第7話
五月の第三週、馬渕があとがきの最終稿を送ってきた。
香織は受け取ってすぐに読んだ。
先週の版との違いは、最後の段落だった。桑田との打ち合わせを経て、馬渕が少し書き足していた。
*この本の刊行が、出版という仕事の在り方について、読者と業界の双方に問いを投げかけることを、担当編集者として望んでいる。著者の言葉を守ることが、編集者の仕事だ。それを三十年間できなかった者が言える言葉ではないかもしれない。しかし、できなかったからこそ、言う。できなかった者が、そのことを明らかにすることが、次にできる者への道になると信じて。*
香織は、その段落を三度読んだ。
できなかった者が、そのことを明らかにすることが、次にできる者への道になる。
馬渕は三十年間の失敗を、次への礎として位置づけた。
それは自己弁護ではない。失敗を認めた上で、それを意味のある形に変えようとしている。
言葉の使い方として、正確だった。
そして、正直だった。
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香織はあとがきの最終校閲を始めた。
先週の版から、誤字は一つ増えていた。書き足した段落に、変換ミスが一カ所あった。赤を入れた。
それ以外は、直す箇所がなかった。
馬渕の文章は、完成していた。
返信メールに修正箇所を伝えて、最後に一文付け加えた。
*良いあとがきです。*
送信してから、少し迷った。
校閲者が「良い」と評価することは、通常しない。校閲者の仕事は、正しいかどうかを確認することであって、良いかどうかを判断することではない。
しかし今日は、書いた。
馬渕がこのあとがきを書くことが、どれだけ難しかったか。それを知っているから、書いた。知っている者が、知っているということを示すことは——言葉への誠実さの、一つの形だと思った。
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午後、三枝が声をかけてきた。
「村上さん、少し相談していいですか」
「はい」
「四月に入った新人の件なんですけど」
四月に入社した校閲部の新人は、吉田美咲という女性だ。二十二歳、大学で日本語学を専攻していた。真面目で、細かいところによく気がつく。しかし、まだ仕事のペースがつかめていない段階だ。
「吉田さんがどうかしましたか」
「最近、元気がなくて」三枝は少し心配そうに言った。「ミスを気にしすぎているみたいで。先週、ゲラの確認で一カ所見落としがあって、それからずっと落ち込んでいる感じで」
「一カ所の見落としで」
「はい。深刻に受け止めすぎているというか——自分は校閲に向いていないんじゃないか、って言っていました」
香織はしばらく考えた。
「どう声をかければいいか、分からなくて」三枝は続けた。「村上さんはどう思いますか」
「吉田さんを、今呼んできてもらえますか」
三枝は少し驚いた顔をしたが、「はい」と言って席を立った。
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吉田美咲は、おずおずと香織のデスクに近づいてきた。
小柄で、目が細く、緊張すると口元が固くなる癖がある。今日は、その口元がいつも以上に固かった。
「座ってください」
香織は向かいの椅子を示した。
吉田は「はい」と言って、背筋を伸ばして座った。
「先週の件、聞きました」
吉田の顔が、わずかに曇った。
「すみません、確認が不十分で」
「謝らなくていいです。謝罪の話ではないから」
吉田は香織を見た。
「私が入社二年目のとき、歴史小説の元号を一つ取り違えました」
吉田が少し目を丸くした。
「気づいたのは、本になってからです。読者から指摘の手紙が来て、初めて分かった。増刷のたびに修正が入りました。奥付に、二刷修正版という文字が刻まれた」
「それは——」
「三十年間、その失敗を覚えています。目を閉じれば、今でも、その元号の文字が見えます。取り違えた元号と、正しい元号が、並んで浮かびます」
吉田は黙って聞いていた。
「もう二つあります。三十年で、大きな見落としが三つあります」
「三つだけ、ですか」
その問いが、正直だった。
「三つだけ、と感じますか」
「はい。三十年で三つは、少ないと思います」
香織は少し考えた。
