第5話
十月になった。
街路樹の葉が、少しずつ色を変え始めた。緑の中に、黄色が混じり始める。その変化は、一日では分からない。しかし一週間経つと、確かに変わっている。
言葉の変化に似ている、と香織は思った。
一日では気づかない。しかし時間が経つと、確かに変わっている。
水無月の本が出てから、三週間が経った。
書店での売れ行きは、順調だった。馬渕からの報告によると、初版が完売に近い書店が出始め、重版の検討が始まっているという。文芸誌への掲載が複数決まり、読書会でこの本を取り上げたいという団体から連絡も来た。
水無月透という作家の名前が、少しずつ、広い場所に届いていった。
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十月の第一週、香織は一つの決断をした。
定年後の仕事について、具体的に動き始めることにした。
馬渕に話したとき、フリーランスとして校閲を続ける可能性を示唆されていた。桑田は、後進に伝えることを示唆していた。
どちらも、香織の中でずっと温めていたことだった。
しかし今日、もう一つの選択肢が浮かんだ。
桑田の出版社に、連絡してみようと思った。
水無月の本の共同刊行で一緒に仕事をした版元だ。桑田は「いつかあなたが後進に伝えるとき、その言葉が必要になる」と言った。
その言葉が、今も残っていた。
香織はメールを書いた。
*桑田様。先日は水無月氏の案件でお世話になりました。一点、ご相談があります。定年後の働き方について、ご意見を伺えますか。フリーランスとして校閲を続けることに加えて、何かお力になれることがあればと思っています。*
送信してから、少し驚いた。
自分からこういうメールを書くことは、これまでなかった。
しかし、書いた。
それが今の香織には、自然だった。
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桑田から返信が来たのは、翌日の午前中だった。
*村上さん、ご連絡ありがとうございます。実は、ちょうど相談したいことがあって、連絡しようと思っていました。今週中に、お時間はありますか。*
香織は木曜日の昼を提案した。桑田はすぐに了承した。
待ち合わせは、桑田の版元の近くの喫茶店になった。
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木曜日、桑田は約束の時間より少し早く来ていた。
今日は仕事着ではなく、落ち着いたカジュアルな服装だった。眼鏡の奥の目が、前回より柔らかく見えた。
「村上さん、来てくれてありがとうございます」
「こちらこそ、お時間をいただいて」
コーヒーを頼みながら、桑田が言った。
「私から先に話していいですか」
「はい」
「うちの版元で、校閲に関わる人材が不足しています。ベテランが退職して、若い担当者だけでは経験が足りない。フリーランスで入っていただける方を、探していました」
香織は桑田を見た。
「水無月氏の案件で、村上さんの仕事を見ていました。原稿を正確に読む力だけでなく、言葉の意図を掴む力がある。うちの若い担当者に、そういうものを見てほしいと思っていました」
「見る、というのは」
「フリーランスとして案件を受けていただくだけでなく、若い担当者の原稿に目を通して、フィードバックをいただく、という形も考えています。教育的な関与と言えばいいでしょうか」
後進に伝えること。
桑田の言葉が、具体的な形になっていた。
「私の定年は、来年の春です」
「知っています。馬渕さんから聞きました。だから、今のうちに話しておきたかった」
「今の会社との関係もあります。すぐに動けるかどうか、確認が必要です」
「もちろんです。検討していただければ十分です。ただ——」桑田は少し間を置いた。「村上さんの仕事を、うちの若い人間に見せたいと思っています。言葉の骨を見つける仕事を、実際に見ることは、説明を聞くより伝わることが多い」
香織は桑田の言葉を、静かに受け取った。
三枝が言っていた言葉を思い出した。
見ていて教わっていた、と。
言葉で教えることと、見せることは、違う。しかしどちらも、伝えることの形だ。
「考えてみます」
「ありがとうございます」
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コーヒーを飲みながら、桑田が言った。
「水無月氏の本、反響が来ていますか」
「馬渕さんから報告を受けています。順調だと聞いています」
「うちにも、読者からの手紙が何通か届きました」
「どんな内容でしたか」
「様々です。しかし多かったのは——あとがきを読んで、自分もこういう経験をしたことがある、という内容でした」
香織は少し驚いた。
「どういう経験ですか」
