見えた。
それが、校閲者の仕事だ。
誰も気づかない場所で、誰も見ていない場所で、言葉を正しく整える。
赤い丸印が、一文字の上に置かれた。
その赤が、三十年間で最後の赤になるかもしれなかった。
香織は少し考えてから、読み続けた。
最後だからといって、特別な赤を入れるわけではない。今日の赤も、昨日の赤も、三十年前の赤も、同じ赤だ。
言葉に対して正直であることは、最初の日も、最後の日も、変わらない。
それが、変わらないということの、本当の意味だった。
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昼前に、校閲が終わった。
全体を一度、最後に通して読んだ。
言葉が、正しく立っていた。
骨格が、揺るぎない。
誤字はない。表記のぶれはない。著者の意図が、正確に保たれている。
香織は原稿をそっと閉じた。
表紙を、一度だけ手のひらで撫でた。
水無月の原稿を、初めて手にしたときのことを思い出した。あの厚みが、手のひらに伝わった感覚。二十九年間、誰にも読まれなかった言葉が、自分の手の中にあるという感覚。
あの原稿が、この仕事の最後の年を、特別なものにした。
しかし今日手にしていた原稿も、誰かの言葉だ。
新人作家の、最初の言葉だ。
水無月ほどの重さはないかもしれない。しかし、その書き手にとっては、すべての言葉に意味がある。
すべての原稿に、同じ目を向ける。
それが校閲者の掟であり、三十年間、香織が守り続けてきたことだった。
原稿を閉じたまま、しばらく手を置いた。
言葉に、ありがとう、と心の中で言った。
声には出さなかった。
言葉の仕事は、言葉を使わずに完了させる。
それが、香織の三十年間の流儀だった。
午後三時から、退職の挨拶があった。
第三編集局の会議室に、部署の人間が集まった。
馬渕が、香織のことを話した。三十年間の仕事のこと、水無月の案件のこと、校閲部を支え続けたこと。馬渕の言葉は短く、しかし正確だった。三十五年間、編集者として言葉を扱ってきた人間の話し方だった。
三枝が、花束を持ってきた。
吉田が、その隣で、少し目を潤ませながら立っていた。
大石も来ていた。校閲部の人間ではないが、来てくれた。水無月の案件に関わった人間として、ここにいた。
香織は短く挨拶した。
長く話すことは、しなかった。
言葉は、短い方が骨格が見える。
*三十年間、言葉と向き合うことができました。それが、一番の財産です。ありがとうございました。*
それだけ言って、頭を下げた。
拍手が来た。
温かかった。
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片付けは、あっという間に終わった。
三十年間のデスクが、ほとんど空になった。
持ち帰るものは少なかった。辞書類は後任に残した。ノートと、使い古した赤ペンのケースだけを、鞄に入れた。
三枝が手伝いながら、泣いていた。
「泣かなくていいです」
「泣きますよ」三枝は声を詰まらせながら言った。「泣いていいじゃないですか」
「そうですね」
香織は三枝の顔を見た。
この五年間、この子はここにいた。書庫で資料を探し、香織の食事を心配し、吉田の変化に気づき、言葉について一緒に考えた。
「三枝さん、吉田さんをよろしくお願いします」
「任せてください」三枝は涙をぬぐいながら、しっかりした声で言った。「自分のやり方で、育てます」
「それで十分です」
吉田が近づいてきた。
「村上さん、一つだけ言っていいですか」
「はい」
「村上さんみたいな校閲者になりたいと思っています」
香織はしばらく、吉田の目を見た。
「村上さんみたいな、ではなく——吉田美咲みたいな、校閲者になってください」
吉田は少し驚いてから、頷いた。その目が、真剣だった。
「はい。吉田美咲みたいな、校閲者になります」
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馬渕が最後に来た。
廊下に出て、二人で話した。
「桑田さんのところ、来月から動けそうか」
「はい。来週、詳細を打ち合わせます」
「良かった」馬渕は短く言った。「俺も三月以降、少しずつ動く。また、どこかで一緒に仕事ができるかもしれない」
「そうですね」
馬渕は少し間を置いてから、言った。
「水無月の本、三刷が決まった。今朝、連絡が来た」
香織は少し間を置いた。
「そうですか」
「今日の日に、報告したかった」
馬渕の声は、穏やかだった。三十五年間、重さを抱えながら仕事をしてきた人間の、ようやく穏やかになった声だった。
三刷。
水無月透の言葉が、また多くの人間に届く。
書かれた言葉は、読まれるたびに新しく生きる。それが続いている。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
それ以上の言葉は、なかった。
しかしそれで、十分だった。
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ビルを出ると、六月の夕方の光が、柔らかく差していた。
梅雨の晴れ間だった。空が高く、雲の形が白かった。
香織は少しの間、立ち止まって空を見上げた。
三十年間、このビルから出る朝と夜を繰り返した。同じ空の下を、同じ道を、歩き続けた。
今日が、最後だ。
しかし終わりではない。
明日から、別の場所で、同じことを続ける。言葉と向き合うことを。言葉の骨を見つけようとすることを。水無月先生の言葉が教えてくれたことを、次の誰かに伝えることを。
香織は歩き出した。
駅に向かって、いつもの道を歩いた。
街路樹の葉が、六月の風に揺れていた。緑の濃い、夏前の葉だ。春に芽吹いて、今、最も豊かな季節にある。
葉の向こうに、光が透けて見えた。
歩きながら、香織は小さく呟いた。
誰かに向けた言葉ではなかった。
三十年間の仕事に向けた言葉だった。
水無月透に向けた言葉でもあった。
「言葉の墓守で、よかった」
言葉は、六月の風の中に溶けた。
しかし確かに、言った。
言えた。
それで、十分だった。
充足の十分として。




