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最後の校閲  作者: ジェミラン
第四章「校閲者の掟」
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第9話

 六月の末に、馬渕から連絡が来た。


 件名は「本のタイトルについて」。


 本文を開くと、短い文章が入っていた。


*里緒さんと相談して、作品集全体のタイトルを決めました。『言葉の墓守』にします。水無月氏が生前、校閲者のことをそう呼んでいたと、里緒さんから聞きました。二作品を収録した本の表題として、これ以上のものはないと思っています。報告まで。*


 香織は画面を見つめた。


 言葉の墓守。


 それはプロローグで、香織が水無月のメモの中に見つけた言葉だった。


*校閲は、言葉の墓守だ。*


 あの一節が、本のタイトルになった。


 水無月透が校閲者に向けて書いた言葉が、今、本の表題として世に出ようとしている。


 香織はしばらく、その言葉を眺めた。


 言葉の墓守。


 墓守というのは、地味な仕事だ。華やかではない。誰も見ていない場所で、誰かの痕跡を守る。消えないように、正しく残るように、手を入れ続ける。


 三十年間、自分がしてきた仕事の名前が、ここにあった。


---


 返信した。


*良いタイトルです。ありがとうございます。*


 送信してから、今月で二度目の「良い」を馬渕に送ったことに気づいた。


 一度目はあとがきに。二度目はタイトルに。


 どちらも、本当にそう思ったから書いた。


 思っていないことを書かないことと、思っていることを書くことは、対称ではない。思っていないことを書かないのは当然だが、思っていることを書くことには、一歩の勇気が要る。


 その一歩が、今年に入ってから、少し軽くなった気がした。


---


 七月になった。


 梅雨が明けて、夏の光が街を照らし始めた。


 香織は新しい案件を二つ担当していた。どちらも通常の案件で、水無月の原稿のような特別な重みはない。しかしどちらも、丁寧に読んだ。


 すべての原稿に、同じ姿勢で向かう。


 それが、変わらない校閲者の掟だ。


 一方で、吉田の成長が目に見えてきた。


 四月に入ったばかりの頃は、一つのゲラを確認するのに時間がかかりすぎていた。丁寧すぎて、遅かった。しかし今月に入ってから、速度と精度のバランスが取れてきた。


 先週、吉田が最初に単独で仕上げた案件を、香織が最終確認した。


 見落としは、二カ所あった。


 一カ所は軽微な表記のぶれ。もう一カ所は、固有名詞の確認不足。


 香織は赤を入れて、吉田に渡した。


「二カ所ありました」


 吉田は緊張した顔で受け取り、確認した。


「すみません」


「謝らなくていいです。覚えておいてください」


「はい」


「どんな見落としだったかを、手帳に書いておくといいですよ。自分の羅針盤になります」


 吉田は頷いた。先月の会話を覚えていた。


 その夜、吉田から短いメッセージが来た。


*今日の見落とし、手帳に書きました。一つ目は表記のぶれ——固有名詞と普通名詞の区別が曖昧だったこと。二つ目は確認が甘かったこと。次は気をつけます。*


 香織は返信した。


*それで十分です。*


 短い言葉だったが、必要なことは言えた、と思った。


---


 七月の半ばに、装丁の最終案が届いた。


 馬渕が写真データを送ってきた。


 表紙は、深い紺色を基調にしていた。光沢のない、落ち着いた紺。中央に、細い白い文字でタイトルが入っていた。


*言葉の墓守 水無月透*


 著者名の下に、小さく入っていた。


*『空白の証言』『硝子の証人』収録*


 香織は画面を、しばらく見つめた。


 デザイナーが言っていた。静かな怒りのある本を、派手さではなく密度で見せる。


 その通りの装丁だった。


 紺色は、怒りの色ではない。しかし深さの色だ。深い場所に何かがある、という予感を持つ色だ。その深さの中から、白い文字が浮かび上がる。


 手に取りたくなる本だ、と香織は思った。


 里緒が言っていた言葉を思い出した。


 父が好きそうな感じで、派手じゃなくて、でも手に取りたくなる。


 その通りのものが、できていた。


---


 八月に入ると、刊行の準備が最終段階に入った。


 印刷が始まったと、馬渕から連絡が来た。


 印刷中、という言葉を受け取って、香織は少し不思議な感覚を覚えた。


 今この瞬間、水無月透の言葉が、インクとして紙に刷られている。


 地下の書庫で二十九年間眠っていた言葉が、機械の中を通って、紙の上に生まれ直している。


 何万部という数で。


 一冊一冊に、水無月の言葉が入っている。


 校閲で入れた赤の跡は、もう残っていない。正された言葉だけが残っている。骨格だけが残っている。


 それが、校閲の仕事の完成形だ。


 跡を残さず、しかし確かに働いた。


 言葉の墓守は、墓そのものには名前を彫らない。しかし墓が正しく建つように、石を支える。


---


 八月の末、見本誌が届いた。


 馬渕が校閲部まで持ってきた。


 一冊を、香織に差し出した。


「最初に渡したかった」


 香織は受け取った。


 深い紺色の表紙。白い文字。


*言葉の墓守 水無月透*


 手のひらで表紙を触った。


 紙の質感が、画面で見るより柔らかかった。


 香織はゆっくりと、本を開いた。


 扉のページ。目次。そして本文の最初のページ。


 『空白の証言』の冒頭。


*私は、消された言葉について書く。*


 二十九年前に書かれた、最初の一文。


 それが今、印刷された活字として、正しく残っていた。


 香織はページをめくった。


 自分が校閲した言葉が、一文ずつ続いていた。


 赤ペンで直した箇所は、直った状態で残っている。青ふせんを貼った箇所は、正しく整理されて残っている。


 跡は、ない。


 しかし確かに、ここに来た。


 奥付を開いた。


*校閲 村上香織*


 自分の名前が、活字になっていた。


 三十年間、奥付に名前が入ったことはなかった。


 初めて、自分の名前が本に残った。


 言葉の墓守が、言葉の中に残った。


---


 三枝が、香織の手元を覗き込んだ。


「見本誌、来たんですね」


「はい」


「見せてください」


 香織は三枝に本を渡した。


 三枝は表紙を見て、奥付を開いた。


「村上さんの名前、入ってる」


「はい」


「良かった」三枝の声が、少し詰まった。「本当に良かった」


 三枝が涙をこらえているのが分かった。


 香織は何も言わなかった。


 しかし三枝の感情を、正しいと思った。


 この一冊が出来上がるまでの過程を、三枝は知っている。書庫で資料を探し、大石に協力を頼み、香織の食事を心配し、一緒に考えてきた。


 その時間が、この一冊に入っている。


 三枝の涙は、その時間への正直な反応だ。


---


 夕方、馬渕から連絡が来た。


*見本誌、受け取りましたか。来週、里緒さんにも届けます。発売は九月十五日です。書店で一緒に見る約束、覚えていますか。*


 香織は返信した。


*覚えています。九月十五日、楽しみにしています。*


 楽しみにしています、という言葉を、自分に許可した。


 仕事の言葉ではなく、人の言葉として。


 それが今の香織には、自然だった。


 見本誌をデスクの上に置いて、香織は窓の外を見た。


 八月の夕空が、オレンジに染まっていた。


 夏の終わりの色だ。


 この色が変わって、秋になったとき、水無月の本が書店に並ぶ。


 香織は深い紺色の表紙を、もう一度見た。


 言葉の墓守。


 三十年間の仕事の名前が、ここにある。


 それで、十分だった。


 充足の十分として。

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