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最後の校閲  作者: ジェミラン
第五章「言葉の墓守」
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第3話

 九月十五日、金曜日。


 香織は普段より三十分早く起きた。


 意図したわけではなかった。目が覚めたら、六時前だった。二度寝しようとしたが、できなかった。頭の中が、静かに醒めていた。


 台所でお茶を入れて、窓の外を見た。


 九月の朝は、空気が澄んでいた。夏の湿気が抜けて、光の輪郭が鋭くなっている。街路樹の葉が、朝の光を受けて細かく揺れていた。


 今日、水無月透の本が書店に並ぶ。


 その事実を、香織は朝の光の中で確認した。


 感情が高ぶっているわけではない。しかし、体の中心に、静かな熱のようなものがあった。炎ではなく、炭火のような熱だ。静かで、しかし確かにある。


 お茶を飲み終えてから、香織は出かける準備をした。


 今日は会社に行く前に、書店に寄る。待ち合わせは十時だが、その前に一人で行きたかった。


 誰かと一緒に見る前に、一人で確認したいことがあった。


---


 九時前に、書店に着いた。


 待ち合わせ場所に指定した書店は、駅から徒歩三分の、中規模の書店だ。文芸書の品揃えが良く、新刊の展開が丁寧なことで知られている。馬渕が選んだ。


 開店直後の店内は、まだ人が少なかった。


 香織は文芸書のコーナーに向かった。


 新刊の台が、入口に近い場所に設置されていた。


 見た瞬間に、分かった。


 深い紺色の背表紙が、新刊台の一角に並んでいた。


 十冊ほどが、表紙を見せる形で置かれていた。


*言葉の墓守 水無月透*


 白い文字が、紺の中に浮かんでいた。


 香織は、その前に立った。


 動かなかった。


 しばらく、ただそこに立っていた。


 地下の書庫で、段ボール箱の中に眠っていた言葉が、今、書店の台の上に並んでいる。


 二十九年前に没になった原稿と、最後の一年をかけて書かれた遺稿が、一冊になって、ここにある。


 香織は手を伸ばして、一冊を手に取った。


 重さが、手のひらに伝わった。


 見本誌で触れたときと同じ重さだ。しかし今日は、違う重さに感じた。


 書店の棚に並んだ本は、誰かに読まれるための本だ。


 見本誌は、関係者に届けられるものだ。


 しかし今日の一冊は、誰かが手に取って、レジに持っていって、家に持ち帰って、読む本だ。


 その違いが、重さの違いとして手のひらに伝わった。


---


 本を持ったまま、奥付を開いた。


*校閲 村上香織*


 活字になった自分の名前を、もう一度確認した。


 見本誌で確認したときとは、また違う感覚があった。


 見本誌は、関係者だけが手にするものだ。しかしこの本は、書店に来た誰かが手に取る。その誰かが、奥付を開けば、村上香織という名前を見る。


 その名前が、校閲者という仕事と一緒に、見知らぬ誰かの目に触れる。


 校閲という仕事が、何をするものか、その誰かは知らないかもしれない。しかし、この本に関わった人間として、名前が残っている。


 三十年間、奥付に名前がなかった。


 それが正しいと思っていた。校閲者は、見えない場所で働く。それが仕事の在り方だと。


 しかし今は、見えることにも意味があると知っている。


 次の校閲者のために。


 次の、言葉の墓守のために。


---


 本をそっと台に戻して、香織は少し離れた場所から、台を眺めた。


 深い紺色が、新刊台の中で静かに主張していた。派手ではない。しかし、目が引き寄せられる。密度がある。


 デザイナーの仕事が、正しく機能していた。


 香織は時計を見た。九時二十分。待ち合わせまで、四十分ある。


 店内を少し歩いた。


 文芸書のコーナーを、ゆっくりと見て回った。


 背表紙が並ぶ棚を見ながら、一冊一冊に校閲者がいたことを思った。


 誰かが、言葉の骨を見つけた。誰かが、赤ペンを走らせた。誰かが、事実を確認した。誰かが、表記のぶれを整えた。


 その仕事の跡は、どこにも見えない。


 しかし確かに、そこにある。


 すべての本の中に、見えない仕事がある。


 三十年間知っていたことだが、今日は改めて、その事実が体に沁みた。


---


 十時少し前に、里緒が来た。


 今日は白いシャツに、明るいグレーのジャケットを着ていた。春に初めて会ったときの黒いコートから、季節と気持ちが変わっていくのが、服の色に出ていた。


「村上さん、早かったですね」


「少し前に来ていました」


「もう見ましたか、本」


「見ました」


 里緒は香織の顔を見て、「どうでしたか」と聞いた。


「ちゃんと、ありました」


 その一言で、里緒には伝わったようだった。


「私も見たい」


 二人で新刊台に向かった。


 里緒は台の前で立ち止まり、しばらく動かなかった。


 香織も、隣で黙って立っていた。


 里緒の目が、かすかに潤んだ。


 しかし涙は出なかった。


 見本誌を見たときに泣いて、今日は泣かない。それで良いのだと、香織は思った。泣くことと、受け取ることは、別の働きをする。今日の里緒は、受け取っていた。


