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最後の校閲  作者: ジェミラン
第四章「校閲者の掟」
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第8話

 六月になった。


 梅雨の前の、微妙な季節だ。晴れた日と曇った日が交互に来て、気温が安定しない。朝にコートが必要な日もあれば、昼に汗ばむ日もある。


 香織は毎朝、窓の外を見てからコートを選んだ。


 三十年間、同じことをしてきた。天気予報は見るが、最終的には窓の外の空気の色で判断する。言葉と同じだ、と思う。データや理論より、直接見て感じることが、判断の基準になる。


 六月の最初の週、歴史小説の校閲が終わった。


 六百枚の原稿を、一ヶ月以上かけて読み切った。時代考証の確認に手間がかかったが、著者の筆力が強く、最後まで集中が続いた。良い原稿は、校閲者の集中を持続させる。それも、三十年間で知ったことだ。


 校閲完了の報告を担当編集者に送り、原稿を返した。


 また次の仕事が来るまで、少し時間ができた。


---


 その空白の時間に、香織は一つのことをした。


 自分のノートを、改めて読み直した。


 今年の一月から書いてきたノートだ。水無月の案件が始まる前から、断続的に書き留めてきた思考の記録。


 読み返すと、一月と今では、言葉の密度が違った。


 一月に書いたことは、短く、乾いていた。


*校閲者は、誰にも気づかれない場所で仕事をする。それが正しい在り方だ。*


 そう書いていた。


 今の香織には、それが完全に正しいとは思えない。


 誰にも気づかれないことが、正しい在り方の一つではある。しかし、それだけが正しい在り方ではない。


 気づかれることにも、意味がある。


 校閲者の名前が奥付に残ることが、次の校閲者への道になる。吉田に失敗の話をしたことが、彼女の羅針盤になりうる。三枝に見ていた、と言われたことが、伝わっていたものの証拠になった。


