第4話
発売から一週間が経った。
馬渕からの報告が、毎日のように来た。
初版の三分の一が、最初の三日で売れた。書店からの追加注文が入り始めた。文芸専門の書評サイトに、長い感想が複数掲載された。業界紙が改めて取り上げた。
そのどれもを、馬渕は短い文章で香織に伝えてきた。
香織は毎回、短く返信した。
報告を受けながら、香織は通常の仕事を続けた。新しいゲラが届いて、赤ペンを走らせた。別の案件の事実確認をした。吉田の仕上げた原稿を最終確認した。
水無月の本が世に出た後も、仕事は変わらず続く。
それが正しいことだと、香織は思っていた。
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発売から十日後、馬渕から少し長いメールが来た。
*報告があります。水無月氏の本に関して、ある文芸誌から連絡がありました。馬渕のあとがきを読んで、出版倫理について特集を組みたいという内容です。著者の言葉が、編集者の判断によって握り潰されることの問題を、業界全体で考えるきっかけにしたいと言っています。取材に応じようと思っています。村上さんにも、取材依頼が来る可能性があります。その際は、ご自身の判断でお答えください。*
香織はメールを読んで、しばらく考えた。
出版倫理の特集。
水無月の本が、個人の物語を超えて、業界全体の問題として受け取られ始めている。桑田が言っていたことが、形になろうとしていた。
この本の刊行が、業界の透明性について問いを投げかける。
馬渕は、取材に応じると言った。
自分はどうするか。
校閲者が、こういう場で発言することは、通常しない。しかし今回は、通常ではない案件だった。
香織は返信した。
*取材が来た場合、内容によっては応じます。校閲者の立場から、言えることと言えないことを判断した上で。*
送信してから、少し驚いた。
半年前の自分なら、こういう返信はしなかった。取材には応じません、と一言で終わらせていた気がする。
変わった、と思った。
良い方向に、と馬渕が言っていた言葉を思い出した。
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翌週、文芸誌の取材依頼が実際に来た。
担当は、三十代半ばの女性編集者で、村田という名前だった。メールは丁寧で、押しつけがましくなかった。
*校閲者の立場から見た、今回の案件についてのお話を伺えれば幸いです。強制ではありませんので、お断りいただいても構いません。*
香織は少し考えてから、会うことにした。
場所は珈琲館ふじにした。
今年、何度もここで大事な話をしてきた。今日もここが良いと思った。
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村田は、約束の時間より五分早く来ていた。
三十代半ば、黒髪をまとめた、落ち着いた雰囲気の女性だ。小さなノートとペンを持っていた。スマートフォンの録音アプリではなく、手書きのノートで取材をする人間だ、と香織は思った。
「村上さんですか。村田です。お時間をいただいてありがとうございます」
「村上です。どうぞ、座ってください」
コーヒーを頼んで、村田が口を開いた。
「今回の件、馬渕さんのあとがきを読んで、取材をしたいと思いました。こういうあとがきは、業界でも珍しいと思います」
「そうですね」
「校閲者の立場から見て、今回の案件は、どういうものでしたか」
香織は少し考えてから、答えた。
「通常の校閲案件ではありませんでした。言葉を正すだけではなく、言葉を守ることが加わった案件でした」
「守る、というのは」
「この原稿が正しく世に出ることを、校閲者として支えることです。誰かが潰そうとしたとき、そこに留まり続けることです」
村田はノートに書きながら聞いた。
「潰そうとした、というのは、桐嶋という元局長のことですか」
「詳細は話せません。ただ、圧力があったことは事実です」
「圧力に対して、どう判断しましたか」
「水無月先生の言葉に、助けてもらいました」
「どんな言葉ですか」
「沈黙もまた、暴力になる、という言葉です。日記に書かれていました」
村田はその言葉を、丁寧に書き留めた。
「校閲者が、そういう判断をするのは、珍しいことですか」
「珍しいと思います。通常、校閲者は言葉を正すことに集中します。刊行の判断に関わることは、校閲者の領域ではありません」
「しかし今回は、関わった」
「関わらざるを得なかった、という方が正確です。言葉を正しく読んだ結果、この原稿が正しく世に出るべきだという確信が生まれました。その確信が、私を動かしました」
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村田はしばらく書き続けてから、顔を上げた。
「校閲という仕事を、三十年間されてきたと伺いました。その仕事の意味を、今回改めて感じましたか」
「感じました。しかし、改めてというより——深くなった、という感覚です」
「どういう意味ですか」
「三十年間、校閲の意味は知っていたつもりでした。しかし今回の案件で、それが頭の知識から体の感覚になりました」
「体の感覚」
「言葉の骨を見つけることが、これだけのことに繋がる。それを、理屈ではなく体で感じました」
村田はその言葉をノートに書きながら、少し目を輝かせた。
