第9話
六月の末に、馬渕から連絡が来た。
件名は「本のタイトルについて」。
本文を開くと、短い文章が入っていた。
*里緒さんと相談して、作品集全体のタイトルを決めました。『言葉の墓守』にします。水無月氏が生前、校閲者のことをそう呼んでいたと、里緒さんから聞きました。二作品を収録した本の表題として、これ以上のものはないと思っています。報告まで。*
香織は画面を見つめた。
言葉の墓守。
それはプロローグで、香織が水無月のメモの中に見つけた言葉だった。
*校閲は、言葉の墓守だ。*
あの一節が、本のタイトルになった。
水無月透が校閲者に向けて書いた言葉が、今、本の表題として世に出ようとしている。
香織はしばらく、その言葉を眺めた。
言葉の墓守。
墓守というのは、地味な仕事だ。華やかではない。誰も見ていない場所で、誰かの痕跡を守る。消えないように、正しく残るように、手を入れ続ける。
三十年間、自分がしてきた仕事の名前が、ここにあった。
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返信した。
*良いタイトルです。ありがとうございます。*
送信してから、今月で二度目の「良い」を馬渕に送ったことに気づいた。
一度目はあとがきに。二度目はタイトルに。
どちらも、本当にそう思ったから書いた。
思っていないことを書かないことと、思っていることを書くことは、対称ではない。思っていないことを書かないのは当然だが、思っていることを書くことには、一歩の勇気が要る。
その一歩が、今年に入ってから、少し軽くなった気がした。
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七月になった。
梅雨が明けて、夏の光が街を照らし始めた。
香織は新しい案件を二つ担当していた。どちらも通常の案件で、水無月の原稿のような特別な重みはない。しかしどちらも、丁寧に読んだ。
すべての原稿に、同じ姿勢で向かう。
それが、変わらない校閲者の掟だ。
一方で、吉田の成長が目に見えてきた。
四月に入ったばかりの頃は、一つのゲラを確認するのに時間がかかりすぎていた。丁寧すぎて、遅かった。しかし今月に入ってから、速度と精度のバランスが取れてきた。
先週、吉田が最初に単独で仕上げた案件を、香織が最終確認した。
見落としは、二カ所あった。
一カ所は軽微な表記のぶれ。もう一カ所は、固有名詞の確認不足。
香織は赤を入れて、吉田に渡した。
「二カ所ありました」
吉田は緊張した顔で受け取り、確認した。
「すみません」
「謝らなくていいです。覚えておいてください」
「はい」
「どんな見落としだったかを、手帳に書いておくといいですよ。自分の羅針盤になります」
吉田は頷いた。先月の会話を覚えていた。
その夜、吉田から短いメッセージが来た。
*今日の見落とし、手帳に書きました。一つ目は表記のぶれ——固有名詞と普通名詞の区別が曖昧だったこと。二つ目は確認が甘かったこと。次は気をつけます。*
香織は返信した。
*それで十分です。*
短い言葉だったが、必要なことは言えた、と思った。
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七月の半ばに、装丁の最終案が届いた。
馬渕が写真データを送ってきた。
表紙は、深い紺色を基調にしていた。光沢のない、落ち着いた紺。中央に、細い白い文字でタイトルが入っていた。
*言葉の墓守 水無月透*
著者名の下に、小さく入っていた。
*『空白の証言』『硝子の証人』収録*
香織は画面を、しばらく見つめた。
デザイナーが言っていた。静かな怒りのある本を、派手さではなく密度で見せる。
その通りの装丁だった。
紺色は、怒りの色ではない。しかし深さの色だ。深い場所に何かがある、という予感を持つ色だ。その深さの中から、白い文字が浮かび上がる。
手に取りたくなる本だ、と香織は思った。
里緒が言っていた言葉を思い出した。
父が好きそうな感じで、派手じゃなくて、でも手に取りたくなる。
その通りのものが、できていた。
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八月に入ると、刊行の準備が最終段階に入った。
印刷が始まったと、馬渕から連絡が来た。
印刷中、という言葉を受け取って、香織は少し不思議な感覚を覚えた。
今この瞬間、水無月透の言葉が、インクとして紙に刷られている。
地下の書庫で二十九年間眠っていた言葉が、機械の中を通って、紙の上に生まれ直している。
何万部という数で。
一冊一冊に、水無月の言葉が入っている。
校閲で入れた赤の跡は、もう残っていない。正された言葉だけが残っている。骨格だけが残っている。
それが、校閲の仕事の完成形だ。
跡を残さず、しかし確かに働いた。
言葉の墓守は、墓そのものには名前を彫らない。しかし墓が正しく建つように、石を支える。
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八月の末、見本誌が届いた。
馬渕が校閲部まで持ってきた。
一冊を、香織に差し出した。
「最初に渡したかった」
香織は受け取った。
深い紺色の表紙。白い文字。
*言葉の墓守 水無月透*
手のひらで表紙を触った。
紙の質感が、画面で見るより柔らかかった。
香織はゆっくりと、本を開いた。
扉のページ。目次。そして本文の最初のページ。
『空白の証言』の冒頭。
*私は、消された言葉について書く。*
二十九年前に書かれた、最初の一文。
それが今、印刷された活字として、正しく残っていた。
香織はページをめくった。
自分が校閲した言葉が、一文ずつ続いていた。
赤ペンで直した箇所は、直った状態で残っている。青ふせんを貼った箇所は、正しく整理されて残っている。
跡は、ない。
しかし確かに、ここに来た。
奥付を開いた。
*校閲 村上香織*
自分の名前が、活字になっていた。
三十年間、奥付に名前が入ったことはなかった。
初めて、自分の名前が本に残った。
言葉の墓守が、言葉の中に残った。
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三枝が、香織の手元を覗き込んだ。
「見本誌、来たんですね」
「はい」
「見せてください」
香織は三枝に本を渡した。
三枝は表紙を見て、奥付を開いた。
「村上さんの名前、入ってる」
「はい」
「良かった」三枝の声が、少し詰まった。「本当に良かった」
三枝が涙をこらえているのが分かった。
香織は何も言わなかった。
しかし三枝の感情を、正しいと思った。
この一冊が出来上がるまでの過程を、三枝は知っている。書庫で資料を探し、大石に協力を頼み、香織の食事を心配し、一緒に考えてきた。
その時間が、この一冊に入っている。
三枝の涙は、その時間への正直な反応だ。
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夕方、馬渕から連絡が来た。
*見本誌、受け取りましたか。来週、里緒さんにも届けます。発売は九月十五日です。書店で一緒に見る約束、覚えていますか。*
香織は返信した。
*覚えています。九月十五日、楽しみにしています。*
楽しみにしています、という言葉を、自分に許可した。
仕事の言葉ではなく、人の言葉として。
それが今の香織には、自然だった。
見本誌をデスクの上に置いて、香織は窓の外を見た。
八月の夕空が、オレンジに染まっていた。
夏の終わりの色だ。
この色が変わって、秋になったとき、水無月の本が書店に並ぶ。
香織は深い紺色の表紙を、もう一度見た。
言葉の墓守。
三十年間の仕事の名前が、ここにある。
それで、十分だった。
充足の十分として。




