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最後の校閲  作者: ジェミラン
第五章「言葉の墓守」
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第6話

 十月の半ば、文芸誌の取材記事が掲載された。


 村田が送ってきたメールで知った。


*村上様。先日の取材記事が、今月号に掲載されました。お時間があれば、ご覧いただければ幸いです。*


 香織は昼休みに書店に寄り、その文芸誌を買った。


 珈琲館ふじに入り、コーヒーを頼んでからページを開いた。


 特集のタイトルは「言葉は誰のものか——出版倫理を問う」だった。


 馬渕のインタビューが最初に来ていた。三ページにわたる、長いインタビューだ。あとがきを書いた経緯から、藤堂誠一のこと、桐嶋への対処まで、馬渕は正直に話していた。


 言葉を選びながら、しかし逃げない話し方が、紙面から伝わってきた。


 次のページに、香織のインタビューが載っていた。


 一ページほどの、短いものだ。


 自分の言葉が、活字になっているのを読む、という経験は、奇妙な感覚をもたらした。


 自分が話したことが、他者の文体で整理されている。村田の編集の手が入っていた。しかし伝えたかった内容は、正確に残っていた。


*「言葉の骨を見つけることで、この原稿が何であるかが分かりました。誰かが残そうとした真実の記録であることが。その記録を又闇に葬ることは、言葉を正しく扱うことに反する。校閲者として、それは許容できませんでした」*


 自分の言葉が、引用符の中にある。


 校閲者の仕事が、こういう形で言葉になることは、三十年間なかった。


 香織はコーヒーを一口飲んで、続きを読んだ。


---


 特集の後半に、桑田のコメントが掲載されていた。


 出版社の立場から見た、今回の件についての見解だ。


*著者の言葉を守ることは、出版に携わる全員の責任だ。編集者だけの話ではない。校閲者、デザイナー、営業、すべての人間が、著者の言葉に責任を持つ。今回の件は、その責任の在り方を、業界全体で問い直す機会になると思っている。*


 香織は桑田のコメントを、二度読んだ。


 著者の言葉を守ることは、出版に携わる全員の責任だ。


 校閲者だけの問題ではない、という桑田の言葉は、今回の案件が持つ射程の広さを示していた。


 水無月透の遺稿から始まったことが、出版という仕事全体への問いになっていた。


---


 文芸誌を持って会社に戻ると、三枝がすぐに気づいた。


「それ、今月号ですか」


「はい。取材記事が載っています」


「見せてください」


 三枝は受け取って、すぐにページを探した。


 特集を見つけて、読み始めた。


 馬渕のインタビューを読んでいる途中で、三枝の目が潤んだ。


「馬渕さん、こんなに正直に話してるんですね」


「そうですね」


「すごい」三枝はページをめくりながら言った。「村上さんのも——良い言葉が残ってますね。言葉の骨を見つけること、という表現が」


「村田さんが、上手く整理してくれました」


「これ、吉田さんにも読ませていいですか」


「もちろん」


 三枝は吉田を呼んで、文芸誌を渡した。


 吉田は「読んでいいですか」と香織に確認してから、丁寧に読み始めた。


 読み終えて、吉田が言った。


「言葉の骨を見つける、という感覚が——少しだけ、分かってきた気がします。最近」


「そうですか」


「最初の頃は、誤字と表記のぶれしか見えませんでした。でも最近は、文章の中に、何か中心のようなものがある気がして。それを傷つけないように、周りを整えていく、という感覚が」


 香織は吉田を見た。


「それです」


「え」


「今あなたが言ったことが、言葉の骨を見つける、ということです」


 吉田は少し目を丸くした。


「私、できてますか」


「できてきています。感覚として掴み始めている。あとは、積み重ねるだけです」


 吉田はしばらく、その言葉を受け取っていた。


 それから、静かに頷いた。


「ありがとうございます」


 謝辞でも反論でもなく、ただ受け取った言葉だった。


 その受け取り方が、五月の頃より成熟していた。


 入社から半年で、吉田は確かに変わっていた。


---


 夕方、馬渕から内線が来た。


「文芸誌、読んだか」


「はい。昼に書店で買いました」


「桑田さんから連絡があった。特集の反響が大きいらしい。業界の人間から、直接連絡が来ているそうだ」


「どんな内容ですか」


「様々だと言っていた。共感するという内容もある。しかし中には——反発もあるらしい」


「反発」


「あのあとがきは、余計なことを書きすぎだ、という意見が、一部の年配の編集者から出ているそうだ。著者への謝罪は内輪でするべきで、公にする必要はない、という考え方だ」