「言葉の骨、というのは、あなた自身の言葉ですか」
「はい。著者が伝えたかったことの核心、と言い換えることもできます。どんなに装飾されていても、文章には必ず骨格がある。その骨格を見つけることが、校閲者の仕事の本質です」
「その骨格を見つけることが、今回、出版倫理の問題とどう繋がりましたか」
香織はしばらく考えた。
「言葉の骨格を正しく読むことで、この原稿が何であるかが分かりました。誰かが残そうとした真実の記録であることが、分かりました。その記録を、また闇に葬ることは——言葉を正しく扱うことに反します。校閲者として、それは許容できませんでした」
村田はノートから目を上げて、香織を見た。
「許容できなかった、というのは、感情的な判断ですか。それとも職業的な判断ですか」
「どちらでもある、と思います」香織は答えた。「感情と職業倫理が、同じ方向を向いていた。それが今回の案件でした」
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取材は一時間ほど続いた。
最後に、村田が言った。
「一つだけ、個人的なことを聞いてもいいですか」
「内容によります」
「今回の仕事を通して、村上さん自身は、何かが変わりましたか」
香織はしばらく考えた。
「変わった、というより——確認できた、という感じです」
「確認できた」
「三十年間信じてきたことが、本当だったと確認できた。言葉は時間に耐える。本物の言葉は、腐らない。それを、今回体で確認しました」
「三十年間信じてきたことを、改めて確認するために——この案件が必要だったということですか」
その問いは、鋭かった。
香織はすぐには答えなかった。
確認するために必要だった、という言い方は、少し違う。しかし、結果として確認できた、というのは本当だ。
「必要だったかどうかは、分かりません。ただ、この案件がなければ、確認できなかったことは確かです」
「それは、良かったと思いますか。この案件に関わったことを」
「はい」
迷いなく答えた。
「楽しかったですか」
五月に馬渕に聞かれた問いと、同じ問いが来た。
「楽しかった、という部分が、ありました」
「楽しかった、という言葉が出るのは、意外でした。大変な案件だったと聞いていたので」
「大変だったことと、楽しかったことは、矛盾しません」
村田はその言葉を書き留めながら、小さく頷いた。
「良い言葉ですね」
「水無月先生の案件から、学んだことです」
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喫茶店を出た後、香織は少し歩いた。
駅とは逆方向に、川沿いの道を歩いた。
九月の終わりの午後、空気は澄んでいた。川面が光を受けて、細かく揺れていた。
取材で話したことを、頭の中で反芻した。
言えたことと、言えなかったことがある。
言えたことは、本当のことだった。
言えなかったことも、本当のことだ。しかし、言葉にできないことがある。言葉にすることで、薄くなってしまうことがある。
水無月透が、直接的な告発ではなく、小説として書いたのは、そういうことだったかもしれない、と香織は思った。
言葉にできることと、言葉にすべきことは、一致しない。
直接書けないから、小説として書く。
しかしそれは、弱さではない。
言葉の最も正直な使い方が、時に、迂回することだ。
香織は川沿いの道を歩きながら、ノートに書くべき言葉を頭の中で探した。
今夜帰ったら、書こうと思った。
言葉にできることと、言葉にすべきことは、一致しない。しかし、言葉にしようとすることをやめてはいけない。
その往復が、言葉を扱う者の仕事だ。
校閲者も、作家も、編集者も、その往復の中にいる。
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帰宅して、ノートを開いた。
今日考えたことを、書いた。
*言葉にできることと、言葉にすべきことは、一致しない。しかし、言葉にしようとすることをやめてはいけない。その往復が、言葉を扱う者の仕事だ。*
*大変だったことと、楽しかったことは、矛盾しない。どちらも本当のことが、同時にある。*
書き終えて、ペンを置いた。
川沿いの道で考えていたことが、少し形になった。
まだ完全ではない。しかし、書くことで、少し先に進んだ。
水無月透も、こうやって書いていたのかもしれない。
完全ではないけれど、書く。書くことで、少し先に進む。それを三十年間続けた。
香織も、この半年間、そうやって書いてきた。
ノートの最初のページと、今日のページを比べると、言葉の密度が違う。内容が違う。温度が違う。
同じ人間が書いた言葉なのに、半年でこれだけ変わった。
言葉は、書く人間と一緒に変わる。
書く人間は、言葉と一緒に変わる。
その相互作用を、水無月透は三十年間続けた。
香織は、この半年間だけだ。
しかし、この半年間で変わったことは、確かにある。
そして、この変化は続くと思った。
定年まで、あと十ヶ月を切っている。
しかし定年が来ても、言葉と関わることは続ける。形は変わるかもしれない。しかし、言葉の骨を見つけようとすることは、続ける。
それが、今の香織の確信だった。
お茶を入れて、窓の前に立った。
九月の夜空に、星が出ていた。
先月より、よく見えた。
空気が澄んでいるからだ。
言葉も、澄んでいるときに、よく見える。