 一月の自分は、見えないことだけを正しいと思っていた。


 今の自分は、見えることにも意味があると知っている。


 それが、この半年で変わったことだった。


---


 週の半ば、馬渕から連絡が来た。


*来週、著者校の代わりとして、里緒さんに原稿の最終確認をしてもらう予定です。村上さんにも、同席をお願いできますか。*


 著者校。


 通常は著者本人が、刊行前の最終稿を確認する工程だ。しかし著者は亡くなっている。その代わりとして、里緒が確認する。


「はい、参加します」と返信した。


---


 著者校は、社内の小会議室で行われた。


 里緒が来た。今日は紺のワンピースを着ていた。喪中の黒から完全に離れた色だ。


 テーブルの上に、最終稿の束が置かれていた。『硝子の証人』と『空白の証言』、二冊分の原稿。それぞれにページ数が振られ、校閲の赤が入った跡も残っている。


 馬渕が説明した。


「本文の確認と、タイトル周りの確認をお願いしています。著者の意図に反する変更がないかどうか、最終的に見ていただきたい」


 里緒は頷いて、原稿を手に取った。


 香織は隣に座って、里緒が確認する様子を見守った。


 里緒は丁寧に読んだ。ページをめくるたびに、指先が止まる箇所があった。その箇所で、里緒は少し間を置いてから、また読み進めた。


 何度か、里緒の目が潤んだ。


 香織は何も言わなかった。


 泣くことは、正しい反応だ。水無月透の言葉を、娘が最初に読む瞬間。その感情を、誰かが整えようとすることは、言葉に対して失礼だ。


 二時間ほどかかって、里緒は読み終えた。


「大丈夫です」


 里緒は馬渕に言った。


「父の言葉が、正しく残っています」


 馬渕は頷いた。


「一カ所だけ、確認させてください」


 里緒が原稿の一点を示した。


 第五章の、ある段落だ。


「ここの一文、父らしくない気がして」


 香織は該当箇所を確認した。


*言葉は正直に扱われるべきだ。それが、この三十年間、私が信じてきたことだ。*


「どう、らしくないと感じますか」


「父は、こういう直接的な書き方をあまりしない人でした。もう少し、遠回しに書くと思って」


 香織は頷いた。


 確かに、この一文は他の箇所より直接的だ。水無月の文体とは、わずかに異なる。


「里緒さん、原稿の他の部分と、もう一度読み比べてもらえますか」


 里緒は前後のページを読んだ。


 少し考えてから、言った。


「……あ、分かりました。この直前の段落が、遠回しに書いてあるから、この一文で直接言うことで、意図的にリズムを変えているんですね」


「そう読めます」


「故意の直接性、ですか」


「はい。水無月先生は、最後の章で少しずつ文体を変えています。最初は抑制が強く、後半に向かうほど、感情が表に出てくる。その流れの中で、この一文は計算された直接性だと思います」


 里緒はしばらく考えてから、頷いた。


「分かりました。このままで大丈夫です」


---


 著者校が終わり、里緒が帰り支度を始めた頃、香織に言った。


「村上さん、今日来てくれてよかったです」


「私がいなくても、里緒さんは気づいていたと思います」


「でも、説明してもらえなかったら、不安なままでした」


 里緒は鞄を持ちながら、続けた。


「一つ、お願いがあります」


「何でしょう」


「本が出たとき、一緒に書店に行きませんか。並んでいるのを、見たい」


 香織は少し驚いた。


「里緒さんと、ですか」


「はい。馬渕さんも一緒に。できれば、三枝さんも」


 本が並んでいるのを、一緒に見る。


 そういうことを、香織はこれまでしたことがなかった。本が刊行された後、書店に行くことはある。しかし、誰かと一緒に行って、並んでいるのを確認したことはない。


「喜んで」


 言葉が、自然に出た。


 里緒は少し笑った。


「ありがとうございます」


---


 里緒が帰った後、馬渕が香織に言った。


「今日の対応、ありがとう」


「著者校の同席は、通常の業務です」


「通常ではない部分もあった。里緒さんが指摘した箇所の説明は、あなたでなければできなかった」


「原稿を丁寧に読んでいれば、誰でも気づきます」


「丁寧に読むことが、全員にできるわけではない」


 馬渕の言葉は、柔らかかった。


 反論の余地がなかった。しかし、受け取ることに、今日は抵抗がなかった。


「里緒さんが、書店に一緒に行きたいと言っていました」


「聞こえた」馬渕は少し口元を動かした。「行こう、もちろん」


「秋に出ますから、まだ先の話ですが」


「秋まで、まだある」馬渕は言った。「しかし、あっという間に来る気がしている」


 香織も、そう思った。


 定年まで、あと十ヶ月を切っていた。


 そしてその前に、水無月の本が出る。


 二つの時間が、同じ方向に流れていた。


---


 その夜、香織は自宅でお茶を飲みながら、今日のことを考えた。


 里緒が原稿を読む姿を、思い返した。


 ページをめくるたびに止まった指先。潤んだ目。最後の「父の言葉が、正しく残っています」という言葉。


 正しく残っています。


 その言葉が、香織の胸の中に、今日一日でいちばん深く残った。


 校閲者の仕事の意味を、娘が一言で言い表してくれた。


 正しく残す。


 誰かの言葉を、正しく残すことが、校閲者の仕事だ。


 三十年間、そのことを言語化できていなかった。仕事の定義として、正確ではあるが、温度のある言葉で言えていなかった。


 今日、里緒の言葉で、それが届いた。


 香織はノートを開いた。


 今日の言葉を、書き留めた。


*正しく残す。それが、校閲者の仕事だ。言葉の骨を見つけることは、骨を正しく残すことだ。残ったものが、次の人間に届く。*


 書き終えて、ペンを置いた。


 お茶が冷めていた。


 台所で新しいお茶を入れながら、秋のことを思った。


 書店の棚に、水無月透の本が並ぶ。


 里緒と、馬渕と、三枝と、一緒にそれを見る。


 その日が来ることを、今夜初めて、具体的に想像した。


 温かいお茶を持って、窓の前に立った。


 六月の夜空は、雲が多かった。星は見えなかった。


 しかし香織は知っている。


 星は、見えなくてもそこにある。

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