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最後の校閲  作者: ジェミラン
第五章「言葉の墓守」
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第4話

 発売から一週間が経った。


 馬渕からの報告が、毎日のように来た。


 初版の三分の一が、最初の三日で売れた。書店からの追加注文が入り始めた。文芸専門の書評サイトに、長い感想が複数掲載された。業界紙が改めて取り上げた。


 そのどれもを、馬渕は短い文章で香織に伝えてきた。


 香織は毎回、短く返信した。


 報告を受けながら、香織は通常の仕事を続けた。新しいゲラが届いて、赤ペンを走らせた。別の案件の事実確認をした。吉田の仕上げた原稿を最終確認した。


 水無月の本が世に出た後も、仕事は変わらず続く。


 それが正しいことだと、香織は思っていた。


---


 発売から十日後、馬渕から少し長いメールが来た。


*報告があります。水無月氏の本に関して、ある文芸誌から連絡がありました。馬渕のあとがきを読んで、出版倫理について特集を組みたいという内容です。著者の言葉が、編集者の判断によって握り潰されることの問題を、業界全体で考えるきっかけにしたいと言っています。取材に応じようと思っています。村上さんにも、取材依頼が来る可能性があります。その際は、ご自身の判断でお答えください。*


 香織はメールを読んで、しばらく考えた。


 出版倫理の特集。


 水無月の本が、個人の物語を超えて、業界全体の問題として受け取られ始めている。桑田が言っていたことが、形になろうとしていた。


 この本の刊行が、業界の透明性について問いを投げかける。


 馬渕は、取材に応じると言った。


 自分はどうするか。


 校閲者が、こういう場で発言することは、通常しない。しかし今回は、通常ではない案件だった。


 香織は返信した。


*取材が来た場合、内容によっては応じます。校閲者の立場から、言えることと言えないことを判断した上で。*


 送信してから、少し驚いた。


 半年前の自分なら、こういう返信はしなかった。取材には応じません、と一言で終わらせていた気がする。


 変わった、と思った。


 良い方向に、と馬渕が言っていた言葉を思い出した。


---


 翌週、文芸誌の取材依頼が実際に来た。


 担当は、三十代半ばの女性編集者で、村田という名前だった。メールは丁寧で、押しつけがましくなかった。


*校閲者の立場から見た、今回の案件についてのお話を伺えれば幸いです。強制ではありませんので、お断りいただいても構いません。*


 香織は少し考えてから、会うことにした。


 場所は珈琲館ふじにした。


 今年、何度もここで大事な話をしてきた。今日もここが良いと思った。


---


 村田は、約束の時間より五分早く来ていた。


 三十代半ば、黒髪をまとめた、落ち着いた雰囲気の女性だ。小さなノートとペンを持っていた。スマートフォンの録音アプリではなく、手書きのノートで取材をする人間だ、と香織は思った。


「村上さんですか。村田です。お時間をいただいてありがとうございます」


「村上です。どうぞ、座ってください」


 コーヒーを頼んで、村田が口を開いた。


「今回の件、馬渕さんのあとがきを読んで、取材をしたいと思いました。こういうあとがきは、業界でも珍しいと思います」


「そうですね」


「校閲者の立場から見て、今回の案件は、どういうものでしたか」


 香織は少し考えてから、答えた。


「通常の校閲案件ではありませんでした。言葉を正すだけではなく、言葉を守ることが加わった案件でした」


「守る、というのは」


「この原稿が正しく世に出ることを、校閲者として支えることです。誰かが潰そうとしたとき、そこに留まり続けることです」


 村田はノートに書きながら聞いた。


「潰そうとした、というのは、桐嶋という元局長のことですか」


「詳細は話せません。ただ、圧力があったことは事実です」


「圧力に対して、どう判断しましたか」


「水無月先生の言葉に、助けてもらいました」


「どんな言葉ですか」


「沈黙もまた、暴力になる、という言葉です。日記に書かれていました」


 村田はその言葉を、丁寧に書き留めた。


「校閲者が、そういう判断をするのは、珍しいことですか」


「珍しいと思います。通常、校閲者は言葉を正すことに集中します。刊行の判断に関わることは、校閲者の領域ではありません」


「しかし今回は、関わった」


「関わらざるを得なかった、という方が正確です。言葉を正しく読んだ結果、この原稿が正しく世に出るべきだという確信が生まれました。その確信が、私を動かしました」


---


 村田はしばらく書き続けてから、顔を上げた。


「校閲という仕事を、三十年間されてきたと伺いました。その仕事の意味を、今回改めて感じましたか」


「感じました。しかし、改めてというより——深くなった、という感覚です」


「どういう意味ですか」


「三十年間、校閲の意味は知っていたつもりでした。しかし今回の案件で、それが頭の知識から体の感覚になりました」


「体の感覚」


「言葉の骨を見つけることが、これだけのことに繋がる。それを、理屈ではなく体で感じました」


 村田はその言葉をノートに書きながら、少し目を輝かせた。


「言葉の骨、というのは、あなた自身の言葉ですか」


「はい。著者が伝えたかったことの核心、と言い換えることもできます。どんなに装飾されていても、文章には必ず骨格がある。その骨格を見つけることが、校閲者の仕事の本質です」


