第1話
九月になった。
夏の熱気が少しずつ薄れて、朝と夕方に秋の気配が混じり始めた。空の色が変わった。夏の白っぽい青から、深みのある青へ。その変化を、香織は毎朝窓から確認した。
季節の変わり目は、言葉の変わり目に似ている、と思うことがある。
一つの言葉が、少しずつ別の言葉に近づいていく。完全に変わるのではなく、前の言葉の名残を持ちながら、新しい意味に近づいていく。夏の名残を持ちながら、秋になっていく空のように。
出社しながら、香織は九月十五日のことを考えた。
あと二週間だ。
水無月透の本が、書店に並ぶ日まで。
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九月の第一週は、新しい案件に集中した。
来月刊行予定の、現代小説のゲラだ。三十代の作家の第三作。文体は軽快で、テンポが良い。しかし固有名詞の扱いが粗く、同一の場所や人物の表記が章をまたぐとぶれている。
赤ペンを走らせながら、香織は一つ一つ確認した。
この作業は、水無月の原稿と全く性質が違う。感情的な重みはない。しかし、丁寧にやらなくてはならないことに変わりはない。
すべての言葉に、同じ目を向ける。
それが変わらない掟だ。
午前中の作業を終えた頃、三枝が声をかけてきた。
「村上さん、吉田さんが相談したいことがあるって」
「どうぞ」
吉田が、少し緊張した様子で近づいてきた。
「あの、今担当している原稿なんですが、一カ所だけ、どう判断すればいいか分からない箇所があって」
「見せてください」
吉田が原稿を広げた。
該当箇所は、登場人物の台詞だった。方言が使われていて、標準語では書かれていない部分がある。その方言の表記が、作中で統一されていない箇所があった。
「方言の表記は、著者に確認すべきか、それとも校閲者が統一すべきか、どちらですか」
香織は原稿を確認した。
「これは、著者に確認します」
「なぜですか」
「方言の表記は、著者の意図が入っている可能性があります。統一されていないことが、意図的かもしれない。同じ人物でも、話す相手によって方言の濃さを変えている、という表現の可能性がある。それを校閲者が勝手に統一することは、著者の意図を壊すかもしれない」
吉田は頷きながら、メモを取った。
「ただし、確認する前に、まず自分で読んで判断を持っておく。著者に確認する際に、こういう解釈をしたがどうか、という形で聞く。そうすれば、著者の答えも引き出しやすい」
「自分の解釈を持ってから聞く、ということですか」
「はい。答えをもらうための質問ではなく、解釈を確認するための質問をする。それが、著者との正しい関わり方です」
吉田は頷いた。
「分かりました。まず自分で読み直して、解釈を持ってから、著者に確認します」
「それで良いです」
吉田が戻っていく背中を見ながら、三枝が小声で言った。
「吉田さん、伸びてますね」
「そうですね」
「村上さんの教え方が良いから」
「吉田さん自身が伸びているんです。私はただ、聞かれたことに答えているだけです」
三枝は笑った。
「またそういうことを言う」
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週の半ば、里緒から電話があった。
「見本誌、受け取りました」
「どうでしたか」
「泣きました」里緒は落ち着いた声で言った。「本になっているのを見て、泣きました。でも——悲しくて泣いたんじゃないです。安心して、泣きました」
「安心して」
「父の言葉が、ちゃんと形になっていた。正しく残っていた。それが——安心でした」
正しく残っていた。
著者校のときも、里緒は同じ言葉を使った。
その言葉が、香織の仕事の意味を最も正確に表している、と今も思う。
「村上さん、奥付、見ました」
「はい」
「村上香織、という名前が入っていて——なんか、うれしかったです。父の本に、村上さんの名前がある。この本に関わった人間として、残っている」
「里緒さんが、希望してくれたからです」
「でも、馬渕さんも村上さん自身も、それを受け入れてくれた。だから残っている」
香織は黙って聞いた。
「九月十五日、一緒に書店に行きましょう。約束、覚えていますか」
「覚えています。楽しみにしています」
電話を切った後、香織はしばらくスマートフォンを手に持ったまま座っていた。
安心して泣いた、という里緒の言葉が、胸の中に残っていた。
父の言葉が正しく残っていることへの、安心。
それが、校閲者の仕事が届いた場所だ。
読者に気づかれない場所で働く仕事が、しかし確かに届いた場所。
里緒の涙が、それを示していた。
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九月に入ってから、業界紙に水無月の本についての短い記事が出た。
三枝が見つけて、香織に見せた。
記事は短かった。一九九七年に一作を出した後、沈黙していた作家の遺稿と幻の二作目が同時刊行される、という内容だった。馬渕のあとがきについても触れられていた。担当編集者が、二十九年前の判断の誤りを自ら認める異例のあとがきが収録されている、と。
「結構、注目されてますね」三枝が言った。
「そうですね」
「良いことだと思います。ちゃんと読まれる本になる」
香織も、そう思った。
水無月の言葉が、広く読まれる。
三十年間待っていた言葉が、多くの人間に届く。
それが、この本の本来の在り方だ。
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その日の夕方、思いがけない来客があった。
藤堂寛二だった。
先月以来、二度目の訪問だ。
今日はコートを着ていなかった。秋の入り口の軽いジャケット姿で、前回より少し顔色が良かった。
「また、突然お邪魔して申し訳ありません」
「いいえ。どうぞ、座ってください」
藤堂寛二は椅子に座り、バッグから一冊の本を取り出した。
見本誌だった。
馬渕が届けていたのだ、と香織は気づいた。
「先日、馬渕さんという方から送っていただきました。弟のことが書かれているとおっしゃって」
「読まれましたか」
「読みました。二度」藤堂寛二は本を手に持ったまま言った。「弟のことが、正確に書かれていました。名前だけではなく、弟の在り方が。正しいことを正しいと言うことしかできなかった、という弟の性分が」
香織は頷いた。
「それを書いた方が、もう亡くなっているということが——残念です。直接、お礼を言いたかった」
「水無月先生は、藤堂さんのことを、最後まで覚えていました。それだけは、確かです」
藤堂寛二は少し目を細めた。
「一つだけ、お聞きしていいですか」
「はい」
「弟は、幸せだったと思いますか」
香織はしばらく考えた。
簡単に答えられる問いではない。しかし、誠実に向き合わなくてはならない問いだ。
「幸せかどうか、私には分かりません。しかし——弟さんは、正直にやれた、と思います」
「正直にやれた」
「信じていたことを、最後まで信じていた。それは、誰にでもできることではありません。正直にやれた、ということは——それだけで、意味があったと思います」
藤堂寛二はしばらく、香織の言葉を受け取っていた。
「ありがとうございます」
立ち上がりながら、本を胸に抱えた。
「この本、大切にします」
その姿が、香織の目に残った。
本を胸に抱えた老人の姿が。
言葉が、届いた。
三十年という時間を越えて、確かに、届いた。




