第2話
九月十五日が近づくにつれて、馬渕からの連絡が増えた。
書店からの注文状況、重版の可能性についての出版社との打ち合わせ、メディアへの掲載依頼。それらを馬渕は手際よく捌きながら、その都度香織に短い報告を入れてきた。
報告の必要がない案件も含まれていた。
香織の仕事は校閲で、刊行後の営業や広報は別の人間の領域だ。しかし馬渕は、報告してきた。
なぜか、と考えて、香織はすぐに分かった。
馬渕にとって、香織に伝えることが必要なのだ。この本の成立に深く関わった人間として、進捗を共有することが、馬渕の中で自然になっていた。
それは、信頼の形だった。
香織は毎回、短く返信した。
*承知しました。ありがとうございます。*
その六文字が、今月に入ってから少し変わった気がした。
義務として返信しているのではなく、受け取ったという事実を、言葉として返したかった。
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九月十一日、月曜日。
発売まで四日前になった。
三枝が出社してきた朝、「村上さん、今週末ですね」と言った。
「そうですね」
「どんな気持ちですか」
どんな気持ちか。
香織は少し考えた。
「静かな気持ちです」
「静か、ですか」もっと違う言葉を期待していたのか、三枝は少し意外そうだった。
「興奮しているわけではないし、緊張しているわけでもない。ただ——来るべきものが来る、という感じです」
「来るべきものが来る」三枝は繰り返した。「そういう感じ、なんですね」
「水無月先生の言葉が、書店に並ぶことは——最初から、そうなるべきだったことです。三十年遅れたけれど、正しい場所に向かっている。だから、静かな気持ちです」
三枝はしばらく香織を見た。
「村上さんらしい表現ですね」
「そうですか」
「はい。騒がない。でも、ちゃんとそこにある。村上さんの言葉って、いつもそういう感じがします」
香織は三枝の言葉を、静かに受け取った。
騒がない。しかし、ちゃんとそこにある。
それは、自分が目指してきた文章の在り方でもあった。
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火曜日の午後、予期しない連絡が届いた。
差出人は、見知らぬアドレスだった。
件名には「水無月透作品について」と書かれていた。
開くと、こう書かれていた。
*村上様。突然のご連絡をお許しください。私は出版業界の端に長年おりました、越智と申します。水無月透氏の作品が刊行されると業界紙で拝見し、ご連絡しました。水無月氏の二作目が一九九七年に没になった際、私は第一編集局に在籍しておりました。あのとき、何かできたのではないかと、ずっと思っていました。もし可能であれば、お会いして、当時のことをお話ししたいと思っています。*
香織は、メールを二度読んだ。
越智、という名前は知らない。しかし、一九九七年に第一編集局にいた人間が、二十九年後にこのメールを送ってきた。
桐嶋の部下だったのか。あるいは、桐嶋の行為を知りながら黙っていた人間の一人なのか。どちらにせよ、今さら何かを変えられるわけではない。
しかし、この人間は連絡してきた。
黙っていることもできたはずなのに。
香織は少し考えてから、馬渕に転送した。
*こういうメールが届きました。対応をどうするか、馬渕さんに判断していただきたいと思います。*
馬渕からすぐに返信が来た。
*知っている名前です。当時、第一編集局にいた人間で、桐嶋の下にいました。悪い人間ではありませんでした。ただ、組織の中で何もできなかった人間です。私と同じように。会ってみます。*
私と同じように。
馬渕はそう書いた。
自分と同じ罪の重さを持つ人間として、会おうとしている。
その判断を、香織は正しいと思った。
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水曜日の昼、馬渕が校閲部に来た。
珍しく、昼の時間帯だった。
「少し話せるか」
「はい」
馬渕は椅子を引いて座った。
「越智に、今朝会ってきた」
「早いですね」
「早い方がいいと思った。発売前に会っておきたかった」
「どんな方でしたか」