「言いたいことが言えなかった経験。正しいと思っていたことを、組織の中で黙らされた経験。そういう経験を持つ読者が、あとがきを読んで、何かを感じてくれた」
水無月の物語が、特定の出版業界の話だけではなく、もっと普遍的な経験として届いている。
「馬渕さんのあとがきが、その橋渡しをしていますね」
「そうだと思います。あとがきがなければ、この本は文芸作品として読まれるだけでした。しかし担当編集者が自分の失敗を認めて書いたあとがきがあることで、物語が現実と繋がった」
香織は頷いた。
「桑田さん、一つ聞いていいですか」
「はい」
「今回の本は、業界にとってどういう意味を持つと思いますか」
桑田はしばらく考えた。
「問いを投げた、ということだと思います。著者の言葉をどう扱うか。編集者の判断が、著者にとってどういう意味を持つか。校閲者は何を守るべきか。そういう問いを、業界全体に向けて投げた」
「答えは出ましたか」
「すぐには出ません」桑田は静かに言った。「しかし問いが立てば、考えることができる。問いのない場所では、考えることができない。水無月氏の本は、問いを立てた。それだけで、十分な意味があります」
問いを立てること。
水無月透は三十年間、問いを持ち続けた。その問いを、最後の原稿として書いた。
問いが残れば、誰かが考える。
言葉が残れば、誰かが読む。
それを、水無月は信じていた。
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桑田と別れた後、香織は会社に戻る途中で、書店に寄った。
発売から三週間経った、水無月の本の様子を見たかった。
文芸書のコーナーに行くと、新刊台から棚に移っていた。
しかし、棚の中で、ちゃんと背表紙が見えた。
深い紺色の背表紙。
*言葉の墓守 水無月透*
新刊台にあるときより、棚に並んでいる方が、定着した感じがした。
新刊台は、来たばかりの本の場所だ。棚は、そこにある本の場所だ。
水無月の本が、棚に定着し始めた。
それは、この本が本の世界に根を張り始めたということだ。
香織は背表紙に触れた。
指先に、紙の質感が伝わった。
正しくある、と思った。
この本は、正しくここにある。
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その夜、馬渕から電話が来た。
珍しかった。馬渕はいつもメールで連絡してくる。電話は、緊急のときか、直接話す必要があるときだ。
「今、話せるか」
「はい」
「重版が決まった」
香織は少し間を置いた。
「そうですか」
「初版から三週間で、重版がかかることは、今の文芸書では珍しい。桑田のところも、喜んでいた」
「良かったです」
「村上さん、重版のお知らせを、一番に伝えたかった」
馬渕の声には、珍しく弾むものがあった。
三十五年のベテランの、しかし今日は少し若い声だった。
「ありがとうございます」
「里緒さんにも、今電話した。泣いていた」
「そうですか」
「藤堂さんの兄にも、連絡する。あの方にも、知らせたかった」
馬渕が、自分から藤堂寛二に連絡する。
それは、馬渕の中で何かが変わった証拠だった。
連絡することが、自然になっている。
「馬渕さん、良い知らせをありがとうございました」
「こちらこそ。この本が重版になったのは、あなたが最初に正しく読んでくれたからだ」
「大げさです」
「大げさではない」馬渕は静かに言った。「本の質は、校閲で変わる。言葉が正しく立っているかどうかで、読む者に届く深さが変わる。今回の本は、正しく立っていた。それは、あなたの仕事があったからだ」
香織は答えなかった。
しかし受け取った。
電話を切った後、しばらくスマートフォンを手に持ったまま、座っていた。
重版。
水無月透の言葉が、さらに多くの人間に届く。
二刷、三刷と刷られるたびに、言葉は新しく生まれる。
水無月が信じていたことが、形として続いていく。
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香織はノートを開いた。
今夜書くべきことが、一つあった。
*重版が決まった。水無月透の言葉が、さらに届く。言葉は読まれるたびに新しく生きる。それが続くことを、水無月は信じていた。今日、その信頼が、また一歩先に進んだ。*
*馬渕さんが、一番に知らせてくれた。それは——この本に関わった全員への、報告だったと思う。言葉が届いている、という報告。*
書き終えて、ペンを置いた。
窓の外の街路樹が、風に揺れていた。
十月の夜風の中で、色づき始めた葉が揺れている。
秋が、深まっていた。
定年まで、あと八ヶ月を切っていた。
しかしその数字は、もう減っていく数字として見えなかった。
残り時間の中に、やれることがある。
その感覚が、今夜も確かにあった。