「多いのか少ないのか、今でも分かりません。ただ、三つとも、今も覚えている。それが大事なことだと思っています」
「なぜですか」
「覚えているから、次は気をつけます。忘れた失敗は、繰り返します。覚えている失敗は、繰り返さない可能性が高い」
吉田はしばらく考えていた。
「でも、見落としをしたことは、事実で」
「事実です。変えられません」
「それでも、続けていいんでしょうか」
香織は吉田を見た。
二十二歳の、真剣な目だった。
「続けていいです」
短く、しかしはっきり言った。
「一カ所の見落としで、校閲に向いていないとは、なりません。向いていないかどうかは、もっと長い時間をかけて分かることです。一つの失敗で判断するには、まだ早すぎます」
「でも、村上さんは三つの失敗を覚えていて、それが重荷になっていませんか」
吉田の問いは、鋭かった。
香織は少し考えた。
「重荷かどうか——正直に言えば、重荷だった時期もありました。しかし今は、違います」
「どう変わりましたか」
「重荷ではなく、羅針盤になりました。どこへ向かえばいいかを示すものとして、三つの失敗があります」
吉田はその言葉を、しばらく口の中で転がしているように黙っていた。
それから、言った。
「羅針盤、ですか」
「失敗を覚えていることで、次の判断が変わります。あの失敗をしたから、ここは慎重に確認しよう、という判断が生まれます。それが羅針盤です」
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吉田が席に戻った後、三枝が小声で言った。
「ありがとうございます」
「三枝さんが気づいてくれたから、話せました」
「私、村上さんがそういう話をするの、初めて聞きました。自分の失敗のことを」
「初めて話した気がします」
「なぜ今日は」
香織は少し考えた。
「吉田さんに必要だったから。必要な言葉を、必要な時に言う。それは、校閲と同じです」
「校閲と同じ?」
「言葉を正しく扱うということは、必要なときに、必要なものを、正確に届けることです。赤ペンだけの話ではありません」
三枝はしばらく香織を見ていた。
「村上さん、それって、ちゃんと教えてますよね」
「何をですか」
「校閲のことを。言葉のことを。技術だけじゃなくて、姿勢を」
「そうでしょうか」
「そうです」三枝は確信を持って言った。「私も、この五年間で教わっていました。言葉で教わるんじゃなくて、見ていて教わっていた」
香織は三枝の言葉を、静かに受け取った。
言葉で教えていたわけではなかった。しかし、見ていた人間に、何かが伝わっていた。
それは言葉の働き方に、似ている、と思った。
書かれた言葉は、読んだ人間に何かを残す。声に出した言葉は、聞いた人間に何かを残す。行動もまた、見た人間に何かを残す。
言葉だけが、伝える手段ではない。
しかし言葉は、その中で最も正確に伝えられるものだ。
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その夜、帰宅してから、香織はノートを開いた。
先月、校閲者の掟について書いたページの続きに、今日気づいたことを書いた。
*言葉を正しく扱うことは、必要なときに、必要なものを、正確に届けることだ。赤ペンだけの話ではない。*
*失敗は、羅針盤になる。覚えているかぎり。*
*見ている人間に、何かが伝わる。言葉にしなくても。しかし言葉にすれば、より正確に伝わる。*
三項目書いて、ペンを置いた。
桑田に言われた言葉を思い出した。
いつかあなたが後進に伝えるとき、その言葉が必要になる。
後進に伝える言葉が、少しずつ形になっていた。
意図してそうしたわけではない。しかし、書き留めることで、形になっていく。
水無月透も、そうやって書いていたのかもしれない、と思った。
伝えるために書くのではなく、書くことで、伝えるべきものが形になっていく。
ノートを閉じて、香織は窓の外を見た。
五月の夜空に、星が出ていた。
東京で星が見えることは、多くない。しかし今夜は、いくつか見えた。
言葉も、こういうものかもしれない、と香織は思った。
普段は見えなくても、確かにそこにある。
条件が整ったとき、姿を現す。
水無月の言葉が、三十年を経て、今、姿を現そうとしている。