「六十を過ぎた、小柄な男だ。業界の端の方で、細々と仕事をしていると言っていた。水無月の本が出ると知って、ずっと気になっていたらしい」
「当時のことを、話してくれましたか」
「話してくれた。九七年に、水無月の原稿が没になる過程を、端で見ていたと。桐嶋が動いていることは分かっていたが、自分には止める力がなかった。黙っていた、と」
馬渕は少し間を置いた。
「俺と同じ話だった。黙っていた、という部分が」
「馬渕さんは、何と言いましたか」
「同じだと言った。俺も黙っていた。その結果がどうなったか、今回の本のあとがきに書いた。読んでほしいと言った」
越智という人間に、あとがきを読んでほしいと言った。
馬渕は自分の言葉を、次の人間への道として使おうとしている。
「越智は、本を買うと言っていた。発売日に書店に行って、買うと」
「そうですか」
「書店に行く人間が、また一人増えた」
馬渕は少し口元を動かした。
その表情が、珍しく軽かった。三十年分の重さが、少しずつ降りていく過程が、その表情に見えた。
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木曜日になった。
発売まで、あと二日だ。
香織は通常の仕事をこなしながら、今週で何度目かになる、水無月のことを考えた。
この一年は、水無月透という作家と過ごした一年だった。
正確には、七ヶ月ほどだ。二月の末に遺稿が届いて、九月の半ばに発売される。その七ヶ月間が、密度として一年分に感じられた。
水無月の言葉と向き合い、日記を読み、里緒と会い、馬渕と話し、桐嶋の手紙を受け取り、藤堂寛二の訪問を受けた。
それらすべてが、一冊の遺稿から始まった。
校閲という仕事が、これだけのことを動かした。
言葉を正しく読もうとしたことが、これだけのことに繋がった。
三十年間、そのことに気づかなかった、とは思わない。
しかし今回ほど、体で感じたことはなかった。
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夕方、三枝が言った。
「村上さん、明後日、何時に書店で待ち合わせですか」
「里緒さんと馬渕さんと打ち合わせて、十時にしました」
「十時ですね。私も行っていいですか」
「里緒さんが誘ってくれていました。三枝さんも、と」
「本当に?」三枝の顔が、ぱっと明るくなった。「じゃあ大石も誘っていいですか」
「里緒さんに確認します」
里緒に連絡すると、すぐに返信が来た。
*もちろんです。大石さんにも、ぜひ来てほしいです。*
三枝に伝えると、すぐにスマートフォンを取り出してメッセージを打ち始めた。
「大石、絶対喜ぶ。あの人、水無月さんの本、ずっと気にしていたから」
香織は三枝の様子を見ながら、思った。
九月十五日、書店に集まる人間が増えた。
里緒、馬渕、三枝、大石、そして香織。
それぞれが、それぞれの場所で、この本の成立に関わった人間たちが、一冊の本を前に集まる。
言葉が、人を集める。
それが、言葉の持つ力の一つだ。
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その夜、香織は帰宅してから、ノートを開いた。
今年書いてきた言葉を、最初のページから読み返した。
一月の乾いた言葉。二月の水無月との出会い。三月の日記、四月の葛藤、五月の変化、六月の確認、七月の成長、八月の見本誌。
そして九月。
発売まで二日になった今夜の言葉を、書いた。
*来るべきものが来る。水無月透の言葉が、正しい場所に向かっている。三十年遅れても、向かっている。遅れたことは変えられない。しかし向かっていることは、今この瞬間の事実だ。*
*校閲者の仕事は、終わった。しかし言葉は、これから始まる。*
書き終えて、ノートを閉じた。
校閲者の仕事は終わった。しかし言葉は、これから始まる。
その二文が、今夜書けた。
それで、今日は十分だった。
越智という新たな人物の登場と馬渕の対応、書店集合メンバーの拡大、そして「校閲者の仕事は終わった。しかし言葉は、これから始まる」というノートの一文で、発売日への助走が静かに加速しています。
次は**第五章 第3話**——いよいよ九月十五日、発売当日へ。「続けてください」でお声がけください!