「父が、ここにいる」


 里緒が小さく言った。


「そうですね」


「棚に並んでいる。誰かに読まれるために、ここにいる」


 香織は頷いた。


---


 十時を少し過ぎて、馬渕が来た。


 続いて、三枝と大石が一緒に来た。


 五人が、新刊台の前に集まった。


 大石は本を見て、「本物だ」と言った。それだけの言葉だったが、その言葉の中に、関わった者の実感が入っていた。


 馬渕は台の前に立って、しばらく動かなかった。


 その背中を、香織は見ていた。


 三十年前、この人間が水無月の言葉を闇に葬った。その同じ人間が、今日、その言葉が書店に並ぶのを見ている。


 それがどんな気持ちかは、馬渕にしか分からない。


 しかし背中が、すべてを語っていた。


 軽くはない背中だった。しかし、正しく立っている背中だった。


 馬渕がゆっくりと一冊を手に取った。


 表紙を見た。奥付を開いた。


 何かを確認してから、そっと台に戻した。


 振り返って、里緒を見た。


「水無月先生に、報告できた気がします」


 馬渕の声は、低かった。


 里緒は頷いた。


「父も、そう思っていると思います」


 そのやり取りを、香織は少し離れた場所から聞いていた。


 三枝が隣に来て、小声で言った。


「良かったですね」


「そうですね」


「村上さん、今どんな気持ちですか」


 香織は少し考えた。


「言葉が届いた、という気持ちです」


「水無月さんの言葉が、ですか」


「はい。それから——校閲者の仕事が、届いた、という気持ちも」


 三枝はその言葉を聞いて、少し目を潤ませた。


「それ、大石に教えていいですか」


「どうぞ」


 三枝は大石に近づいて、小声で何かを伝えた。大石は頷きながら、香織を見た。


 その目に、敬意があった。


 会ったことが数えるほどしかない人間の目に、敬意がある。


 それは、校閲という仕事への敬意だった。


 香織は大石に、小さく頷いた。


---


 五人でそれぞれ一冊ずつ買った。


 レジで自分の担当した本を買う、という経験を、香織は初めてした。


 レジ担当の若い店員が、「こちら、今日発売の新刊ですね」と言った。


「そうです」


「話題になっている本ですね。さっきも何冊か売れました」


 さっきも何冊か売れた。


 香織がここに来る前から、誰かが手に取っていた。


 水無月の言葉が、もうすでに、見知らぬ誰かの手に渡っている。


 袋に入れてもらった本を受け取りながら、香織はその事実を、静かに受け取った。


---


 書店を出た後、五人で近くの喫茶店に入った。


 珈琲館ふじだった。


 里緒と何度も来た店だ。しかし五人で来るのは初めてで、窓際の席では足りず、奥のテーブル席に案内された。


 コーヒーを頼んで、しばらく誰も話さなかった。


 沈黙が、重くなかった。


 同じことを経験した人間が、その余韻の中にいる時間だった。


 最初に口を開いたのは、大石だった。


「水無月さんの本、読んでよかったです。古本で買った『夜の棚卸し』と、合わせて読むと、一人の作家の三十年間が見えてくる気がして」


「そうですね」里緒が言った。「父の三十年間が、言葉の中に入っています」


「あとがきも、良かったです」大石は馬渕を見た。「正直に書いてある、という感じがして」


 馬渕は「ありがとう」と言った。短く、しかし確かな言葉として。


 三枝が言った。


「村上さん、次の仕事は何ですか」


「来月刊行の、現代小説のゲラです」


「もう動いているんですね」


「校閲の仕事は、常に次がある」


「でも、今日くらいは——余韻に浸ってもいいんじゃないですか」


 香織は少し考えた。


「浸っています」


「え」


「今日の、この時間が——余韻の中にいる時間です。ただ、私の余韻は、静かなだけで」


 三枝は少し笑った。


「そうか。村上さんの余韻は静かなんですね」


「そういうものです」


---


 喫茶店を出た後、香織は里緒と少しだけ、二人で話した。


 他の三人が先に歩いていくのを見送りながら、里緒が言った。


「村上さん、また会えますか」


「はい。いつでも」


「父の本が、これからどう読まれていくか——見ていきたいと思っています。一人で見るより、一緒に見ていける人がいると、うれしいです」


「一緒に見ます」


 里緒は頷いた。


「ありがとうございます。父の言葉が、村上さんのところに届いて——良かったです」


 その言葉が、今日一番深く、香織の胸に残った。


 父の言葉が、あなたのところに届いて、良かった。


 言葉は、届く場所を選ばない。


 しかし、届く場所によって、言葉の生き方が変わる。


 水無月の言葉は、香織のところに届いた。


 そして香織を通して、馬渕に届いた。里緒に届いた。三枝に届いた。大石に届いた。藤堂寛二に届いた。越智に届いた。


 書店で本を買った、見知らぬ誰かにも、届きつつある。


 言葉は、届くたびに新しく生きる。


 それが、水無月透が三十年間信じ続けたことだった。


 そして今日、その信頼が正しかったことを、香織は書店の台の前で確認した。

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