 香織は少し考えた。


「その反発を、馬渕さんはどう思いますか」


「想定していた」馬渕は静かに言った。「あとがきを書く前から、そういう反応が出ることは分かっていた。しかし書いた。それは変わらない」


「なぜ想定していながら書いたんですか」


「反発があるということは、問いが届いたということだからだ。賛同だけが反響ではない。反発もまた、問いへの反応だ」


 桑田が言っていたことと、繋がっていた。


 問いを立てること。問いが立てば、考えることができる。賛同も反発も、問いへの応答だ。


「馬渕さん、それは水無月先生と同じことをしている気がします」


「同じこと?」


「水無月先生は、小説として問いを立てた。馬渕さんは、あとがきとして問いを立てた。形は違うけれど、やっていることは同じです」


 電話の向こうで、馬渕がしばらく黙った。


「そういう見方はしていなかった」


「問いを立てた人間は、反発を恐れない。水無月先生もそうでした」


「……そうかもしれない」


 馬渕の声が、少し変わった。


「村上さん、そういう言い方をするようになったな」


「どういう意味ですか」


「以前は、もっと短く答えていた。必要最低限のことだけを言っていた。今は——言うべきことを、ちゃんと言うようになった気がする」


 香織は少し考えた。


「水無月先生の案件から、学んだことです」


「そうか」


 馬渕は少し間を置いて、言った。


「今日の電話は、それだけだ。報告まで」


「ありがとうございました」


---


 電話を切った後、三枝が聞いた。


「何かありましたか」


「文芸誌の特集への、反発があるらしいです。一部の年配の編集者から」


「そうですか」三枝は少し眉を寄せた。「でも、反発があっても、馬渕さんは書いたことを後悔していませんよね」


「後悔していません」


「それで良いと思います」三枝は静かに言った。「正しいことをしたなら、反発があっても、正しいことは変わらない」


 二十八歳の言葉は、時に、三十年の経験より正確に核心を突く。


 香織は頷いた。


「そうですね」


---


 その週の金曜日、予期しない場所から連絡が来た。


 差出人は「越智」だった。


 先月、馬渕が会った人物だ。一九九七年に第一編集局にいた、桐嶋の下にいた人間。


*村上様。突然のご連絡をお許しください。馬渕さんからご連絡先を教えていただきました。一つだけ、お伝えしたいことがあって、メールしました。文芸誌の記事を読みました。校閲者が、言葉の骨を見つける、という表現が、ずっと頭に残っています。一九九七年に、私が見なかったものが、それだったかもしれません。あのとき、私にも言葉の骨が見える目があれば、何か違っていたかもしれない、と思いました。遅すぎる話ですが、伝えたかったです。*


 香織は、メールを読んで、しばらく考えた。


 越智という人間が、二十九年前に見なかったものについて、今考えている。


 遅すぎる、と越智は書いた。


 しかし、遅すぎることと、意味がないことは、別の話だ。


 馬渕のあとがきに書かれていた言葉と同じことを、今、越智は体で感じている。


 香織は返信した。


*越智様。ご連絡ありがとうございます。遅すぎることはありません。気づいたことは、いつでも意味があります。水無月先生の言葉が、あなたにも届いたということを、うれしく思います。*


 送信してから、この返信が正しいかどうか、少し考えた。


 しかし、正しいと思った。


 気づいたことは、いつでも意味がある。


 それは、馬渕に対しても、越智に対しても、藤堂寛二に対しても、言えることだ。


 水無月の言葉は、時間を選ばずに届く。


 三十年前に届かなかった言葉が、今届く。


 それが言葉の力だ。


---


 週が明けた月曜日、香織は出社してすぐに、ノートに書いた。


*言葉は、時間を選ばずに届く。三十年前に届かなかった言葉が、今届くことがある。届くことと、届かないことは、タイミングの問題でもある。しかし、書かれた言葉は、そのタイミングが来るまで、消えずに待つことができる。*


*校閲者は、その言葉を正しく整えることで、届く準備を整える。届く先は、書いた人間には分からない。しかし整えた言葉は、どこかに届く。*


 書き終えて、ペンを置いた。


 窓の外の街路樹が、今週でさらに色づいていた。


 緑の中に黄色と橙が混じり、木ごとに少しずつ違う色を持ち始めていた。


 言葉も、受け取る人間ごとに、少しずつ違う色で届く。


 越智には越智の色で。藤堂寛二には寛二の色で。三枝には三枝の色で。


 同じ言葉が、違う場所で、違う形で生きる。


 水無月透が書いた言葉が、今、それぞれの場所で、それぞれの色で生きている。


 それが、書かれた言葉の、最も豊かな在り方だと香織は思った。

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