第7話
十月の末になった。
街路樹の葉が、ほぼ完全に色を変えた。緑はほとんど残っていない。黄色と橙と、少しの赤が混じり合って、朝の光を受けて輝いている。
香織は出社しながら、その色を確認した。
毎朝確認することが、この秋の習慣になっていた。一日ごとの変化は小さい。しかし積み重なると、確かに変わっている。
言葉と同じだ、と今朝も思った。
一日では気づかない変化が、積み重なって、人を変える。
今年の自分が、去年の自分と違うのは、そういう積み重ねのせいだ。
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十月の最後の週、馬渕に呼ばれた。
今度は会議室ではなく、管理職ゾーンの一角にある小さな応接スペースだった。二人掛けのソファが向かい合って置かれた、狭い場所だ。会議というより、個別の話し合いのための場所だ。
「座ってくれ」
馬渕はすでに座っていた。テーブルの上に、一枚の書類が置かれていた。
「何ですか」
「来年三月で、俺も定年だ」
香織は少し驚いた。
「知りませんでした」
「知らせていなかった。水無月の案件が動いている間は、言うタイミングがなかった」
馬渕と香織は、同い年だった。同じ年に入社したわけではないが、定年を迎える年が同じだという話は、入社して数年後に廊下ですれ違ったときに聞いたことがあった。三十年近く前の話だ。
「村上さんは、来年の何月ですか」
「六月です」
「俺は三月だから、少し早い」
馬渕は書類を香織に向けた。
人事関係の書類だった。来年三月付けの定年退職に関する書類だ。
「見せていただいていいんですか」
「中身を見せたいわけではない。この書類を前にして、話したいことがあって」
香織は書類を手に取らず、馬渕を見た。
「三十五年間、この会社にいた」馬渕は静かに言った。「その三十五年間のほとんどを、何かを抱えたまま過ごした。九七年のことを、ずっと抱えていた。それが、今年ようやく降りた気がしている」
「はい」
「降りた、というより——正しい場所に置けた、という感覚が正確かもしれない。重さは変わらない。しかし持ち方が変わった」
持ち方が変わった。
その言葉が、正確だと思った。
「馬渕さん、三月以降はどうするつもりですか」
「しばらく、何もしない」
馬渕は短く言った。
「何もしない、というのは」
「初めて、何もしない時間を持とうと思っている。三十五年間、何かを抱えながら走り続けた。一度止まって、自分が今どこにいるかを確認する時間が必要だ」
香織はその言葉を、静かに受け取った。
馬渕らしい判断だと思った。急がない。しかし、止まることを恐れない。
「その後は、考えていますか」
「水無月の本の第二刷が出た。これからも、何かあれば桑田さんのところと動く可能性はある。ただ、焦らない。今は、それだけだ」
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しばらく沈黙があった。
馬渕が口を開いた。
「村上さんに、一つ頼みたいことがある」
「何ですか」
「退職前に、校閲の話を聞かせてほしい」
香織は馬渕を見た。
「校閲の話、というのは」
「あなたが三十年間、校閲という仕事を通して考えてきたことを、聞きたい。編集者として、もっと早く聞くべきだった。しかし今更でも、聞きたい」
今更でも、聞きたい。
その言葉の中に、馬渕の誠実さがあった。
「どういう形で聞きたいですか」
「改まった形でなくていい。食事でも、コーヒーでも——話せる場で、話してほしい」
香織は少し考えた。
「分かりました。ただ、私の話ではなく、水無月先生の案件から学んだことを話す形になるかもしれません」
「それで十分だ」馬渕は言った。「水無月の案件から、あなたが何を受け取ったか。それを聞きたい」
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応接スペースを出た後、香織は廊下を歩きながら考えた。
馬渕が聞きたいと言った。
校閲という仕事を通して考えてきたことを。
それは、桑田が「後進に伝えるとき」と言ったことと、同じ方向を向いていた。
伝えることを、求められている。
三十年間、誰かに伝えることをしてこなかった。技術は見せた。仕事の姿勢も、三枝が言っていたように、見ていれば伝わっていた。しかし言葉として、誰かに伝えたことは、ほとんどなかった。
今年初めて、吉田に失敗の話をした。三枝に、言葉を正しく扱うことの意味を話した。馬渕に、水無月先生の言葉を伝えた。
それらは、求められたから話した。
しかし今度は、自分から話す準備をしようと思った。
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校閲部に戻ると、三枝が声をかけてきた。
「村上さん、吉田さんが少し相談があるって」
「どうぞ」
吉田が近づいてきた。
今日は表情が違った。緊張ではなく、何か決めてきたような顔だ。