「その骨格を見つけることが、今回、出版倫理の問題とどう繋がりましたか」


 香織はしばらく考えた。


「言葉の骨格を正しく読むことで、この原稿が何であるかが分かりました。誰かが残そうとした真実の記録であることが、分かりました。その記録を、また闇に葬ることは——言葉を正しく扱うことに反します。校閲者として、それは許容できませんでした」


 村田はノートから目を上げて、香織を見た。


「許容できなかった、というのは、感情的な判断ですか。それとも職業的な判断ですか」


「どちらでもある、と思います」香織は答えた。「感情と職業倫理が、同じ方向を向いていた。それが今回の案件でした」


---


 取材は一時間ほど続いた。


 最後に、村田が言った。


「一つだけ、個人的なことを聞いてもいいですか」


「内容によります」


「今回の仕事を通して、村上さん自身は、何かが変わりましたか」


 香織はしばらく考えた。


「変わった、というより——確認できた、という感じです」


「確認できた」


「三十年間信じてきたことが、本当だったと確認できた。言葉は時間に耐える。本物の言葉は、腐らない。それを、今回体で確認しました」


「三十年間信じてきたことを、改めて確認するために——この案件が必要だったということですか」


 その問いは、鋭かった。


 香織はすぐには答えなかった。


 確認するために必要だった、という言い方は、少し違う。しかし、結果として確認できた、というのは本当だ。


「必要だったかどうかは、分かりません。ただ、この案件がなければ、確認できなかったことは確かです」


「それは、良かったと思いますか。この案件に関わったことを」


「はい」


 迷いなく答えた。


「楽しかったですか」


 五月に馬渕に聞かれた問いと、同じ問いが来た。


「楽しかった、という部分が、ありました」


「楽しかった、という言葉が出るのは、意外でした。大変な案件だったと聞いていたので」


「大変だったことと、楽しかったことは、矛盾しません」


 村田はその言葉を書き留めながら、小さく頷いた。


「良い言葉ですね」


「水無月先生の案件から、学んだことです」


---


 喫茶店を出た後、香織は少し歩いた。


 駅とは逆方向に、川沿いの道を歩いた。


 九月の終わりの午後、空気は澄んでいた。川面が光を受けて、細かく揺れていた。


 取材で話したことを、頭の中で反芻した。


 言えたことと、言えなかったことがある。


 言えたことは、本当のことだった。


 言えなかったことも、本当のことだ。しかし、言葉にできないことがある。言葉にすることで、薄くなってしまうことがある。


 水無月透が、直接的な告発ではなく、小説として書いたのは、そういうことだったかもしれない、と香織は思った。


 言葉にできることと、言葉にすべきことは、一致しない。


 直接書けないから、小説として書く。


 しかしそれは、弱さではない。


 言葉の最も正直な使い方が、時に、迂回することだ。


 香織は川沿いの道を歩きながら、ノートに書くべき言葉を頭の中で探した。


 今夜帰ったら、書こうと思った。


 言葉にできることと、言葉にすべきことは、一致しない。しかし、言葉にしようとすることをやめてはいけない。


 その往復が、言葉を扱う者の仕事だ。


 校閲者も、作家も、編集者も、その往復の中にいる。


---


 帰宅して、ノートを開いた。


 今日考えたことを、書いた。


*言葉にできることと、言葉にすべきことは、一致しない。しかし、言葉にしようとすることをやめてはいけない。その往復が、言葉を扱う者の仕事だ。*


*大変だったことと、楽しかったことは、矛盾しない。どちらも本当のことが、同時にある。*


 書き終えて、ペンを置いた。


 川沿いの道で考えていたことが、少し形になった。


 まだ完全ではない。しかし、書くことで、少し先に進んだ。


 水無月透も、こうやって書いていたのかもしれない。


 完全ではないけれど、書く。書くことで、少し先に進む。それを三十年間続けた。


 香織も、この半年間、そうやって書いてきた。


 ノートの最初のページと、今日のページを比べると、言葉の密度が違う。内容が違う。温度が違う。


 同じ人間が書いた言葉なのに、半年でこれだけ変わった。


 言葉は、書く人間と一緒に変わる。


 書く人間は、言葉と一緒に変わる。


 その相互作用を、水無月透は三十年間続けた。


 香織は、この半年間だけだ。


 しかし、この半年間で変わったことは、確かにある。


 そして、この変化は続くと思った。


 定年まで、あと十ヶ月を切っている。


 しかし定年が来ても、言葉と関わることは続ける。形は変わるかもしれない。しかし、言葉の骨を見つけようとすることは、続ける。


 それが、今の香織の確信だった。


 お茶を入れて、窓の前に立った。


 九月の夜空に、星が出ていた。


 先月より、よく見えた。


 空気が澄んでいるからだ。


 言葉も、澄んでいるときに、よく見える。

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