「村上さん、一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「校閲者として、一番大事なことは何ですか」
香織は少し驚いた。
直接的な問いだった。入社当初の吉田なら、こういう問いは遠回しにしか出てこなかっただろう。しかし今日は、真っ直ぐに聞いてきた。
「なぜ、今その質問をするんですか」
「今月担当した原稿の中で、一カ所だけ、どうしても判断できない箇所がありました。誤字でも表記のぶれでもない。でも何か引っかかる。その引っかかりが、正しい引っかかりなのかどうか、分からなくて」
「どんな引っかかりですか」
「著者が言いたいことの核心と、その一文の言葉が、少しずれている気がして。言葉は正しいんです。誤りはない。でも——ここに、この言葉があることが、正しいかどうか」
香織は吉田の顔を見た。
入社して七ヶ月。
この子は今日、校閲の本質に触れた。
「その引っかかりは、正しい引っかかりです」
「え」
「誤字脱字がない。表記も正しい。しかし何か引っかかる——その感覚が、言葉の骨を見つけようとしているときの感覚です」
吉田の目が、少し大きくなった。
「では、どうすればいいですか」
「著者に確認します。この一文は、こういう意図で書いたか、と。答えが返ってきたとき、引っかかりが正しかったかどうか、分かります」
「もし引っかかりが間違っていたら」
「それはそれで良いんです。引っかかることは、間違いではありません。引っかかったことを、確認せずに通すことが、間違いです」
吉田は頷いた。
「じゃあ、著者に確認します」
「はい。確認して、どうだったか、教えてください」
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吉田が戻っていった後、三枝が言った。
「引っかかりを大事にすること、吉田さん分かってきましたね」
「そうですね」
「村上さんが教えたからですか」
「吉田さん自身が、感覚を育てた。私はただ、その感覚を否定しなかっただけです」
三枝はしばらく香織を見た。
「それが教えることですよ」
「そうですか」
「否定しないことが、一番難しいんです。何かを教えるとき、つい自分の正解を押しつけたくなる。でも村上さんは、吉田さんの引っかかりを、まず正しいと言った。そこから始めた」
香織は三枝の言葉を、静かに受け取った。
三枝は、この五年間でこういう見方を身につけた。
見ていて教わっていた、と言っていた。
しかし三枝は、見るだけでなく、自分で考えて言葉にしていた。
それは、三枝自身の力だ。
「三枝さん、一つ聞いていいですか」
「はい」
「来年、私がいなくなったら、吉田さんをどう育てますか」
三枝は少し驚いた顔をした。
「急に直接的な質問ですね」
「来年の六月で定年です。残り八ヶ月を切りました。今から考えておいた方がいいと思って」
三枝はしばらく考えた。
「私のやり方で、育てます」
「どんなやり方ですか」
「村上さんのやり方を参考にするけど、そのままコピーはしない。私は村上さんではないから、村上さんのやり方がそのまま私に合うとは限らない。でも、核心にあるもの——引っかかりを否定しないこと、言葉の骨を大事にすること——それは引き継ぎます」
香織は三枝を見た。
「それで十分です」
「本当ですか」
「引き継ぐべきものを引き継いで、自分のやり方で育てる。それが、後進を育てることの正しい形だと思います」
三枝はしばらく、その言葉を受け取っていた。
それから、静かに頷いた。
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その夜、帰宅してから、香織はノートを開いた。
今日の言葉を書き留めた。
*引き継ぐべきものを引き継いで、自分のやり方で育てる。それが、後進を育てることの正しい形だ。*
*引っかかりを否定しないこと。その引っかかりが、言葉の骨を見つけようとしている証だから。*
*持ち方が変わった、という言葉。重さは変わらない。しかし持ち方が変わる。それは、人間が変わるということだ。*
三項目書いて、ペンを置いた。
今年書いてきたノートが、だいぶ厚くなっていた。
一月の乾いた言葉から、今日の言葉まで。
ページ数は、三倍近くになっている。
言葉が増えたということは、考えたことが増えたということだ。
考えたことが増えたということは、変わったということだ。
水無月透は三十年間、書き続けた。
香織は今年、少し書いた。
しかし、この少しが、来年以降も続く気がした。
定年になっても、仕事の形が変わっても、ノートに書くことは続けると思った。
桑田の出版社での仕事、馬渕との話し合い、三枝や吉田との関わり。これからも言葉と関わる時間が続く。
その中で、書き続ける。
窓の外の街路樹が、夜の暗さの中でも、葉の輪郭が見えた。
風が吹いて、枝が揺れた。
来週には、葉が落ち始めるかもしれない。
落ちても、枝は残る。
言葉の骨格のように。




